2017/04/30

さよなら駐輪場



2年近く働いていた駐輪場とも、今日でお別れ。(勤務は23日で終了)

27日にはバイト仲間に警備員のMさんが加わり飲み会を開いてくれた。

辞めた理由は二つ。本業が忙しくなったこと&孫請け会社のバイトの身では、これ以上の職場改善が望めないこと……平たく言えば「諸々やる気がなくなった」わけだ。
(「不正駐輪が横行する職場」の元凶は、親会社及びその下請会社の事なかれ主義。注意喚起の「立て看板」設置など簡単にできる対策を提案しても、のらりくらりでやる気なし。只々、悪質かつ身勝手な利用者のクレームを恐れるだけで、クレームさえ来なければ「不正行為が横行していても構わない」という情けない態度に愛想が尽きた)

また、2ヶ月ほど前、同僚のNさんが不正駐輪を注意した男に「うるせー、殺すぞ」と怒鳴られたこともあり(温厚なNさんでも“爆発しそうだった”というくらいだから、私ならどうなっていたやら…)、会社が「整理員」をバックアップしてくれない以上、これまで通りの「孤軍奮闘」では職場改善どころか、自分にも同僚にも危害が及びかねない……という思いも湧いてきた。その上でのスッパリ「辞めます」宣言。

親しい同僚二人は「せっかく、楽しくて、まともに仕事ができる人が来てくれたと喜んでいたのに……オレも辞めたいなあ……でも他にないしなあ」と淋しがってくれたが、本人的には悔いも無ければ、名残惜しさもない。

「また、一緒に楽しく呑もうよ!」と明るく再会を期して、駐輪場近くの居酒屋を後にした。

以上。明日から暫く、本業に精を出します。

皆さま、楽しいゴールデンウイークを。

 

 

 

2017/04/24

イランに「パナヒ」あり。




ポカポカ陽気が続く週明け。まずは、先週火曜(18日)、新宿武蔵野館で観たイラン映画の話……

監督は、政府への反体制的な活動を理由に2010年より“20年間の映画監督禁止令”受けながら、自宅で撮影した映像をUSBファイルに収め、菓子箱に隠して国外へ持ち出し、カンヌ映画祭に応募するなど、大胆かつユニークな方法で作品を発表し続けている「ジャファル・パナヒ」(なんと、名匠アッバス・キアロスタミの愛弟子)。

『人生タクシー』(原題:Taxi2015年製作)は、そのパナヒ自身がタクシー運転手に扮して、厳しい情報統制下にあるテヘランの街に暮らす人たち(乗客たち)の人生模様を描き出し、2015年ベルリン国際映画祭で審査員長のダーレン・アレノフスキー(『ブラック・スワン』等の映画監督)から、「この作品は映画へのラブレターだ」と称賛され、金熊賞及び国際映画批評家連盟賞をダブル受賞した作品だ。(車内に固定された数台の小型カメラ及びスマートフォンの動画&デジカメの映像のみで作られているそうだが、そんな制約を感じさせない編集力&ライブ感)

(パナヒの運転する)「タクシー」に乗り込んでくるのは、死刑制度について議論を始める相乗りの男女(路上強盗VS女教師)、海賊版レンタル業を営む小柄な男、何故か金魚鉢を手に道を急ぐ二人の老婆、学校で発表する映画の題材を求めて写真を撮りまくる“おしゃべりな小学生”の姪などなど……揃いもそろって個性的というか、濃い目のキャラクターばかり。(はじめは「ドキュメンタリーか?」と思ったが、この“濃さ”でさすがにソレはない。やはり「乗客」は全員監督の知り合いの俳優で、おしゃべりな小学生は実の姪っ子ハナちゃんとのこと)

で、ドキュメンタリーとフィクションの境界線上にある映像を観る新鮮な感覚を味わいながら、その乗客たちが巻き起こすコミカルなドタバタ劇に、思わずハハハと笑いが漏れる数十分(乗客の話に律儀に付き合うパナヒの表情・言葉も魅力的)。そして、ユーモラスなやりとりの中で、ごく自然に語られていく「自由なき巨大な独房」の核心。

