2021/11/30

「批判ばかり」と「批判」する風潮に?


先日(23日)、韓国の斗煥元大統領が亡くなった(享年90歳)。

「悪名高い軍部独裁者の最期」というだけで、その死に殊更の感慨はないのだが、束の間、以前に観た二つの映画のシーンがいくつか脳裏にちらついた。

一つは光州事件時の実話に基づいた『タクシー運転手 約束は海を越えて』、もう一つは朴正熙大統領暗殺の舞台裏を描いた『KCIA南山の部長たち』。

朴正熙暗殺は1979年(その6年前には「金大中事件」があった)、全斗煥が徹底的な武力弾圧を敢行し多数の死傷者を出した光州事件(518民主化運動)は1980年……    その頃20代だった私は「一体、韓国はどうなってるんだろ?」と、ちょっと身震いするくらいイヤな感じがしたものだが(当時は、寧ろ北朝鮮の方がまともな国に思えた)、それから40年以上経った今、すっかり民主化された隣国の姿に、羨望の念すら抱くことになるとは……それだけ日本が変容してしまったということなのだろう。(とりわけ「民主性」ということに関しては、完全に後れをとってしまった気がする)

ということで、今日のタイトルの件……

この国の大手メディアが政権批判を避けるようになっている所為か何か分からないが、最近(特に立憲民主党の代表選が告示されて以降)、「(野党は)批判ばかり」という「批判」の声が以前にも増して強くなっているような気がする。(単に野党が嫌いなのか、何かを「批判する」という行為そのものが好きじゃないのか、ちょっとよく分かりませんが)

で、そもそも何故「(野党は)批判ばかり」なのかと言えば、民主主義国家におけるその役割上(与党とは異なる国家観を国民に示す「対立軸」であること)の必然だから、と言うほかない。つまり、国民の多様な考え方が社会に反映されるためには、与党と野党が似たような国家観では困るわけだし、国家観が違えば、掲げる政策も違ってくるのは当たり前(与野党仲良く同じ政策、などという状況は「翼賛体制」であって、「いつか来た道」を再び歩むことになるだけ)。そのような役割を持つ存在が「(与党を)批判ばかり」するのは至極当然なことであって(民主党政権時代の自民党も「批判ばかり」だった)、それを批判する方がお門違いというもの。

なのだが、批判を受ける野党側も律儀というか、間抜けというか(特に立憲)……そんな“お門違い”は放っておけばいいのに、つい乗せられて「いや、私たちも与党が出した法案に70%以上賛成しています」「政策提案は数多くだしています」等と弁明したり、果ては「批判ばかりから脱却する」などと宣言したりするから話が分からなくなる。(「70%以上に賛成」して「批判ばかりから脱却」って、それで「賛成ばかり」の野党が増えれば、そりゃあ与党は楽だよね。政権交代の必要もなくなるし)

で、そんな「野党」を傍目で眺めるメディア側はどうかといえば……

《維新の吉村副代表、立憲の代表選に「何でも反対から脱却を」》(朝日新聞デジタル)

《ゲストはABCテレビ「キャスト」の上田剛彦アナウンサー。「第4の権力たれ」と、何もかも批判ばかりする報道は時代に合ってないかも。優しさや多様性を大切にするお笑いにヒントがあるのでは。「芸人さんは劇場で生のお客さんの反応をみている」》(朝日新聞ポッドキャスト)

と、「批判ばかり」を批判する風潮にあっさり迎合(つまり与党及びその周辺の策略に同調)して、およそジャーナリズムとは思えない軽薄かつ愚劣な言説を垂れ流すだけ。よくもまあ、ここまで酷くなったものだ……と、発行部数激減中の「朝日」の凋落と堕落ぶりを改めて垣間見た思い。

(そういえば、今年90歳で亡くなられた作家・半藤一利さんがその著書『昭和史探索』の中で、戦前にも、朝日新聞が体制迎合的になった結果、「朝日新聞お断り」に転じた元読者が多数いた、と語っていたが……ん?ということは、今もまた「戦前」?)

