耳慣れない言葉だが、元ラグビー日本代表の平尾剛氏(現・神戸親和女子大学教員)によると、《政府や権力者が、自分たちに都合の悪いことをスポーツの喧騒で洗い流すという意味》だそうだ。
緊急事態宣言下で行われた今回の五輪は、まさにそれ。
「五輪で日本選手が頑張っていることは、われわれにとっても大きな力になる」「五輪がなかったら、国民の皆さんの不満はどんどんわれわれ政権が相手となる。厳しい選挙を戦わないといけなくなる」と、大会期間中に堂々と“ウォッシュ宣言”をした自民党の議員もいた。
その河村建夫元官房長官の発言に対して、平尾さんは《これが「スポーツウォッシング」です。ここまであからさまなのに憤りも危機感も感じないスポーツ関係者は、取り込まれているんですよね、もう。スポーツを守ることよりも強者の側に立つことを選んだんです》と、つぶやいた。
(“強者の側に立つ”スポーツ関係者……と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、JOC会長・山下泰裕氏と東京オリパラ組織委員会会長・橋本聖子氏。とりわけ、柔道家・山下泰裕の変節ぶり及びその発言の酷さには、これが、史上最強と謳われた、あの山下?と、びっくり&がっかり。秩序と権力に従うだけの体育教育が生んだ残念な人だったか…と、理解する他なし)
で、今回の五輪を通じて思ったのは、もともと日本には“スポーツウォッシング”しやすい土壌があるのかも?ということ。(そもそも「多様性」を唱えながら、「心を一つに」というのが変だし、始まれば五輪一色になるメディアも異常)
大会期間中の新聞(読者欄)やSNS上で『選手らの努力と成果には敬意を表すが、強行開催は間違い』『五輪に反対なのは政府のやり方が悪いからで、もちろんアスリートは応援したい』『まず、多くの感動をもたらしてくれた選手の皆さんには感謝したい』など、五輪の強行開催を問題視しながらも、半ば言い訳のように選手を讃える、擁護する。あるいは決まりごとのように感動し、感謝する。といったコメントが数多く見られるのもその証左では?…と思う。(こういう妙な気遣いが、「どのような状況であろうと五輪選手は手放しで応援されるべき」という驕りと「応援するのは当たり前」という世間の風潮を生んできたのではないだろうか。期間中「オリハラ」という言葉も生まれた)
「悪いのは政府で、選手に責任はない」という大方の論調にも引っ掛かる。五輪が莫大な予算と人的資源が注がれる極めて公共性が高いスポーツイベントである以上、この状況下に参加する選手たちにも、当事者として責任の一端はあるはずだし、その活躍への称賛と同時に、(意見を発しないことも含めて)発言や行動に対する正当な批判もあって当たり前。政権の決定に黙って、あるいは嬉々として従った以上、その批判的な意見から逃れうる立場にもないと思う。
(当然ながら、謂れもない誹謗中傷は絶対にダメ!だが、「称賛」や「感謝」以外の真っ当な意見まで素直に受け取れない、あるいはそれをも誹謗中傷に含める風潮があるとしたら、ちょっと気持ち悪いぞ、ニッポン…という話)
というわけで、再び、平尾氏のコメント。
《アスリートや元アスリート、競技関係者は当事者として自分の意見を述べないといけないと思う。意見を発しにくいのは分かるが、ほとんど「無風状態」なのはいかがなものか。社会を生きる人間としての責務を果たしてほしい》
《「アスリートは「人生をかけてやってきた」と言うが、それこそ人生が立ち行かなくなっている人たちがアスリート以外にもたくさんいる。飲食店の経営者をはじめ、市井を生きる人たちもまた「人生がかかっている」。他の文化的イベントも相次いで中止になっているのに、五輪だけが特例を重ねてまでやるべきなのかということに対して、当事者の意見を発しないまま開催に突き進むのは違うと思う》
閉会式も終わり、時すでに遅し…という感じだが、今後も五輪が続くとして、まず私たちが選手に求めるべきは成果(メダル)ではなく当事者意識。今回あからさまになった様々な「五輪問題」から目を背けず、当事者として、しっかり自分の意見を発してもらうこと。それが、平尾氏が言う「スポーツを五輪から救いだす」第一歩なのでは?と思う。
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