2019/08/29

昨日の「なるほど」、「お粗末すぎ」




まず、「なるほど」から。

昔のお客は笑うまいとし、いまのお客は、とにかく笑おうとする。(立川談志)

《昔は、寄席通の客は「落語家の芸の年輪を味わう」ような聞き方をした。反対に、ウケを狙った「底の浅い」噺(はなし)にはソッポを向いたと、落語家は言う。その点、今の客は「こらえ性がない」というか、「笑い声の陰でじっとみている」ことができない。噺家はそういう連中を笑わせてこそほんものなのにと。ウケることと優れていることは違う。若き日の『現代落語論』から。》(朝日新聞8/28朝刊「折々のことば」より)

「笑い声の陰でじっとみている」ことができない(客が多い)のは、「自分だけの価値基準や批評眼、落語及び笑いに対するこだわりと探究心を持っていない(人が多い)」からだろう。

談志の言う“いまのお客”の“いま”が何時頃を指しているのか分からないが、ここ数年、私たちが暮らす社会では、例えばNHK「なつぞら」の“一久さん”のように、思い入れが強く、自分にも人にも高いハードルを課すような人、論理的に物事を突き詰めようとする人などは「面倒くさい」と避けられ、「ノリがいい」とか「場を和ませる」とか“笑いのハードル”が低く、物事にあまりこだわらない人の方が好まれる…みたいな風潮があるように思うし、多くの客が「とにかく笑おうとする」のも、そんな社会の風潮と無関係ではないはず。
知らず知らずのうちに自らの個性を薄めて周囲に合わせるような、意識・姿勢が身についてしまう社会……それが今の日本なのかも? と、あの世に行っても気づかせてくれるあたり、やはり、談志の感覚は鋭かった。
(ちなみに現在、私が“笑おう”とせずに笑える芸人は「千鳥」「サンドイッチマン」、たまに「爆問」「ナイツ」「中川家」……と、ごくわずか。最近は「和牛」のように、「上手すぎて、笑えない」という漫才コンビもいて評価に困るけれど)

続いて、「お粗末すぎ」の方。

台風も日本のせいと言いそな韓

8/27の毎日新聞「仲畑流万能川柳」に載った一句(仲畑貴志選 “秀逸”マーク入り)が、「ネトウヨ川柳」「ヘイトだ!」「嫌韓を煽るな」など批判が殺到し、炎上→デジタル版の記事・ツイート削除に…。

う~ん、お粗末。載せた毎日も選んだ仲畑さんもダサすぎて「なんも言えねぇ」…と言う感じ。

一見、その句自体は「ヘイト!」と決めつけ糾弾するほど目立って乱暴なものとは思えないが、韓国の人の立場に立って読めば偏見・嘲りが透けて見えるのは確かで、連日メディアが不毛な韓国叩きに興じている今、その風潮に迎合するような、風刺精神に欠ける“笑えない一句”をわざわざ選び掲載した人たちの見識とセンスが問われるのは当然のこと。

かつて「世の中、バカが多くて疲れません?」とテレビを通じて世相に斬り込み、女性たちの生きづらさを社会に問いかけた人が、今の日本の“バカたち”だけが喜びそうな川柳もどきを「秀句」に選んでしまったという、その無神経ぶりとセンスの雑さ加減に驚かされると同時に、何とも言えぬ寂しさを感じる。

時の流れと言えばそれまでだが、コピーライターとして私が最も影響を受けた二人(仲畑貴志と糸井重里)が、年々つまらない人になっていくような……

「あなたの人間は、大丈夫ですか?」というキャッチコピーを、今一度、作った本人に思い出してもらいたい、と思う。


 

2019/08/25

夏の日々のメモ(ラスト)




817日(土)
午前中、録画しておいた映画『ひろしま』(監督:関川秀雄/製作:日教組プロ、1953年)を鑑賞。

《原爆の恐怖と惨状を伝えようと、被爆から8年後に製作された反戦ドラマ。(8万人を超える広島市民が撮影に参加)》……「反米色が強すぎる」という理由で“お蔵入り”になった作品だが、いま観ると「反米色?…どこが?!」という感じ。
確かに「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」という、アメリカにとっては「痛い所を突かれた」的な台詞はあるが、それで上映禁止では「木を見て森を見ず」みたいな話。
観ている側は、原爆投下直後の惨状、その後の被災者たちの苦しみの再現を目指した執拗なリアリズムに目を奪われ、台詞ひとつに捉われている暇などない。(もしかすると、台詞だけじゃなく「日教組」製作という点も、気に入らなかったのかも?)

