先週の日曜、私用で池袋へ向かう西武線の車内で、私の傍に立っていた初老の男性二人(60代後半か?)の、こんな会話を耳にした。
「……彼は、ずっと独り身なの?」「イヤ、奥さんはいたんだよ。でも、ゴミを出してきますと言って出て行ったきり、帰って来なかったんだって」「……ふーん」
って、ちょっと待ってよ、その続きもなく話は終わっちゃうわけ?!と思わず口を挟みたくなる驚きの内容だったが、彼らにとって何故帰ってこなかったのかはどうでもよい事のようで、何の脈絡もなく話題は懐かしのヒット曲へ。「アンタあの娘のなんなのさ」と楽しそうに呟きながら、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の歌詞のユニークさを讃え合っていた。
まあ、色々と生きづらい世の中、自分の身近で何が起きても不思議じゃない状況を、中高年はみな抱えているということ。人様の人生でイチイチ深刻になってなんかいられないか……と、能天気に「ウブなネンネじゃあるまいし」と歌のセリフを呟き続ける彼らを微笑ましくさえ思ったが、やはり人様の事とはいえ“覚悟のゴミ出し”は気になる情景。残された男の心中を察するより、私はその後の“奥さん”の人生の方が気になってしまった。
さて、そんな偶然聞いた話に刺激を受けて……と言うわけではないが、今週、半年ほど本棚に眠っていた村上龍の『55歳からのハローライフ』を取り出し、3日かけて読み終えた。
本を購入した際はタイトルをよく見ずに、てっきり『13歳からのハローワーク』の中高年バージョン(職業案内風小説)かと思っていたが、「ハローワーク」否「ハローライフ」……中高年の再就職や起業をめぐる物語ではなく、中高年男女の人生のリスタートを描いた5つの連作中篇小説をまとめたもの。
それぞれに、婚活、リストラ、早期退職、ペット愛(と夫婦関係)、老いらくの恋など作品のモチーフは異なるが、《「悠々自適層」「中間層」「困窮層」を代表する人物を設定した》という5人の主人公はみな人生の折り返し点を過ぎて、何とか再出発を果たそうとする“普通の人々”。
その人生にじっくりと寄り添い、出会った人と築き得た(あるいは築こうとしている)「信頼関係」を共通コンセプトに、「生きづらい時代」を生きる人々の「希望」を探り出し、経済的格差を超えたサバイバルの在り方を提示しようとする作家の意志と温かい視線をストレートに感じることのできる珠玉の連作。もちろん、読後感も頗る心地よく、猛暑の夏を締めくくるいい本に出会うことができた。
で、「ハローライフ」の後書きを読んだ後、先週の金曜(23日)、朝日の朝刊に載っていた「生きづらい世を生きる」と題された、日本近代史家&評論家・渡辺京二さんのインタビュー記事を思い出し再読。その言葉にまた深く頷かされた。以下、印象的な部分を抜粋。
《昔は想像もつかなかったほどの生産能力を、私たちはすでに持っているんですよ。高度消費社会を支える科学技術、合理的な社会設計、商品の自由な流通。すべてが実現し、生活水準は十分に上がって、近代はその行程をほぼ歩み終えたと言っていい。まだ経済成長が必要ですか。経済にとらわれていることが、私たちの苦しみの根源なのではありませんか。人は何を求めて生きるのか、何を幸せとして生きる生き物なのか、考え直す時期なのです》
《就職難で『僕は社会から必要とされていない』と感じる若者がいるらしいねえ。でも、人は社会から認められ、許されて生きるものではない。そもそも社会なんて矛盾だらけで、そんな立派なものじゃない。社会がどうあろうと、自分は生きたいし、生きてみせる、という意地を持ってほしいなあ》
《人は何のために生きるのかと考えると、何か大きな存在、意義あるものにつながりたくなります。ただ、それは下手をするとナチズムや共産主義のように、ある大義のために人間を犠牲にしてしまう危険がある。人間の命を燃料にして前に進むものはいけません。その失敗は、歴史がすでに証明しています》
《人と人の間で何かを作り出すことですよ。自分を超えた国家の力はどうしても働いてくるんだけど、なるべくそれに左右されず、依存もしない。自分がキープできる範囲の世界で、自分の仲間と豊かで楽しい世界を作っていく。みんなで集まって芝居をやるのもいい。ささやかにやっていける会社を10人くらいで立ち上げてもいい》
どんな世の中でも、「希望」は、いつだって自分の近くにあるさ。村上龍も渡辺京二もそう言っているように思う。
今夜は、身近な仲間と田無の「与作」で今夏ラストの暑気払い。
0 件のコメント:
コメントを投稿