2017/09/27

そんな社会の片隅で。




2週間ほど前の「朝日川柳」にこんな一句が載っていた。

不正より不倫を叩くそんな国

つい最近も「声」の欄に、各テレビ局が足並み揃えての不倫バッシングに疑問を抱く声が寄せられていた。私もその声に概ね同意。

決して不倫がいいとは思わないが、不倫も恋愛の一つ。誰が誰を好きになろうと(例え、その事で誰かが傷つくことがあっても)個人の自由、誰しも恋する心を止めることはできない。太宰の言葉を借りれば「惚れたが悪いか」だ。自分(たち)の倫理観・価値観と異なるからといって、当事者でも家族でもない人たちがとやかく口を出すことではない。
それなのにどうしてそこまで他人の恋愛が気になるのか、許せないのか。何ら利害関係もないのに謝罪を要求したり、謝り方が悪いとケチをつけたり……日頃のストレスのはけ口のように追い込んで、政治生命やタレント生命を奪わなければ気が収まらないというのでは、メディアも社会も病んでいるとしか思いようがない。

かと思えば、私も少し気に入っている女優・水原希子を、その出自においてバッシングしているケースもある。いわゆる「レイシャル・ハラスメント」だが、根にあるのは“嫌韓”。母親が在日韓国人(父親はアメリカ人)の彼女が日本名で活躍しているのが気に入らないらしい。
ネット上のナショナリストらしき人たちは、一体、どこまで狭量なのだろう。

こういう不寛容で排他的な風潮を憂えているのは、何も「リベラル」な側の人たちばかりではない。“戦後日本の欺瞞を撃つ”という副題の付いた対談本『憂国論』の中で、保守派の政治活動家・鈴木邦男氏(元・一水会代表)がこんな話をしていた。

《(イスラム国による邦人人質事件に関連して)ひどいなあと思ったのは、国民の間でも「人質になって殺されたのは自己責任だ」「安倍首相よくやった」と絶賛する人がいたことです。そういう冷淡な人たちを生んで来た日本、アメリカナイズされた日本に対しては疑問を持たざるをえない。
保守派の人たちは口を開けば「日本を守る」というけれども、いったい日本の何を守ろうというのか、日本は数多くの外国からいろいろな文化を取り入れてきたわけですが、それにもかかわらず、「外国人は出ていけ」と言っている。そういう排外主義は、ちっとも日本らしさじゃないですよ。
排外主義的な集会やデモでは日の丸の旗が立てられていますが、日の丸というのは大和(やまと)、つまりみんなが仲良くするという意味じゃないですか。それなのに、外国人を排除しようとしていることにものすごく違和感を持ちますね》

けだし同感。ホント、色々考えるのもヤになるくらい、変な社会になっちゃったなあ……

と、一人、愚痴やため息が出ることも度々だが、世の中にはその不寛容で多様性が失われている社会の中で息づく様々な声を聞きとり、それを分析することで(あるいは分析も解釈もできないことを集めて)、高橋源一郎曰く《社会全体の未来を見据えた「ことば」》として私たちに提示してくれる人もいる。
先日読み終えた『断片的なものの社会学』の著者で“数多くの人々と出会い、その語りを記録”してきた社会学者・岸政彦氏だ。

「人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ」と表紙に小さく記された本の中で出会ったのは、心を鎮め、前を向かせるこんな言葉たち……

《なにかに傷ついたとき、なにかに傷つけられたとき、人はまず、黙り込む。ぐっと我慢をして、耐える。あるいは、反射的に怒る。怒鳴ったり、言い返したり、睨んだりする。時には手が出てしまうこともある。
しかし、笑うこともできる。
辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。人間の自由は、無限の可能性や、かけがえのない自己実現などといったお題目とは関係がない。それは、そういう大きな、勇ましい物語のなかにはない。
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ》

《私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中まで遊びにきてくれない》

《エミール・デュルケムは、私たちが「神」だと思っているものは、実は「社会」であると言った。
祈りが届くかどうかは、「社会」が決める。
災厄をもたらす悪しき神もいる。それと同じように、社会自体が、自分自身の破滅にむかって突き進むこともある。神も社会も、間違いを犯すことがある。
私たちは、私たちの言葉や、私たちが思っている正しさや良いもの、美しいものが、どうか誰かに届きますようにと祈る。社会がそれを聞き届けてくれるかどうかはわからない。しかし、私たちは、社会にむけて言葉を発し続けるしかない。それしかできることがない。
あるいは、少なくともそれだけはできる》

学者らしからぬ自由で素直な感性の基に積み上げられた、その「仕事」の深さと面白さ、言葉の豊かさが一体となって胸に迫ってくるような……あるいは、敬愛すべき友人を得たような、腹を割って語り合える同志に出会えたような思いにさせてくれる一冊。折に触れては読み返す、そんな本になりそうだ。

 

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