で、題材・演出・製作経緯の意義深さを踏まえた上で、とりわけ印象深かったのは、その「タイトルバック」。
山田五十鈴、岡田英次、月岡夢路、加藤 嘉……母が生きていれば大喜びしそうな新劇系の渋い顔ぶれがズラズラと。さらに、花沢徳栄、信欣三、原保美、若き日の松山英太郎、河原崎健三などなど。これだけの俳優たちが参加した反戦映画というだけで、観る価値大。それが地上波で流れるとは……やるね、Eテレ!

午後はネットでニュースチェックなど。

荻上チキのラジオ番組「Session-22」出演後のソ・テギョ氏のツイート。
「日韓関係悪化について一番言いたかったことは、日本国内の嫌韓感情がボディーブローのように効いているということだ。嫌韓感情と右派政治家が出会う所に居丈高な外交が生まれる。その片翼を担うメディアと記者は心の底から恥じよ」

この日、最も「いいね!」を押したかったのは、「はな」さんという方のツイート。
《「朝から晩まで文在寅批判して、分析する暇あったら、安倍晋三の6年半の内政、外交の検証しろや!」と、老父が怒り心頭。本当にその通りだと思う。いい加減にしろよ。日本メディア》(この老父、私の分身のような…)

夜は、またまたNHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記~」。
初代宮内庁長官として昭和天皇のそばにあった田島道治による410カ月の記録(1949年~)……
昭和天皇には「反省の気持ちを公にしたい」という気持ちがあったが、吉田茂に止められたとのこと。その時ちゃんと「反省」の言葉が述べられ、広く知られていれば、歴史修正主義者が大手を振って歩けるような“今”になることもなかったろうに……。(なんてことをしてくれたんだ、「吉田茂」は!)

で、「反省」を口にしながら「憲法を改正して再軍備」とか……何を言ってるんだろうこの人は?という感じ。自分が「象徴」として生き残れたのは「憲法9条」のお陰なのに!
(戦争末期~終戦直後、アメリカ国内で天皇の戦争責任を問う声が多い中、また極東委員会主導で日本国憲法が制定された場合に天皇制の廃絶が明文化され、東京裁判の被告席に天皇が立たされる可能性が高い中、マッカーサーは「天皇制を残しても日本が二度と再び軍事国家の道を歩むことはない(歩めない)」ことをアメリカ及び極東委員会に納得させるため「憲法一条と九条二項はワンセット。バーターで制定された」という、故・加藤典洋氏の論は非常に説得力がある。と私は思っている)

以前にも「(広島市民には気の毒ではあるが)原爆投下はやむを得なかった」などと公の場で平然と語っていたわけで、「無責任かつ無神経な人」という印象は番組を観たあとも変わらず残ったまま。(まあ、長い間「神」をやっていた人だから、仕方ないか…)

818日(日)
11時頃ツレと一緒に家を出て、新宿へ。シネマカリテで『カーマイン・ストリート・ギター』を観る。

ギターを弾けないワタシでも、一度は行ってみたいなあ……と思わせてくれる「手作りギター店」の一週間を捉えたドキュメンタリー。
店員は3人、パソコンも携帯も持たない寡黙なギター職人のリック・ケリーと彼の母親ドロシー、そしてリックが“後継ぎ”と期待する見習いのシンディ……
で、この店には守り続けているルールがあり、それが「ニューヨークの建物の廃材を使って作る」こと。その唯一無二のギターを求めて、世界中から有名・無名のギタリストがやってくる。
(ギターを肩に来店した映画監督ジム・ジャームッシュの姿に、思わずニンマリ)

撮影風景はほとんど変わらない、ざわつくドラマも起きない、淡々とした一週間……なのに、とても心地よい気分にさせてくれる80分。
「俺のこの仕事は大した金にはなってないよ、貯金もないし。でも好きすぎて家でもギターを作ってるぐらいなのさ」……リックの声を聞きながら、久しぶりに「トリスの味は人間味」という仲畑さんのコピーを思い出した。

映画の後は、「手打そば大庵」で、遅めのランチ(ミニ天丼&蕎麦)。海老天うまし!

※このところ、高村薫の最新刊『我らが少女A』を読みながら寝るのが日課になっているが、いつも2ページほど読んだ所でウトウトしだし、そのままグッスリ……一向に進まない。

819日(月)
18日の香港「民主化デモ」、主催者発表で170万人とか。スゴい!のひと言。

日本で民主主義が根付かないのは、戦って勝ち取ったものではないから。と思っていたが、かつてイギリスの植民地だった香港の人々も、民主主義を戦って勝ち取ったわけではない。なのに、デモが嫌悪され迷惑がられる日本との、この違いは何?