終盤、ダッシュボードに置かれた一輪の赤いバラ(道すがら、偶然?出会った友人の女性弁護士がくれたもの)に目を奪われ、きっと心地よい余韻に包まれる希望に満ちた美しいラストが待ち構えているのだろう……と予測したのも束の間、無力な日本人の浅はかな期待は見事に裏切られてしまった。

というわけで、最後はテヘランの街に置き去りにされたような気分で大きく息を吐いて席を立ったが、素晴らしい映像と敬愛しうる「人間」に同時に出会えた“嬉しさの余韻”の方が、強く長く心に残る珠玉の一本。(「映画を愛する人、ものづくりに関わる人、そして壁に立ち向かうすべての人々に贈る、奇跡の人生讃歌!」という宣伝コピーに偽りなし)

今日の〆に、そのセンス・風貌こみで、すっかりファンになってしまった「ジャファル・パナヒ」の創作活動に敬意を表しつつ、プログラムに載っていた彼のメッセージを紹介したい。

私は映画作家だ。
映画を作る以外の事は
何も出来ない。
映画こそが私の表現であり、
人生の意味だ。
何者も私が映画を作るのを、
止める事は出来ない。
何故なら最悪の窮地に
追いやられる時、
私は内なる自己へと沈潜し、
そのプライベートな空間で、
創作する事の必然性はほとんど
衝動にまで高められるからだ――
あらゆる制約を物ともせず。
芸術としての映画は
私の第一の任務だ。
だから私はどんな状況でも
映画を作り続け、
そうする事で敬意を表明し、
生きている実感を得るのだ。      Jahar Panahi

クゥ~、沁みる!!

※映画の後は、旧知の友人のN君と新宿「鼎」でサシ飲み(N君は日本の労使関係研究の第一人者)。お互いの近況から始まり、現在の政治状況や「天皇の人権宣言」、フランス大統領選、電通・過労自殺問題、日中関係など、温和で博識な彼の「講義」に、私が質問・意見を加えつつ楽しく飲んだ3時間半……特に彼が「園遊会」に招かれた際のエピソードは面白かった。

2017/04/18

「讃美歌」を歌った日。




先週の土曜(15日)、人生ではじめて「讃美歌斉唱」の列に加わった。

場所は、埼玉・大宮のとある結婚式場内の「大聖堂」……長兄の一人息子の結婚式でのこと。教会での挙式に参列するのも初めてだった。

もともと無宗教で、讃美歌といえば「きよしこの夜」と「もろびとこぞりて」を知っているだけ。当然、式次第に書かれていた「讃美歌312番」を知る由もなく「立って静聴するのみ」と思っていたのだが、《いつくしみふかき》から始まるその歌詞を読むうち、自然に童謡「冬の星座」の旋律が頭に浮かび、同じ曲かも?と普通に歌えそうな気になり、伴奏が流れたところで「間違いなし」と確信。スムーズに斉唱の流れに入った。(後で調べた所、「讃美歌312番」は、文部省唱歌「星の界(ほしのよ)」&「星の世界」と同じメロディ。「冬の星座」は酷似しているが別モノらしい)

で、パイプオルガンに合わせて「312番」を声高らかに歌った後は、その勢いでまったく知らない「讃美歌430番」(妹背をちぎる)を超適当に歌い切り、「びっくり。知らないのに歌っちゃってる!」と感心した(呆れた?)様子のツレに、「音感いいからね、オレ」と軽く“ふふん”の一言。傍にいた次兄も楽しそうに笑っていた。(最近カラオケに行ってないので、「讃美歌」はノドにとってイイ刺激になったはず)

挙式を終えた後は、時折ガーデン・セレモニーを行いながらの披露宴……甥っ子の結婚相手が大学時代の同期生(同じ学科)ということで、共通の友人であるサークルの仲間や地元の中学の友だち、そして勤務先の同僚など、7割方2030代の人たちで占められた会場は、長々と堅苦しい挨拶をする人もなく、若い熱気と感動の涙に包まれ大盛り上がり。立派に成長した甥っ子の姿を頼もしく思いながら飲み干すワインと料理の味も格別で、とても気持ちの良い時間を過ごさせてもらった。

