白鵬より、貴乃花親方より、大谷翔平が気になる今日この頃……
現代プロ野球では常識的に不可能な投打の二刀流(ツーウェイ)。しかも、それをメジャーでやろうと言うのだから、遠い昔の野球少年としては「ぜひ、そのチャレンジを見届けたい!」と久しぶりに期待で胸が高鳴るのは当たり前。球団のネームバリューやマーケットの大きさには目もくれず、あくまで「自分のゴールに到達するのにベストな環境」を見極めて着実に夢の階段を上がろうとしている大谷君が、一体どこの球団を選ぶのだろう……とワクワクしながら待っていたら、今朝、その球団がロサンゼルス近郊のアナハイムに本拠内を置く「エンジェルス」に決まった!との速報あり。
エンジェルスがどんな球団かは詳しく知らないが、二刀流に対する不安を解消すべく綿密な育成・起用プランを提示したのは確実。私も早速、田中マー君の居るヤンキースから、エンジェルス・ファンへの転向を決めた。(とにかく来年以降がすごく楽しみだが、今はただ、その大きな夢と類まれな才能の開花を祈るのみ。焦るなよ~、ケガするなよ~)
さて、トランプが「エルサレム」をイスラエルの首都に認定した矢先、政治や社会の様々な問題も気になるが、年末くらいは日頃の憤りや嘆きを抑えて、大谷君のチャレンジのような夢のある話や好きな映画やサッカーの話題でブログを埋めたいと思っているが、日夜ツイッターで“闘い”続けている映画監督の想田和弘氏も似たような気分らしく、「マガジン9」(ウェブマガジン)でこんなことを言っている。
《自分のコラムを振り返ってみると、そのほとんどは政治に関するもので、世の中の現象や出来事に対する批判や危機感に満ちている。ツイッターやフェイスブックの投稿を振り返ってみても同様だ。
祖国である日本でも、生活の場であるアメリカでも、デモクラシーが危機的状況にあることを考えれば、半ばしかたがないことではある。書かざるをえない理由がある。
しかし、驚き呆れるようなニュースに毎日反応し続け、批判ばかりしていると、心身ともに疲れてくるのも事実だ。僕は怒りに火がつかないように気をつけているし、ついてもすぐに消火するように心がけているけれども、それでもやはり怒りは生じていて、知らない間に心身を焦がしているのだと思う。
マガジン9の読者には、僕と似たような状況の人も多いのではないだろうか。
だから年末くらいは政治や社会への批判はお休みにして、今回は日頃の“闘い疲れ”に手当てをし、傷を癒す方法について書いてみたい》
……で、彼自身は“闘い疲れ”を癒すために1年半くらい前から「観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」という“ブッダが悟りを開いた究極の瞑想法”を毎日30分ほどやり続けているらしく、最近はそれに加えて「慈悲の瞑想」というのも始めたとのことで、それを読者に紹介している。
《これもブッダの教えに基づく古い瞑想法だが、別に宗教色があるわけではない。そして簡単だ。具体的には、次の言葉を心をこめて唱える。口に出してもいいし、心の中で唱えてもよい》そうだ。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回くり返す)
私の親しい人々が幸せでありますように私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回くり返す)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回くり返す)
これを毎日15分~30分くらい行うのが基本。でもそこまで長く唱えなくても、念じはじめた瞬間から心が落ち着いてくる(そうだ)。
そうかなあ?と微妙に疑いながら、試しに1回やってみた……
なるほど、悪くない気分だが、想田さんのように“闘い疲れ”が残るほど日夜闘い続けているわけでもなく、日頃から拝んだり念じたりするのが苦手でその習慣もない自分には、少しくすぐったい感じもする。
さらに彼が言うには、この瞑想に慣れたら、次のオプションがあるそうで……それは1日1回唱えるだけで十分とのこと。
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私の嫌いな人々も幸せでありますように (3回くり返す)
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように (3回くり返す)
う~ん、これはどう考えても俺には無理だよなあ……と思いながら、試しにまた薄目をあけて唱えてみた。
が、意外や意外。嫌いな人々・嫌っている人々と何度か唱えているうちに、嫌いな人々の顔がまったく浮かばなくなり、想田さんが言うように《自分や他者を慈しむ心が、自分の中にもちゃんとあるのだということ》が多少なりとも気づかされたせいだろうか、妙に心が落ち着き、ふんわりと穏やかな気分になれる不思議。
そのコラムの最後、彼はこう結んでいる。
《思えば、僕が政治や社会のあり方に危機感を抱き、批判を続けているのも、「自分も、親しい人も、知らない人も、動物も、植物も、みんなが幸福でいられたらよいのに」と願うからではなかったか。ところが批判を続けていると、いつのまにか「怒り」に火がついてしまって、誰かを敵対視してしまうようになる。本当はそういう「敵」も含めたみんなが幸福でいられる世の中を目指したいのに、そのことをついうっかりと忘れてしまう》
このご時世、私にさえも、“闘い疲れ”を癒し、爆発しそうな怒りを抑えるために、この瞑想を唱えずにはいられない日が幾度も来るのかもしれないが、とても今は「嫌いな人々(例えば、安倍とかトランプとか)」の幸せを祈る気にはなれない。まずは本当に祈りたいことだけを唱えておきたい。
私は幸せでありますように
私の親しい人々が幸せでありますように
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