先日(23日)、韓国の全斗煥元大統領が亡くなった(享年90歳)。
「悪名高い軍部独裁者の最期」というだけで、その死に殊更の感慨はないのだが、束の間、以前に観た二つの映画のシーンがいくつか脳裏にちらついた。
一つは光州事件時の実話に基づいた『タクシー運転手 約束は海を越えて』、もう一つは朴正熙大統領暗殺の舞台裏を描いた『KCIA南山の部長たち』。
朴正熙暗殺は1979年(その6年前には「金大中事件」があった)、全斗煥が徹底的な武力弾圧を敢行し多数の死傷者を出した光州事件(5・18民主化運動)は1980年…… その頃20代だった私は「一体、韓国はどうなってるんだろ?」と、ちょっと身震いするくらいイヤな感じがしたものだが(当時は、寧ろ北朝鮮の方がまともな国に思えた)、それから40年以上経った今、すっかり民主化された隣国の姿に、羨望の念すら抱くことになるとは……それだけ日本が変容してしまったということなのだろう。(とりわけ「民主性」ということに関しては、完全に後れをとってしまった気がする)
ということで、今日のタイトルの件……
この国の大手メディアが政権批判を避けるようになっている所為か何か分からないが、最近(特に立憲民主党の代表選が告示されて以降)、「(野党は)批判ばかり」という「批判」の声が以前にも増して強くなっているような気がする。(単に野党が嫌いなのか、何かを「批判する」という行為そのものが好きじゃないのか、ちょっとよく分かりませんが)
で、そもそも何故「(野党は)批判ばかり」なのかと言えば、民主主義国家におけるその役割上(与党とは異なる国家観を国民に示す「対立軸」であること)の必然だから、と言うほかない。つまり、国民の多様な考え方が社会に反映されるためには、与党と野党が似たような国家観では困るわけだし、国家観が違えば、掲げる政策も違ってくるのは当たり前(与野党仲良く同じ政策、などという状況は「翼賛体制」であって、「いつか来た道」を再び歩むことになるだけ)。そのような役割を持つ存在が「(与党を)批判ばかり」するのは至極当然なことであって(民主党政権時代の自民党も「批判ばかり」だった)、それを批判する方がお門違いというもの。
なのだが、批判を受ける野党側も律儀というか、間抜けというか(特に立憲)……そんな“お門違い”は放っておけばいいのに、つい乗せられて「いや、私たちも与党が出した法案に70%以上賛成しています」「政策提案は数多くだしています」等と弁明したり、果ては「批判ばかりから脱却する」などと宣言したりするから話が分からなくなる。(「70%以上に賛成」して「批判ばかりから脱却」って、それで「賛成ばかり」の野党が増えれば、そりゃあ与党は楽だよね。政権交代の必要もなくなるし)
で、そんな「野党」を傍目で眺めるメディア側はどうかといえば……
《維新の吉村副代表、立憲の代表選に「何でも反対から脱却を」》(朝日新聞デジタル)
《ゲストはABCテレビ「キャスト」の上田剛彦アナウンサー。「第4の権力たれ」と、何もかも批判ばかりする報道は時代に合ってないかも。優しさや多様性を大切にするお笑いにヒントがあるのでは。「芸人さんは劇場で生のお客さんの反応をみている」》(朝日新聞ポッドキャスト)
と、「批判ばかり」を批判する風潮にあっさり迎合(つまり与党及びその周辺の策略に同調)して、およそジャーナリズムとは思えない軽薄かつ愚劣な言説を垂れ流すだけ。よくもまあ、ここまで酷くなったものだ……と、発行部数激減中の「朝日」の凋落と堕落ぶりを改めて垣間見た思い。
(そういえば、今年90歳で亡くなられた作家・半藤一利さんがその著書『昭和史探索』の中で、戦前にも、朝日新聞が体制迎合的になった結果、「朝日新聞お断り」に転じた元読者が多数いた、と語っていたが……ん?ということは、今もまた「戦前」?)
こんなメディアばかりの国で、野党がいま「批判ばかりから脱却」などしようものなら、一体この先どうなってしまうのか? 例えば「改憲も反対ばかりじゃダメ。緊急事態条項も含めて与野党で話し合わないと…」みたいなことになりかねない。
故に、「批判ばかり」の野党、大いにけっこう。(与党と戦わない、批判し続けない野党など「民主主義国家」において何の存在意義もない)
かつて購読していた「朝日新聞」には、その復活を願って、もう一度、この言葉を。
「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」(ジョージ・オーウェル)
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