閉会後、出口付近で招待客を見送るモーニング姿の若々しい兄(髪の毛が大分残っているせいか、とても年には見えない)と「元気で!」と固く握手を交わし、私とツレと次兄で語らいながらの帰り道……若い二人の晴れやかさはもとより、兄弟三人、10年ぶりの再会で健在を喜び合えた嬉しさからだろうか、「いい結婚式だったね」と、つい「らしくない」事を呟いてしまった。

 

読書メモ②



●『夜の谷を行く』(著者:桐野夏生/文藝春秋)

連合赤軍事件から早40有余年。

振り返れば、テレビの前に釘付けになった「あさま山荘」での激しい銃撃戦の後、逮捕された者や逃走したメンバーの自供によりリンチと粛清が繰り返された「山岳ベース事件」が発覚……
当時、「学生運動」「左翼革命運動」に少なからず共感していた、二十歳そこそこの自分にとっても事件の衝撃は激しく、日々ニュースが流れる中《もしも自分がそこにいたら、即「総括」の対象となって殺されていたのではないだろうか。イヤ、もしかしたら、保身のために殺す側に回っていたかもしれない》と、その凄惨な光景を思い浮かべては振り払いながら、言い知れぬ恐怖とおぞましさで全身が震えるような感覚を味わったものだ。

そんな風に、一連の事件を自分の身近で起きたことのように捉えていたことを、「当事者でも過激派でもないのに?」と今の若者は不思議に思うかもしれないが、山岳ベース事件の中には、普通に大学生活を送っていて、たまたま呼ばれたというメンバーもいたのだ。残虐なリンチ殺人は、自分の日常の延長線上でもありうる事件なのではないかということを、私を含め多くの若者が感じていた時代だったのだと思う。

その忘れがたい「事件」を題材に、《革命を夢見ていた女たちの、もうひとつの真実》として捉え直して描いたのが桐野夏生の『夜の谷を行く』。

主人公は、70年代、革命左派の一人として連合赤軍に加わり、「総括」から逃れるために山岳ベースから逃走した過去を持つ西田啓子。それから40年以上、世間から隠れるように独り静かに生きていた彼女の元に、突如、昔の仲間からの連絡が入る。そして最高幹部・永田洋子の死、東日本大震災、さらに同志だった元夫の登場などが続き、穏やかだった日常に波風が立ち始める……というのが大まかなあらすじだが、避けてきた過去と向き合う「西田」の葛藤と経緯がリアリティを持って胸に迫る中、最も強く心に残ったのは「誰とも、何も分け合わなかった、この孤独が、自分の受けた罰かと思う」という彼女の言葉。そして、重いストーリーの結末に用意された見事なまでの解放感……「読んで良かった」と心から思える作品だった。

で、読後、改めて心に刻む「連合赤軍事件」の最も大きな教訓……

それは、誰もが持ちえる「自分が絶対的に正しいと信じる価値観や信念のためならば、他者の思想や心をコントロールあるいは暴力的に破壊しても構わない」という発想を、根源的な悪として絶対に認めない・許さない姿勢を一人一人が持つことであり、その意思が広く自然に行き渡る社会を作ること。もちろん「自分自身も(誰かの力で)絶対にコントロールされない」という意思を込めて。

 

2017/04/15

読書メモ①



●『騎士団長殺し』(著者:村上春樹/新潮社)

「優れたホラー」だとか「大人のファンタジー小説」だとか「<喪失―探索―発見―再喪失>という、従来の物語パターンを更新する、この作家にとっての新境地を切り開く作品」だとか、様々な評が飛び交っている村上春樹の新作『騎士団長殺し』……

私的には、物語の核となる「イデア」と「メタファー」の世界に入り込む前に、よく分からないクルマのうんちくやオペラ&クラシック音楽の造詣及び「こんなカップル、いるの?」的な興醒めの寝物語&露骨な性描写など、作者特有のセンスと少し煩わしいサービス精神に、その都度、思考力・想像力がブレーキをかけられる感じで、最後まであまり没頭できなかったなあ……という印象。(自分の根気が薄れたせいもあると思うが)