「自由を奪われる」危機感・切迫感の違いもあるだろうが、恐らく教育の問題。イギリスが定着させようとした欧米型民主主義の理念・原則を、香港の人たちは子どもの頃からしっかり学び、返還後は「中国化」を目論む中国政府との軋轢を繰り返す中で、その本質的価値を自ら血肉化していったのだと思う。
日本のように「民主主義をしっかり教えない・教えたくない」人たちが長きに渡り教育行政を担い、一部の教科書とはいえ、中学「公民」の基本的人権の項目内容が自民党の改憲草案になっているような国とは、そもそも土台が違うし、とりわけ権利意識に大きな差が出るのは当然と言えば当然か。

午後、録っておいたETV特集「少女たちが見つめた長崎」を観る。

74年前、勤労動員中に被爆した長崎高女の生徒たちの日記が次々に見つかり、そこに綴られた様々な思いに触れた現代の女子高生たち(被爆した方々の後輩にあたる長崎西高生)が、その体験を受け継ごうと生存者の聞き取りを始める“ひと夏”を追ったドキュメンタリー。

「国家のお役にたちたい」と心底願う戦中の少女の日記に、「共感できるポイントを見つけ出せない」とまっすぐな眼差しで話す現代の女子高生。「被爆者の方々がなぜ、被害者なのに罪の意識に苛まれなくてはいけないのか」と怒りを込めて疑問をぶつける、もう一人の女子高生……その心情のリアルさ、頼もしいほどの思慮深さにほだされ、(何故か泣かされ)、これからの日本も捨てたもんじゃないと思えた。

以上で、「ひたすらドキュメンタリー」な“夏の日々”終了。

 

2019/08/23

夏の日々のメモ④




815日(木)敗戦記念日
毎年この日を迎えると、亡き母の話を思い出す。

74年前の今日、「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…」と始まる「玉音放送」を近所の人たちと一緒に聞いていた母は、「ようやく、イヤでイヤで仕方なかった戦争が終わる」という安堵の気持ちを抑えきれず、沈痛な面持ちの周囲に憚ることなく「あゝ、良かった」と思わず声を漏らしたという。それを耳にした知り合いの女性から「アッちゃん(母の愛称)、そんなことを言うもんじゃないよ」と強くたしなめられたそうだが……(その話を聞かされたのは10代半ば頃。戦争を忌み嫌う母の“天然”さを、息子ながらに嬉しく、頼もしく思ったものだ)

で、これまであまり気にもしていなかったのだが、「ポツダム宣言受諾(無条件降伏)」は分かったにしても、文語体で書かれた「玉音放送」の内容を母はどのくらい理解できていたのだろうか?
という疑問が今さらながら湧いてきた。(かく言う私も、「所詮、ただの言い訳」と、その全文を読んだことも読みたいと思ったこともなかったが)

ならば一度、この機会にちゃんと読んでおくのが筋。現代語に訳したものはないだろうか…とネットで探していたところ、割とすぐに見つかった。

「玉音放送を現代語にすると...」(ハフポスト日本版)


玉音放送の原稿「終戦の詔書」は、華族・軍部に信頼が厚く「政界の黒幕」的な存在だった陽明学者・安岡正篤(戦時中から政治家や右翼活動家に強い影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、台湾総統・蒋介石の助け舟により逮捕を免れた人物)によって書かれたもので、どれだけ昭和天皇の意思が反映したものかは分からないが……
「戦争に敗けた」ことには一切触れず、自ら始めた戦争であるにも関わらず「未来のために平和を実現するため」に「(戦争を)終わらす」と述べている点(「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の有名な一節)など、やはり“言い訳”としか思えないもの。(国民を欺くために、敢えて分かりにくい言葉を使ったのでは?…とさえ思う)

中でも特に違和感を覚えたのは「アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない」という部分。

関連して「全国戦没者追悼式」……天皇は「深い反省」の言葉を継承。安倍は今年も「反省」は無く「今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは決して忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧(ささ)げます」と述べた。

「尊い犠牲」?「敬意と感謝」?…人権無視の「大日本帝国」が突き進んだ自滅的な戦争によって命を無駄にされ、尊い人生を奪われた方々に、人権尊重の社会に生きる私たちがすべきは「感謝」ではなく、その悔しみ・悲しみを思い「安らかに」と願うこと、そして「過ちは二度と繰り返さない」と誓うことでは?