こんなメディアばかりの国で、野党がいま「批判ばかりから脱却」などしようものなら、一体この先どうなってしまうのか? 例えば「改憲も反対ばかりじゃダメ。緊急事態条項も含めて与野党で話し合わないと…」みたいなことになりかねない。

故に、「批判ばかり」の野党、大いにけっこう。(与党と戦わない、批判し続けない野党など「民主主義国家」において何の存在意義もない)

かつて購読していた「朝日新聞」には、その復活を願って、もう一度、この言葉を。

「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」(ジョージ・オーウェル)

 

2021/11/24

吉祥寺で『スウィート・シング』からの「いせや」


先週の金曜、2年ぶりに吉祥寺へ。

アップリンクで、米インディーズ映画『スウィート・シング』(2020年製作、アメリカ)を観てきた。

 


主人公は姉ビリーと弟ニコ……極貧暮らしで学校にも行けず、頼れる大人もいない二人が(初老の父アダムは酒狂い、家を出て行った母イヴは男狂い)、ある日出会った少年マリクと共に逃走と冒険の旅に出る…という話。時折カラーが入るモノクロの映像で、子供たち3人の逃避行が生き生きと美しく描かれる。ビリー・ホリディ、ブライアン・イーノ、シガー・ロス、ヴァン・モリソンなど、流れる音楽が実にイイ。

《逃げろ!ロクでもない大人たちから。逃げろ!その瞳の輝きを奪おうとする行き詰まりの世界から。逃げろ!どんな手を使ってでも、逃げろ! 走って、走って、たどり着いた先がまたしても酷い大人たちの世界であったとしても、今はただ振り向かず逃げろ!いつかどこかに、幸せな瞬間は必ず待っていてくれるから……》そんな声がスクリーンの彼方から聞こえてくるような映画だった。

監督は米インディーズのアイコンとして名高いアレクサンダー・ロックウェル。主人公の姉弟にはロックウェル監督の実の娘ラナと息子のニコ。母親イヴを実際のパートナーであるカリン・パーソンズ、父親アダムをアカデミー助演女優賞受賞作『ミナリ』の名脇役ウィル・パットンが演じている。

ちなみにタイトル「スウィート・シング」は、北アイルランド出身のロックシンガー、ヴァン・モリソンの名盤「アストラル・ウィークス」に収録された1曲『SWEET THING』からとったもの。映画の中で主人公ビリー(監督の娘で15歳のラナ)がその歌を口ずさむシーンも、その声の美しさと共に印象的だった。(詞がまたイイんだよね~)


心浮き立つ あの道を歩き 

生け垣を跳び越えよう

澄み切った水で 渇きを癒して

波間に浮かぶ 連絡船を眺めよう

いつもより青い海は 明日の空を映してる

もう2度と年をとったりしない

あの庭を歩き 話し続けるんだ

愛しい君よ 愛しい君 …スウィート・シング

https://www.youtube.com/watch?v=1XGLoUmeNHg (ヴァン・モリソン)


映画の後は、「いせや」でランチ替わりの焼売&焼き鳥2本(当然ハイボール付き!)。いい映画を観た後のちょい飲み……実に気分良し。

 


2021/11/14

池袋で「アート展」&『モーリタニアン』


一昨日の金曜、東京新聞で紹介されていたアート展「聞かれなかった声に耳を澄ませる」を観に、池袋・東京芸術劇場(B1Fアートスペース)へ。


 並べられている作品は、生活困窮者に食品が配られる会場で、利用者(生活保護を利用する人、路上生活者など)が自由に創作したもの。作品ボードの横には作者のコメントが添えられており、それぞれの思いや人生を垣間見ることができる。

例えば、路上生活をしている男性の添え書き…「この黒い大きな物体は目に見えない自分にのしかかる圧力です。何かに抑え込まれている感じ。汚いものに取り囲まれている自分。いつも縮こまっていて大きく描けない。でもはっきりと自分を表現する人」

(また、生活保護を受給しながらアパートで暮らすトランスジェンダーの女性は「女風呂にも男風呂にも入れないない私。だからこんな風にお風呂に入れたらいいなあと思って描きました」と、絵に託したその切実な胸の内を綴っていた)

724日オリンピックの開会式があった頃の土曜日。炊き出し参加者は過去最高の400人。オリンピックのためにあちこちから追い出された困窮者は多かった」そうだ。

帰りがけ「よかったら感想を書いてください」という女性(アート展の企画者でアーティストの尾曽越理恵さん)の声に促され、一筆。

路上で生きる人のいない世界のために。

路上アートに光を。それぞれの人生に色を。もっと強い光と豊かな色を!


その後、芸術劇場から「池袋HUMAXシネマズ」へ。

モハメドウ・ウルド・スラヒの著書を原作に、悪名高きグアンタナモ収容所に収監されたモーリタニア人の青年と、彼を救うべく奔走する弁護士たちの姿を、実話に基づき描いた法廷サスペンス『モーリタニアン 黒塗りの記録』(監督:ケヴィン・マクドナルド/2021年製作、イギリス・アメリカ)を鑑賞。

9.11後のアメリカの“正義と狂気”(主に狂気)の象徴とも言えるグアンタナモ収容所で、日常的にどのような拷問・虐待が行われていたのか?

