昨日は、「法然と親鸞 ゆかりの名宝展」を見に上野へ。
昼近くに家を出たので、まずは腹ごしらえ……名宝展の会場である東京国立博物館とは方向が違うが、上野に来たらココ!と決めている蕎麦屋『おきな庵』に直行。いつもどおり「ねぎせいろ(大)」を注文した。恐らく、蕎麦通なら「こんなの蕎麦じゃない」と文句を言いそうな、緑がかった細めの長い蕎麦(もちろん手打ちではない)。それを、刻んだイカゲソ入りのかき揚げと長ネギが浮かんでいる甘くて温かいつゆで頂くのだが、これが何故かたまらなく美味しい。しばらく食べていないと恋しくなる懐かしい味なのだ。
ということで、ほぼ一年ぶりの「ねぎせいろ」。残りのつゆも蕎麦湯で割って飲み干し、ここで昼メシを喰えば、上野に来た目的の半分は終わったようなもの……と、東京スカイツリーを後ろに見ながら、再び駅方面へ踝を返し「東京国立博物館」まで足を運んだ。
平日なので、会場の混み具合はソコソコ。じっくり見させてもらおうとイヤホンガイドを借りて入場したが、中高年の人が多いせいかなかなか前へ進めない。それでも約1時間半、宗教に疎い私が飽きもせずに鑑賞できたのは、「絶対他力」「他力本願」の言葉通り、ひたすら南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、誰しもが救われるというシンプルな教えに基づく浄土宗、浄土真宗の寛容さと大衆性に好感を持てたからだろう。
みうらじゅん曰く「鎌倉仏教=念仏ロック」。旧体制の強大なパワーに抗い、乱世に苦しむ人々に“念仏オンリー”の救いの道を示した「法然」は“ロック魂”を持つ僧侶。その魂を受け継ぎ、自分はダメな奴なのだと言い続け、肉食、妻帯も厭わなかった「親鸞」は何でもありの“パンク僧”……そういう視点で展示されている肖像や書物・仏画を見ると、自然に鎌倉仏教に対するシンパシーも湧いてくるというもの。予想外の親鸞の顔の厳しさに驚かされたり、直筆の『教行信証』の剣のような字の鋭さと徹底した推敲の後に凄まじい気迫を感じたり、横尾忠則の絵のルーツのような来迎図に惹かれたり……と勝手な想像&妄想を膨らませながら楽しむことができた。
法然没後800年、親鸞没後750年を記念して催されたこの名宝展、肩肘張らずに自由な感覚で「ナムアミダブツ」の世界に親しんでみれば思わぬ発見もあるだろう。逆にそうじゃないと、何が書かれているかも分からない書物に、延々と目を凝らすだけのシュールな展覧会で終わってしまいそうな気がする。
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