「太平洋戦争 戦没者の60%強140万人は餓死 この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたこと。 一方、官僚機構は敗戦後、司法含め証拠隠滅のため文書を焼いて保身を図る。誰も責任を取らない歴史だけが踏襲された。」(藤原彰『飢死(うえじに)した英霊たち』)

またこの日は、韓国の「光復節」(日本による植民地支配からの解放記念日)。文在寅大統領の演説全文を読んだ。
「民主主義を尊重し、理不尽な事には抗議しながらも、基本的には和平の道を探る」という内容。別に韓国及び文大統領の肩を持つわけではないが、理性も見識もある“まともな指導者”の姿を見せられた感じ。「そうだよなあ」と頷く部分が多かった。(日本のメディアは「日本批判が抑えられた」ことばかりを伝えるけれど)

夜は、NHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」
事件7日前に詳細を把握していた海軍がそれを隠蔽→決起部隊鎮圧後に「一審制・非公開・弁護人なし」の乱暴な軍法裁判で陸軍が幕引き→鎮圧の指揮を執った天皇の権威が高まり、それを軍部が利用し戦争突入……という流れ。最後のナレーションにNHKの意地を見た。
「極秘文書に残されていたのは、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿でした。事実とは何か。私たちは事実を知らないまま、再び誤った道へと歩んではいまいか」

P.S.
プレイディみかこ(イギリス在住の保育士・ライター・コラムニスト)著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)……すごーく面白かった。感想を書き出すと長くなりそうなので、幾つか印象に残った言葉を(タイトル自体とても印象的だけど)。

「万国の万引きたちよ、団結せよ」
「多様性はうんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」
「でも、よく考えてみれば、誰だってアイデンティティが一つしかないってことはないはず」
「時代遅れの反PC(ポリティカル・コレクトネス)な発言は本当によくないけど、その『時代遅れ』の部分を強調していじめるのもどうかと思うんだ」
「僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。……罰するのが好きなんだ」

 

2019/08/18

夏の日々のメモ③



811日(日)
録画しておいた「フランケンシュタインの誘惑E “水爆 欲望と裏切りの核融合”」を観る。(Eテレ8/8放映。「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーと「水爆の父」エドワード・テラーの物語)

「水爆はジェノサイド、大量殺戮兵器」と言って研究に消極的なオッペンハイマーに、「水爆を使用するか否かを決定するのは科学者の仕事ではない。発見することが科学者の仕事だ。いかなる科学においても重要なのはできることをすることなのだ」と、かつての師に反旗を翻し開発に執念を燃やすテラー……

普段、科学者の欲望などに無縁かつ興味のない私には、発見や発明の名誉にひたすら執着し「無限の破壊力の実現」に執念を燃やす彼の姿は“イカれてる”としか思えなかったが、この世界に大量破壊兵器が数多く存在している現実は、その狂気が普通の意識として正当化され、延々受け継がれていることの証左。
原爆犠牲者の鎮魂を祈るこの時期、広島・長崎の人々はもとより多くの日本人にとって赦しがたい「原爆の父」の存在も、「水爆の父」のイカれ具合に比べれば……と、空恐ろしくも虚しい気分にさせられる45分間だった。

夜は、「いだてん」からのNHKスペシャル「激闘ガダルカナル 悲劇の指揮官」…
日本陸軍の精鋭部隊(一木支隊)916名が、1万人を超えるアメリカ海兵隊に戦いを挑み、全滅した「ガダルカナルの戦い」を、アメリカが保有する膨大な戦闘記録を基に検証したもの。

個人的に、以前から「大和魂を最重視する無謀で好戦的な陸軍、理性的かつ合理的な思考を有しながら陸軍中心の開戦勢力に追従してしまった海軍」というイメージを持っていたが、この番組を見た後は「慢心の陸軍・邪心の海軍」という印象に(とりわけ海軍の独善性に唖然)……つまり、どちらも“ろくなもんじゃなかった”ということ。

正しいデータを把握せず、自分たちの都合の良い結果を捏造し、全滅という悲劇を招いた陸海上層部。にも関わらず、その失敗の全ての責任を現場に押し付けるという度し難さ……今の政権及び官僚たちの姿に通じる恥ずべき日本人の姿に、怒りを通り越して悲しくなってしまった。(で、何が悲しいって、これら膨大な資料のほとんどがアメリカ側から提供されたものであること。公文書やデータに関する認識があまりに違いすぎる)

812日(月)
連日の録画鑑賞。(暑い日は“家で映画”が一番)
ドキュメンタリー『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー』(製作:TBS2017年)を観る。(8/11、日本映画専門チャンネルにて放映)

第二次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人、度重なる弾圧にも屈することなく「民主主義」を求め米軍に立ち向かった男・瀬長亀次郎。民衆に支えられ、那覇市長、国会議員と立場を変えながら闘い続けた彼の知られざる実像と抵抗の人生を、関係者の証言を通して浮き彫りにしていくドキュメンタリー。(監督は元TBSキャスターの佐古忠彦。テーマ音楽は坂本龍一。ナレーターの一人に今は亡き名優・大杉蓮)