で、読後ぼんやり思ったのは「ティム・バートンが映画にしてくれたら、普通に面白くなるのかも……(もちろん、ハードな絡みは抜きで)」ということ。

まあ、そんな適当なことを言っている時点で、村上春樹の良い読者ではないのかもしれないが、かなり凝った舞台設定&ユニークな人物キャラクターを作り上げ、様々なモチーフを散りばめた割には『1Q84』のようなスケールの大きさや奥深さが感じられず、残ったのは「何も解決されないまま終わってしまった」物足りなさと脱力感。誰かが言うように、「大人のファンタジー小説」(もしくは軽めの哲学風ミステリー?)という以上の感想は持てなかった。(もちろん、1000頁を超える長編を破綻なく書き切る筆力は流石と思うが)

加えて、主人公に大きな影響を及ぼす、絵画「騎士団長殺し」を描いた洋画家「雨田具彦」(後に日本画へ転向)に象徴されるように、改めて欧米文学と日本文学の接点に立ち位置を定めようとする作者の意志は何とか理解できても、私たちの目に映る世界があまりに無残で混沌とした様相を呈している今、また、持ち味の「ファッショナブルなセンス」が、とても「ファッショナブル」とも思えなくなった今、その作品は今後も世界と日本の人々の感性に、強くコミットできていくのだろうか? 「自分の心の闇との対峙」を繰り返すだけで、世界が向き合う問題に対する言葉を持たない・及ばない、ただの観念小説に終わるのではないのだろうか?という疑念も湧いた。さて、次はどんな「村上春樹」が読めるやら。

 ●『犬を飼う』(著者:谷口ジロー/小学館文庫)

一週間ほど前、池袋に出たついでに寄った西武の三省堂で、ふいに目に留まった文庫本。「帰りの電車で読むのに丁度いい」と思ったのだが、あにはからんや、練馬を過ぎたあたりで胸アツ制御不能に陥り、鼻をかんだり、目頭を拭ったり……という感涙モノの一冊。ガラガラの電車で幸いだった。

というわけで、「犬を飼う」というより「(飼っていた)犬が死ぬ」物語……作者は今年2月に亡くなった漫画家・谷口ジロー。

作者自身の体験をもとに、子どものない夫婦と、長年一緒に暮らしてきた愛犬(タムタム)との心の交流を、14歳の愛犬が死ぬ数日間を中心に描き上げられたもの。敬愛する谷口ジローさんがより身近に感じられる短編集だった。続編「そして…猫を飼う」も入っているので、犬を飼う人のみならず猫を飼う人も必読!

ちなみに『犬を飼う』は、19916月に「ビッグコミック」に掲載され、翌1992年に第37回小学館漫画賞審査員特別賞を受賞。その後、続編「そして…猫を飼う」「庭のながめ」「三人の日々」、そしてアンナプルナ登頂の夢を追う男の物語「約束の地」と一緒に単行本としてまとめられ、2011年に文庫化されたそうだ……我が家が猫を飼うことになったのは2013年、発行と同時に読んでいたら「涙腺決壊」は多分なかったと思う。

 

2017/04/11

在日高校生の青春(&真央ちゃん)




花冷えの一日。散り際の桜が冷たい雨に濡れていた。

真央ちゃん引退……

ファンの一人として、少し淋しくはあるが、驚きはない。結局、あの芸術的かつ感動的な「フリー」(ソチ五輪)が彼女のスケート人生の集大成だったということ。ケガに苦しみながらも戦い続ける氷上のヒロインに、平昌での「復活」を期待した人も多かっただろうが、奇跡がそうそう起こるはずもない。今はただ、鮮烈な4分間の記憶を残してくれたことに感謝したいと思う。

続いて、先週(4日)、渋谷ユーロスペースで観たドキュメンタリー映画『ウルボ 泣き虫ボクシング部』の紹介をサクッと。

タイトルの「ウルボ」とは、朝鮮・韓国語で「泣き虫」のこと……韓国出身のドキュメンタリー監督イ・イルハが、東京朝鮮中高級学校の高校ボクシング部に取材を敢行し、厳しい練習に励む在日コリアン部員たちの青春と葛藤の日々を捉えたドキュメンタリーだ。