本作の上映に先立ち、直接、本人(本作の主人公であるスラヒ氏)にオンライン取材した東京新聞の記事によれば《スラヒさんは「手錠をかけて宙づりにされたり、冷たい部屋で20時間以上も同じ姿勢を強要されたり、非人道的な尋問を繰り返された。女性兵士による強制的な性交などの性的虐待も受けた」と振り返る。耐えきれず、米政府が用意した自白調書に署名した》とのこと。また、実行はされなかったが「警察が母親を署に連行し、男性だけの獄舎に入れるぞ」と供述を迫ってきたこともあったようだ。

その拷問・虐待・脅迫の数々は、映画の中でも隠されることなく(&容赦なく)再現される。(手錠と足かせで身動きできない状況下、真っ暗にした部屋にフラッシュライトが点滅し、大音量でヘビーメタルがかけられる中での尋問シーンも衝撃。目を覆いたくなりつつも、あまりの卑劣さに沸々と怒りが……)

で、拷問・虐待以上に驚かされ、強く震撼したのは、裁判所の「アルカイダの一部との政府の主張は根拠なく、スラヒさんの拘束は不当」という釈放命令が下ったにも関わらず(普通なら「これでメデタシ」「アメリカの狂気にアメリカの良心が勝利した」…となるのだが)、釈放されるまで、拘束はさらに6年間、オバマ政権になっても続いたという事実(思わず「ひでえなあ…」と声が出た)。悪い意味でアメリカ恐るべし。(人権問題で中国を非難している場合じゃないぞ!)

と、ここまでだと、「とても見る気にはなれない」だろうが、さにあらず。映画自体は頗る付きの秀作。とりわけ主人公の弁護を引き受ける弁護士ナンシー・ホランダーを演じたジョディ・フォスターが素晴らしい。(対する軍側の弁護士ステュアート大佐役のカンバーバッチもお見事。この二人が映画の中での“アメリカの良心”か)

加えて、現在のスラヒさん&ホランダーさんの本人映像が流れるエンディングが気持ちいい。

ボブ・ディランの「ザ・マン・イン・ミー」を上機嫌で口ずさむ彼の屈託ない笑顔に、少し肩の力が抜け、ほっと安堵のため息。ディランの歌にも救われた。


P.S.

今月9日はMy Birthday……UEちゃん&MIYUKIさんから、ド派手かつパワフルな“祝い”が届いた。

 



 

 

 

 

2021/11/08

極めて的確な指摘。


立憲代表選に意欲を見せた小川淳也に「3つの懸念」急浮上

https://samejimahiroshi.com/politics-ogawa-20211107

この「3つの懸念」は、正に私も抱いていたもの。それを超えられなければ、彼に期待するものは即座に失われる。

というわけで、「なぜ君」小川淳也、これからが正念場。今後、維新(及び国民民主)に寄っていくのか、共産・れいわと手を繋ぐのか……立憲民主党の動向と共に注視したい。

※記事を書いたのは、今年5月に49歳で朝日新聞を退社し独立。《「新しいニュースのかたち」を「無料」で届けること》を目指して「SAMEJIMA TIMES」を立ち上げた政治ジャーナリスト・鮫島浩さん。

で、今日は歯医者(クリーニング&抜歯)に行くまでの時間、こんな記事にも目を通し……書いているのは、芥川賞受賞後「反日は出て行け」など“匿名の悪意”を浴びている台湾籍の作家・李琴峰さん。

https://note.com/li_kotomi/n/n8f548e377387

ちなみに、彼女、受賞時の記者会見で「最初に好きになった日本語と、忘れてしまいたい日本語を教えてください」という質問に対して、「最初に好きになった日本語は一期一会……キレイだなあと思ったのは、せせらぎ、木漏れ日……忘れてしまいたい日本語?う~ん……美しいニッポン(フフッ)」と答えていた。

(なかなかセンスのいい、鋭い人だなあ、と思ったが、その絶妙の「答え」がネトウヨ化の元凶である安倍信者たちの怒りを買いバッシング&ヘイトの嵐……とは、何ともはや……とりわけ外国籍の人が生きにくいこの国の今が、恥ずかしすぎて言葉もない)




2021/11/06

この対談が面白い!!


《温暖化対策として、あなたは、なにかしているだろうか。レジ袋削減のために、エコバッグを買った? ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている? 車はハイブリッドカーにした?