現在の「オール沖縄」という連帯も、さかのぼれば亀次郎さんが原点。何度アメリカに潰されそうになっても、余裕の笑みを浮かべて起き上がる「カメジロー」の姿に見惚れ、今なお沖縄県民の抵抗と希望の象徴として慕われ続ける、その不屈の魂のしなやかな強さに感じ入る一本。改めて「民主主義は勝ち取るべきもの」と思う。

夜は、「やすらぎの刻~道」(テレ朝)と並んで、いま最も気に入っているドラマ「監察医 朝顔」(フジ)を観た後、NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」……

《戦前最大の右派メディアが見つかった。時の司法大臣・小川平吉が、1925年に創刊した「日本新聞」である。新聞が発行されていた11年間は、日本が「大正デモクラシー」から急速に「軍国主義」に傾斜していった時代だった。なぜ日本人は、一度は手にしていたはずの「自由」を手放し、「戦争への道」を進んだのか。「日本新聞」を手がかりに、見つめていく》(NHK)という濃厚なドキュメンタリー。

で、私も最近知ったのだが、例えば「自分の感情」を「国民感情」に、「私の心」を「日本人の心」に拡大しちゃうこと(主語を大きくして語ること)や、自分(だけ)が思っているのに「みんながそうだと思い込む」ことを、流行りのCMにかけて「ハズキルーペ症候群」と言うらしいが、自分の意に沿わない主張や人物に「売国奴」「非国民」等のレッテルを貼り攻撃を繰り返していた「日本新聞」の11年間も、その「ハズキルーペ症候群」が徐々に蔓延し、過激化・拡大化していったような印象。現在の日本の状況とよく似ていることに慄然とする。
番組では大正デモクラシーで自由を謳歌した人が、「仕事がなくなった」等の理由で、いとも簡単に国家主義に傾倒していった事例が紹介されていたが、それも「民主主義教育」や欧米のカルチャーに囲まれて成長した6070代の高齢者たちが今、少なからず「ネトウヨ」にハマってしまう構図によく似通っているように思えた)

結局、日本は民主主義を追い続けながらも成熟できないまま、戦争、敗戦を経て再び“危うい今”に至っているということだろうか…う~ん、マジ虚無。(と、諦めてもいられませんが)

 

2019/08/15

夏の日々のメモ②




89日(金)長崎原爆の日
水木さんの『カランコロン漂流記』を読了。その中に「従軍慰安婦」と題された漫画が載っていた。(以下、その“吹き出し”の言葉)

「戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(中略)ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピーの前には100人くらい、ナワピー(沖縄出身)は90人くらい、朝鮮ピーは80人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人30分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし・・・・・いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。
(体調が悪そうなその女性は、水木さんが見ているのもかまわず小屋の外で排泄…)
とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから80人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが・・・・やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ。」
(「ココポ」は、パプアニューギニア東部のニューブリテン島東部の州都。彼女たちはその後、輸送船でココポを離れたが、途中潜水艦の魚雷にやられ、全員が死亡したという)

従軍慰安婦問題が存在すること自体を否定したい人たちは「自由意思で売春の道を選んだ」などと主張し、日本軍の罪を免罪しようとしているが、水木さんの本や多くの従軍経験者たちの記録・証言にもあるように、日本軍の管理下で兵士同様に人身の自由を奪われ性奴隷の状態にあったことは明らか。
いま普通に考えても、パプアニューギニア奥地のジャングルにまで連れてこられた女性たちが自由に故郷に帰ることなどできるわけがないし、体調不良にも関わらず一日に数十人もの男の相手をすることが自由意思であるはずもない。

というわけで、改めて「慰安婦問題」を学び、考える一日に…以下、特に印象深かった記事3本。

相模原の男性が語り続ける 慰安婦への加害の記憶
今さら聞けない「慰安婦」問題の基本を研究者に聞くhttps://www.cyzowoman.com/2019/08/post_244183_1.ht...

なぜ兵士は慰安所に並んだのか、

夜はテレビ。「報道1930」(BS TBS)からの「凪のお暇」(TBS)。

8月10日(土)
朝から、Eテレ「あの夏を描く 高校生たちのヒロシマ」、NHK BS1「アニメ 大好きだったあなたへ ヒバクシャからの手紙」の2本を録画鑑賞。(「ヒバクシャからの手紙」の番組ナビゲーター及び主人公の声は、注目の女優・清原果耶……透明な光と微かな影を感じさせる、演技力抜群の17歳)