映画の冒頭、東京の真ん中で、朝鮮学校の真ん前で、在日の人たちに浴びせられる「ヘイトスピーチ」の罵声が響く。

朝鮮人でありながら日本で生まれ、どこにも属せないことに矛盾や差別を感じている人々の姿を描くのだから、当然、映画に込められたテーマは重い。また、心ないヘイトスピーチに晒されるだけでなく、朝鮮学校の無償化除外問題、各種学校扱いの朝鮮高校生は大学進学の際に「高等学校卒業程度認定試験」を受けなければならないなど、彼らが置かれている環境の厳しさにも心が痛む。

だが、試合に負けては泣き、勝っては泣き、出場できずに泣く、ウルボで純粋な高校生たちの日常を追うカメラが描き出す光景は、それら深刻な背景を忘れさせるほど、熱い友情に満ちた、直向きで、清々しい青春映画そのもの。在日としての誇りと葛藤も、民族の悲願である「祖国統一」も、自身のアイデンティティとして、ごく自然に気負いなく受け止めている彼らに、良き人生を!と、心底エールを送りたくなる86分。
在日高校生たちのハンパない熱量と絆の強さに、心地よい刺激を受けながら、「やっぱ、青春っていいなあ~」……と思える快作だった。(ただ、あまりナショナリズムに偏らず、祖国の現状を冷静に見つめる視線や言葉があっても良いのでは……という気はした。まあ、そこに触れられない事情もあるのだろうけれど)

ちなみに映画の案内チラシにはこう書かれている。

「僕らには夢があります」
「家族や友だちがいます」
「一生懸命に生きています」
「あなたと同じように」

 

2017/04/10

ちょっと嬉しいニュース(&「男の本質…」)




10数年前、厚労省の仕事で「里親制度」の周知用ポスターを制作したことがある。(8社コンペで採用されたものだが、「WEB啓発ポスター資料館」で注目ポスターとして紹介されるなど、かなり評判が良かったようで長期にわたり活用されていた)

以来、テレビから「里親…」という言葉が流れてくると自然に耳が傾くし、里親関連の新聞記事にも必ず目が行くようになった。

で、先日。「日本初、男性カップルの里親誕生」というニュースが大きな話題を集めたのは周知の事。

私も、「経済的に安定し子どもに愛情を持って育てられるなら、LGBT(性的マイノリティー)かどうかは関係ない」と述べ、これまでの慣習を打ち破り、制度に風穴を開けてくれた大阪市長の判断に拍手を送りつつ、以前に観た映画『チョコレートドーナツ』の3人の姿が、不意にまぶたに浮かび、心温まる思いがした。
(『チョコレートドーナツ』は、1970年代アメリカの実話を基に、母親に見捨てられたダウン症の少年と一緒に暮らすため、司法や周囲の偏見と闘う男性カップルの姿を描いた作品。ラストで主人公ルディが熱唱する「アイ・シャル・ビー・リリースト(I Shall Be Released)」がとても印象的だった)

それからすぐ後、今度は、若かりし日の吉本(隆明)さんに太宰治が言った言葉が脳裏をかすめた。

「おまえ、男の本質はなんだか知っているか」
「いや、わかりません」
「それは、マザーシップってことだよ」……

家父長制度的な発想で殊更「男らしさ」を求め求められた社会は、女性に対する偏見や差別を生みだす大きな原因にもなってきたが、私のように「男らしさ」が身につかず、幼くして父を失くしたせいか、どことなく「父性」の欠落を感じている人間にとっても息苦しいもの。
太宰の苦悩の重さから生まれた、その言葉の深さをはかり知ることはできないが、吉本さんの著作を通じてこのエピソードに触れた時、心が少し解放されたような気がしたものだ。

「男の本質はマザーシップ」

「男性カップルの里親誕生」という心なごむニュースが、「里親制度」及びLGBTへの理解を深め、あらゆる偏見と差別をなくすきっかけになればと願いつつ、残された人生、私も「本質」を少しでも具現化する生き方ができればなあ……と思った次第。

まずは、黒猫ジャックの「母」であること……かな?(違うか!)