2018/09/05

激熱の189分。『菊とギロチン』!




先週の木曜日(830日)、今年一番!と言ってもいいほど“熱い”映画に出会った。場所は新宿(テアトル新宿)、タイトルは『菊とギロチン』。(菊は天皇をイメージしたものかと思ったが、主人公の女力士「花菊」からとられているようだ)

舞台は、まだ階級社会の色濃い大正末期、関東大震災直後の日本(朝鮮人虐殺、陸軍憲兵大尉・甘粕正彦による大杉栄暗殺と続き、急速に社会の不寛容化が進み、無謀で愚かな戦争へと突き進む時代……そのきな臭さは、ゾクッとするほど今と似ている)。実在したアナーキスト・グループ「ギロチン社」の青年たちと、女相撲で巡業生活をおくる女性力士たちとの交流を通して描かれる青春群像劇……

もちろん、実際の歴史の中で、大正アナーキストと女相撲一座(明治以降に興隆)が出会ったなどという事実があったわけではなく、「格差のない平等で自由な社会」を求める若者たちと、「(差別と暴力に屈せず〉強くなりたい、自分の力で生きてみたい」と願う女力士たちが“思いがけずどこかで出会い交流していたら…”という「もしも」のドラマ。
言わば《「観念」と「肉体」の「乱暴な野合」の果ての共生(by長谷川和彦)》を夢想したものだが、その独創的かつ大胆なアイデアが見事にハマった快作(怪作?)。

今、作らなければ!……という、瀬々敬久監督の強い思いが、反抗し、暴走し、愚かな失敗を繰り返しながらも夢を見続ける若者たちと、悲壮な覚悟で相撲一座に加わり、力と技に日々磨きをかけて戦いに挑む女力士の姿に投影され、時に激しく、時に愛おしく、やるせなく、観る者の胸に突き刺さる。

戦後民主主義と憲法が為す術なく権力に蹂躙され、安倍政権の膿が化膿して腐臭を放っている今、そして同時に、心も脳もある人たちが「選挙を何度繰り返しても結果は同じ。保守とは無縁の“右の革命政権”によって、このまま日本の民主主義は敗北してしまうのではないか?」という無力感に苛まれている今、やはり私もどこかでアナーキーな感性を求めていたのだろうか……一方の主人公であるギロチン社・中濱哲(東出昌大)に象徴される、口だけは達者だが、何ともちゃらんぽらんで(よく言えば自由気侭)、情けないほど弱っちい青年たちが見せてくれる“変身力”とでも言うべき、かっこ良さ(その志の高さと決起する情熱)に惹かれ、「いのちぼうにふろう」的なその無軌道さに、いつの間にか強い共感を抱いている自分に気づくというパラドックス。「テロリズム」が民主主義の普遍的なルールと相反するものであることなど百も承知しているはずなのに。

そんな私同様、PANTA(頭脳警察)、長谷川和彦、原一男、山崎ハコ、鈴木邦男(元一水会顧問)、蒼井そら(タレント、元AV女優)、新井英樹(漫画家、『宮本から君へ』)などなど、左右を問わずアナーキーな匂いを漂わせてきた錚々たる顔ぶれが、パンフレットに寄せた「共感」の言葉も実に熱いものだった。

例えば、鈴木邦男
今の国会でいくら質問しても何も変わらない。
TVでいくら激論を交わしても何も変わらない。
言葉をいくら継いでも、
さらに、それを覆い隠す言葉が対置されるだけだ。
この欺瞞の状況に風穴をあけるのは「言葉」ではない。
行動だ!情熱だ!

例えば、蒼井そら
強い女になる、革命を起こす、世界を変える。
どれを取っても覚悟が違う。
今の時代に生まれて良かったと思う自分が情けなく、
鉈で殴られたような作品でした。

そして、山崎ハコ
僅か15年の妙な謎の大正時代。
菊が揺れ、関東の大地も揺れ燃えた。
ナマズの様に、若い魚達も右へ左へと暴れ出す。
その愛おしさったらない。
青い春の映画は、今も青っちい私をチクリと刺した。

さらに、PANTA
菊の香りにむせびながら、
いつもいましかないんだよと、
テロルの息吹がレンズを弾く。
しかし、とんでもなく荒々しく優し
煮えたぎるような映画が出てきたものだ。

以上、「夢見る力」「生きる力」の源を、自ら確かめんとする人たち(特に若者たち)にこそ観てほしい、2018年度イチオシの日本映画であります。

※映画の後は、JINさんとロケハン&打合せ(及び“サシ飲み会”)があり、新宿から六本木へ移
 動。ロケハンを軽く済ませた後、六本木交差点付近をそぞろ歩きながら安くて旨そうな店を物
 色。「焼き鳥150円から」という看板につられ居酒屋『玉金』へ。口に出すのも憚れる店名に 
 ちょっと怯んでしまったが、えいやっ!と入って正解。焼き鳥(ねぎま、レバー、ハラミなど)を
 肴に、ハイボールを飲みながら2時間ほど、楽しい時を過ごした。

 

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