夜は、友人たちとサッカー観戦(FC東京 VS ベガルタ仙台)……午後4時過ぎに家を出て西武池袋線→武蔵野線→南武線と乗り継ぎ、京王線の「飛田給」に着いたのは午後540分。
チケットを手配し誘ってくれたY君、O君と改札で落ちあい、10分ほど歩いて「味の素スタジアム」へ。
試合開始までの1時間ほど、私が持参した「たこ焼き」「唐揚げ」「ソーセージ」などを“つまみ”に、ビールを飲みながら映画&時事談議。(時期的に「小泉進次郎」「表現の不自由展」「五輪」などが話題に…「親父と同じ新自由主義者で、所詮アメリカの手先にしかならないような実績ゼロの政治家を何故“ポスト安倍”などとマスコミはもてはやす!?ふざけんな!」で、意見一致)

1杯目のビールを飲み干し、食い物もほとんどなくなったところで、試合開始(午後7時)。前半は、良く言えば両チームとも落ち着いた試合運び。悪く言えば、どちらも決め手に欠く退屈な展開……後半も似たような展開になったが、15分過ぎ、ゴールキックの流れからMF東がFW永井にスルーパス。裏に抜け出したところで仙台のDFシマオに倒されPK獲得。それをFWディエゴが決めて1:0。その後、両チームとも度々ゴールに迫ったが、シュートに精度を欠き、そのまま試合終了。

FC東京の大ファンであるY君はリーグ優勝に近づく「勝ち点3」に大喜びだったが、私とO君は流れからのゴールが見られず消化不良気味……「軽く一杯」だけを楽しみにスタジアムを後にしたのだが、28,000人を超える観客が集まったせいか、駅周辺の飲み屋はどこも超満員。仕方なく「一杯」をあきらめ、駅にて散会。それぞれ帰路に就いた。(帰宅時間22時半)

2019/08/14

夏の日々のメモ①




8月2日(金)
先月中旬、新聞の折り込み求人チラシを見て応募した仕事(「証明写真機」のメンテナンス業務)の採用が決まり、その研修及び仮契約のため「中野新橋」へ。
研修時間は6時間(10時~16時、休憩1時間30分)。社内での研修はこの日の一日だけで、後は「同行巡回」という実地研修を経て「本契約」となるらしい。

で、本契約後の私の仕事だが、週1回程度(曜日・時間は基本自由)、担当エリアの写真機を回り、清掃、保守・管理、集金などを行うこと。(立場的には写真機メーカーでもある運営会社と雇用関係を結ぶのではなく業務委託という形…つまり今と同じ「個人事業主」)
今後は、コピーライター兼「証明写真機」メンテナンスという“二足のわらじ”を履くことになる。(本業の広告制作はド暇状態で先行き不透明……というより“真っ暗”で、かなり厳しい状況。自分にとって生きる糧でもある映画・書籍・飲み代に事欠くようでは困るので、早目に手を打った次第)

86日(火)広島原爆の日
想田和弘監督の「観察映画」第8弾、『ザ・ビッグハウス』(監督・製作・編集:想田和弘/製作国:アメリカ、日本、2018年)を録画鑑賞。

ミシガン大学のアメフトチーム、ミシガン・ウルヴァリンズの本拠地で「ザ・ビッグハウス」という別名もある「ミシガン・スタジアム」に、想田和弘監督を含む17人の映画作家が密着。
事前準備なし、シナリオなしの即興撮影で、11万人超の観客を集める巨大スタジアムの表と裏の顔(表は…熱狂する観衆、マーチングバンドのパフォーマンス、セクシーなチアリーダー、VIPルームの客など。裏は…厨房、配膳、清掃、救護スタッフとして働く人々、ダフ屋、大道芸人、チョコを売る親子など)を映し出しながら、スポーツと軍事及び教育・経済・政治の関係性や、宗教、人種、階級(格差)、マチズモ、ナショナリズムの台頭といったアメリカ社会が抱える様々な問題を浮かび上がらせる……という実に興味深く面白い「観察映画」。華やかな熱狂が鎮まった朝のスタジアムで、ゴミを拾い集める若い女性が「私、フットボールが大嫌い」と溜息まじりに呟くシーンが妙に心に残った。(鑑賞後、町山智浩さんの解説を読んで分かったのだが、スタジアムで売られるハンバーガーのコンボセットの値段が16ドルという驚きの高さ。改めて円の凋落を思い知らされた)

夜はNHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか ~生まれ変わった原爆資料館~」を観る予定だったが、少し疲れたので録画予約し早目に就寝。翌朝鑑賞。(この時期、やはりNHKのドキュメンタリーは見逃せない。常にこうした番組作りを行ってくれるなら、受信料が高いとか、払うのがイヤだとか、文句を言うつもりはない。但し、ニュース番組は「ぶっ壊したい」レベル)