はっきり言おう。その善意だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある。

なぜだろうか。温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまうからだ。良心の呵責から逃れ、現実の危機から目を背けることを許す「免罪符」として機能する消費行動は、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウォッシュにいとも簡単に取り込まれてしまう。

では、国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)」なら地球全体の環境を変えていくことができるだろうか。いや、それもやはりうまくいかない。政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。

かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。》

という、なかなか衝撃的かつ挑発的な序文から始まる新書『人新世の「資本論」』(2021年新書大賞受賞作)の著者・斎藤幸平(経済思想史研究者)と立憲民主党・小川淳也の対談だが、実に刺激的(小川じゃなくて斎藤幸平の話が)。二人の話を聞き終えた後、衆院選後モヤモヤしていた思考的視界が少し開けたような気がした。(かなり長いですが、お時間の空いている時に、ぜひ!)

https://adayasu.hatenablog.com/entry/20210721/1626871301

P.S.

昨日(5日)は田無の「坂平」で“うなぎ会”。一年前の約束通り、友人のUEちゃん&MIYUKIさんに「うな重・特」をご馳走。ビールを飲みつつ久しぶりの「うなぎ&肝吸い」に舌鼓を打った。

(その後、3人で“お茶”。話題は衆院選、韓ドラ「愛の不時着」他、8月に観たドキュメンタリー映画『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん』そして「エレカシ・宮本浩次」……BSの音楽番組「The Covers」で聴いた『春なのに(柏原芳恵/1983)詞・曲:中島みゆき』は絶品だった)

今日(6日)は、池袋HUMAXシネマズで『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を鑑賞(誕生日も近いということで、ツレの驕り)。主演ダニエル・クレイグのボンドとしての最終作ということで、かなり期待していたのだが、個人的には最後までテンションが上がらず消化不良。特に後半が全く楽しくないし、メロドラマ臭が強すぎて興奮度&爽快感ゼロ。お別れ感たっぷりの寂しい結末に「うーん…どうなんだろう?」と、首を傾げるだけだった。

 

2021/11/03

選挙後余談


昨日、旧知の友人で飲み仲間のO君(3つ年上の法学者)と、メールでこんなやり取り。

O

大阪では維新と公明で議席独占。気持ち悪い。共産党が端っこの方に少数でいることはあまり気にしないが、表に出てきそうになると異常なまでの拒否反応を示す連中が根強く存在するんだ、日本には。枝野も本心はそうだったんじゃない?「冷たい共闘」なんて言われているのもそういうことが関係してそうだ。

ちなみに、ツイッターで、枝野も志位も福島も演説下手って言ったら、知らない人から、頑張った枝野の「悪口」を言うべきではない、という反応が返ってきました。こういう単純な発想の連中が多いことも残念。

立憲のシンパか何か知らないけど、「ご飯論法」の命名者である上西充子(法政大学教授)も、立憲や市民連合への真っ当な批判・意見に対して「与党を利するから…」と抑えこもうとしていたし、支持する気持ちが強いあまりに「応援と批判はセット」という当たり前のことを忘れちゃう人たちが多く見られるのは、由々しきことだよね。(それじゃ自公維及びその周辺と大して変わらない…ってことになっちゃうし)

そういえば、上西氏……2019年の参院選の時に「カリスマ的な指導者に頼ろうとするうねりが大きくなることには警戒すべき」と「れいわ新選組」の盛り上がりを、まるでファシズム(の台頭)かのように危険視し喧伝していたっけ……まあ、どっちがファシズムだよ!という話だけど。

共産党に関しては、今時、革命政党などと思っている、あるいは信じている人がいるの?という感じですが、今回の結果を見ると、本当にいるのかもしれませんね。なんせ、ジェンダー平等、気候変動など世界共通の社会課題に取り組むことすら、「中道」ではなく「左(ネトウヨ的に言うとパヨク)」に位置づけられるそうだから。それほどこの国の軸が大きく「右」に寄っているということでしょうか。

O

真っ当な批判を「ケチ」だとして抑圧することがすでにファシズムなんですよ。このファシズムが無意識裡に革新系に浸潤していることを僕は憂いています。

僕は、あの『憲法改正限界論のイデオロギー性』の本(O君の著書)の元になった論文を学会の仲間に渡したら、それを読んで、どうして、憲法改正を画策する反動政権と闘っている学者を批判するのか、憲法改正に賛成なのか、と詰め寄ってきた人がいたが、そんな軸でしか考えられないのか、と思い、その人とは付き合いをやめました。目的さえ共感できれば、何をどう言っても受け入れるって、ガキのような恋愛感情にしか思えない。それが確固たる未来を創り出すとは思えない。