8月8日(木)
午前中、行きつけの床屋さんで頭スッキリ。一旦、家に戻り再び外出。先に出かけていたツレと中村橋で待ち合わせ、バスで阿佐ヶ谷へ。1983年製作の台湾映画『風櫃(フンクイ)の少年』を観てきた。
(小屋は「ユジク阿佐ヶ谷」、上映開始15時半。その前に中華料理店「青松」で冷やし中華を食し、上島珈琲店で喉を潤しながら1時間半ほど読書&昼寝……お互い老いたとはいえ喫茶店で二人揃って昼寝とは!? 連日の暑さで脳みそまで溶けてしまった感)

監督は台湾の巨匠・侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)、映画の舞台は、台湾海峡上にある澎湖島(ポンフー・ほうことう)の漁村・風櫃。そこで育った3人の若者たちの物語(ホウ・シャオシェン監督の自伝的作品とのこと)……
去りゆく少年期への感傷と、大人になることへの焦燥、(友情、喧嘩、恋へのあこがれ、将来への戸惑い…)その無為ではあるがかけがえのない日々を、どこか懐かしく美しい台湾の情景を背に描き出した傑作。(やはり台湾は青春映画の宝庫!)

で、最も印象的だったのは……「高雄」の街中で出会ったポン引きに「映画もあるよ。カラーでワイドだ」と騙され(チケット代を巻き上げられ)、廃墟ビルの11階に上った3人が、やけ気味に「確かにカラーでワイドだな」と言って、ガラスの欠片ひとつない大きな窓枠から高雄の街並を眺めるワンシーン。その風景が切なく明るく美しかった。(劇中、少年たちが「モノクロかよ」と悪態をつきながら観ていた映画がヴィスコンティの『若者のすべて』だったのも、個人的にツボ)


夜は、アマゾンで購入した水木しげるの『カランコロン漂泊記』(小学館)を読みながら就寝。

2019/08/06

「あいちトリエンナーレ」の件



金銭的余裕があれば(暇はソコソコあるので)、ぜひ観に行きたいなあ……と思っていた「あいちトリエンナーレ」の『表現の不自由展・その後』が、政治家(松井一郎、河村たかし、菅官房長官など)の圧力と、それに勢いづいた何者かの「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」という脅迫FAXによって中止に追い込まれた。

まさかと思ったが、やはりこの国は「大日本帝国」の時代に戻っているようだ。しかも、思った以上の速さで……。
(「慰安婦像」と呼ぼうが「平和の少女像」と名付けようがどちらでもかまわないが、戦時性暴力をテーマにした作品ひとつ自由に展示できないような国、また、昭和天皇をモチーフにした数点を、その制作意図・経緯に触れもせず「御真影を傷つけた」「不敬」などと、まるで戦中・戦前のようにバッシングする国は、既に「民主国家」でも「先進国」でもない。そんな国で平和の祭典・オリンピックとは……笑止!)

それにしても、少女がただ静かに座っているだけのオブジェに「心を踏みにじられる」って、一体(河村たかし名古屋市長は)、どの様なメンタリティの持ち主なのだろう……「私には負の歴史と向き合う知性も勇気もありません」と、暗に白状しているようにしか思えないのだが。
さらに、それを「日本人の、国民の心(を踏みにじる)」と、歴史改竄主義者である自分の本性を隠すようにすり替える姑息さ・醜悪さ。
とりあえず、彼が言う日本人の中に、俺を入れるな!とだけは言っておきたい。

で、“お口直し“に、ちょっといい「旅行記」を発見。タイトルは「いま韓国を旅して感じたこと」https://note.mu/tabi_gari/n/n0222be99d9e2

P.S.
以下、ネットで目にした「表現の不自由展」に関する政治家・タレント・学者・著名人の発言。(「極々まとも」な右翼団体、「戦前メンタリティ」の政治家、「自由より日本(愛国)」の芸人・タレントなど……色々あぶりだされてきた感じ。その中で、少し見直したのは「大村愛知県知事」)

松川るい(自民党参議院議員)
日本政府上げて慰安婦像撤去を世界中で取り組んでいる中で、これはありえない。ましてや、日本国民の象徴たる天皇陛下のお写真を焼くということは、日本という国で許されるべきことではない。それは芸術とか表現の自由とかそういう問題ではない。撤去は当然だし、そうなって本当に良かった。

原口一博(国民民主党衆議院議員)
聖書やコーランを火にくべることが何を意味するのか。日本人が大切にしているものを燃すことが何を意味するのか。表現の自由、芸術の名の下に許されていいのか?表現の自由といえども人々の心を傷つけることまで容認されていいのか?私は許されていいとは思いません。抗議の声をあげるのは当然です。

松井一郎(大阪市長・日本維新の会代表)
税金を投入してやるべき展示会ではなかった。表現の自由とはいえ、単なる誹謗中傷的な展示はふさわしくない。朝日新聞自体が謝罪した、デマの象徴である慰安婦像を、行政が展示すべきではない。

船井俊輔(自民党衆議院議員・宏池会)
間違えてはいけないのは、税金は政府や行政に批判的な人でも納税しているものであり、それを再配分するもの。 政府や行政に従順、ないしは意向に沿ったものにしか拠出しないということでは、決してあってはならないということ。
「国益に反するものに税金投入はおかしい!」確かにその論は受け入れられやすいが、国益が何かという定義は国民の皆さんそれぞれに考えがあり、政治の側がそれを言い立てることには、くれぐれも慎重になければなりません。

花瑛塾(右翼団体)
公権力が表現の自由に踏み込み、その内容の改変や公開中止を求める行為は憲法が禁じる「検閲」であるが、警察が本来有している警察力を行使せず表現の自由への暴力的な妨害を放置し、これを間接的に中止に追い込むことも、事実上の「検閲」である。
一方で花瑛塾として、同展の展示内容について強い違和感と不快感を覚えたことも事実。

立川志らく(落語家)
日本人の多くの人が反日の像だと思っているわけでしょ。多くの人が不愉快に思うのだったのなら(芸術監督の)津田(大介)さんも自分のお金で、個人でやる分にはいいんだけど、国で名古屋で愛知でやったことに、かなり問題があるんじゃないかと思います。
表現の自由を阻害することになるといいますけど、なんでも自由にしていいのかってことですよ。人を考えさせるのは大事だけど、不愉快にするっていうのは果たして芸術か。

松井計(元ホームレスの小説家)
そもそも、全ての人を満足させるような芸術表現なんかありえないんですから。誰もが満足するなんてのは、受け手の個性の否定じゃありませんか。芸術表現は、表現が意図されたその瞬間から、対立の可能性を内包する性格のものです。

町山智浩(映画評論家)
「表現の不自由」展が「公費使うな」と叩かれてるが、その何十、何百倍もの税金が吉本興業や秋元康やクールジャパンなんとやらにムダに流れてるんだけどな。

つるの剛士(タレント)
たとえ近所で開催されていても、無料でも、夏休みでも、 自国ヘイト作品を展示するアート展なんかに子供連れて行くわけない。 ああ、 表現の自由も不自由?も守られて、 連日近くでミサイルは飛んでいて、 日本はなんて寛容で平和な国なんだろ。

ロバート・キャンベル(日本文学研究者)
不自由展なら唾棄すべき内容だと言う人も共感する人も声高に議論すればいい。手続きに不正がなかったか検証するも良し。しかしそれを経ずに首長が唐突に中止を求め誰かが「撤収しなければガソリン」と脅迫し挙句に止むを得ず中止とするのは自由な議論を奪う流れ、とても残念だ。
(「星条旗を踏みにじる展示物をアメリカ人として歓迎ですか?」との質問に)
歓迎も攻撃もしません。私はしませんが、仮に焼いたとしても言論の自由と認められ、公権力を向けられることはありません。

安田菜津紀(フォトジャーナリスト)
今投げかけられているのは、「表現の自由」の問題だけではないと思う。この国ではすでに、パスポート発給拒否で渡航の自由が奪われたり、夫婦別姓を選択する自由が認められなかったり、外国人の方々が長期で収容され自由を侵害されたりしてきた。だから「今回”は”仕方ない」と見過ごしたくないと思う。

山崎雅弘(戦史・現代史研究家)
河村たかし名古屋市長は、少女像の展示を公的行事で認めれば「韓国側の主張を認めたことになる」かのように吹聴しているが、これこそ過去の歴史問題を「日本対韓国」の戦いにすり替える「歴史戦」の手法。日本人なら日本側につけと脅し、大日本帝国擁護に加担させようとする。

大村秀章(愛知県知事)
憲法21条には、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と書いてある。最近の論調として、税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか。公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。

山本太郎(政治家・れいわ新選組代表)
表現の自由は最大限まで認められるべき。(今回の件は)自民党の改憲草案21条を彷彿とさせる。権力側にとって公の秩序乱すなら表現の自由認めない。実際に改憲進んでもいないのに、すでにそんな状態。どのような表現でも叩かれたり称賛されたり。色々な声を受け入れて次の表現に繋げていくことが本当の表現だと思う。それさえも許さない。気に入らない表現であるならばガソリンまくぞとか、政治的圧力かけるぞってことで、その表現自体をなかったことにしようということ自体がちょっとまずいなと思う。非常に危機的な状況。(85日、TBSラジオ「セッション22」荻上チキ氏との対談にて)

自民改憲案第21条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
(1項を2項によって「骨抜き」にするという、“いつもの手”)