けだし同感。

思えば、「山中竹春(現横浜市長)」の経歴詐称・パワハラ疑惑問題に真摯に向き合うこともせず、衆院選に繋げる「共闘」の成果だけを求めて、ひたすら彼を推し続けた横浜市長選の際の立憲・共産の姿も酷かった。(その結果、市議会ぐちゃぐちゃみたいだし…)

そのあたりも含めて、我々は野党の動向を冷静に見守りつつ絶えずチェックしていきましょう。(立憲も「小川淳也」あたりが代表になれば、かなり面白くなりそう……彼を追ったドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』オススメです)

で、さっきネットのニュースを見ていたら、英ガーディアン紙が日本維新の会を「右翼ポピュリスト政党」と紹介していた。よくわかってらっしゃいますね、外国のメディアは。(「日本共産党」も、海外メディアから見れば「中道左派政党」という所でしょうね)

O

維新を加えると憲法9条改正発議が出来るわけで、警戒を怠れないね。

ですね! 

早速、「日本維新の会」代表の松井が「来年夏の参院選と同時に国民投票を実施すべき」とぶち上げてるようだし……ホント、とんでもない奴ら。

以上。(やり取りはまだ続くかも…だけど)

2021/11/01

衆院選が終わって。


昨日、投票に出かけたら、投票所(近所の中学校)の雰囲気がいつもと違い、並んで待つほど混雑していた。その様子に「おっ、投票率が上がるかも!?」と期待したのも束の間、家に帰ってパソコンを開いたら「投票所の3分の1が投票時間を繰り上げる」というニュースが、「読売」のオンラインで流れてきた。

《31日投開票の衆院選で、総務省は、閉鎖時刻を繰り上げる投票所が全国で1万6967か所に上ると発表した。2017年の前回衆院選より257か所増えた。

 公職選挙法は、投票所は午前7時に開き、午後8時に閉じると規定している。ただ、有権者の投票に支障を来さないと認められる特別の事情がある場合に限り、市町村選管は投票終了時刻を4時間以内の範囲で繰り上げることができるとも定めている。

 茨城県では全投票所1368か所のうち1294か所で閉鎖時間が1~2時間、繰り上がる。宮崎県内の自治体には午後4時で投票終了する投票所もある。

 総務省のまとめによると、投票所の総数は4万6466か所で、前回より1275か所減った。投票所数の削減や投票所の時間短縮は経費削減も目的とみられる》

当然ながら、選挙権は代議制民主主義の最も基礎的な権利。故に繰上げ投票は極めて限定的かつ例外的に運用されるべきもの。なのに、これだけ多くの投票所が投票時間を繰り上げるとは一体何事だろうか?……自党に有利な「一方的なルール変更」は現与党の得意技。これも「投票率を上げたくない」党側が、選挙の管理監督である総務省に内閣人事局を通じて指示したのでは?と疑わざるを得ないが、その内実は暴かれないまま選挙終了。(もし本当に「投票率を上げないため」なら極めて許しがたいこと。「投票所数の削減や投票所の時間短縮は経費削減も目的とみられる」などと、無批判に告知するだけの新聞も同罪)

さて、選挙から一夜明けて…

個人的な目標(「山本太郎を国会へ」「選挙区で自民・維新を落とす」)は、ひとまず達成できたが、自民「単独過半数」、公明「小選挙区全勝」、維新「大阪制圧」で大躍進(もはや私には「大阪」が同じ国とは思えない)……結局、負けたのは「野党共闘」と言いながら「共産」「れいわ」との強固な連携には及び腰だった「立憲」と、身を挺して野党共闘に賭けた「共産」だけ。という極めて残念な結果になってしまった。

(山本太郎が国会に戻ってくること及び「れいわ」3議席獲得が唯一の救いであり光明。今後も立憲が共産・れいわと距離を置き「単独」にこだわっている限り「野党共闘」に勝ち目はないと思う。辻元清美まで落ちてしまって…枝野・福山の責任は大)

これにより、自公維など改憲勢力が3分の2を占めたわけで、いよいよ(政権は)憲法に手を付けてくるはず。すなわち本当の戦いはここから。様々な「がっかり」は今日で終わらせ、また明日…ですね。

P.S.

今朝、元「週刊朝日」編集長の山口一臣氏が《山本太郎を代表にして野党再編すればいいのに》と呟いていたが、けだし同感。

大きな変化は熱狂に近いものからしか生まれない。石原伸晃から議席を奪った東京8区を見ても、いま野党共闘の象徴として「熱狂」を生みつつ、自公&維新と対峙し渡り合えるのは「山本太郎」しかいない。と思う。