萩野公介に始まり、内村航平、ウサイン・ボルト、卓球女子トリオ&水谷隼、タカマツ・ペア、陸上400mリレー、そして閉会式(色々解せない安倍マリオは別にして、8分間の東京PRはなかなか面白かった)……という感じで、17日間たっぷり楽しませてもらったリオ五輪。
(外国選手では、陸上400mのバンニーキルク、水泳・女子高飛び込みの中国選手「仁茜」に感嘆。特に今大会最年少の金メダリスト、15歳の仁茜の演技は凄かった)
(外国選手では、陸上400mのバンニーキルク、水泳・女子高飛び込みの中国選手「仁茜」に感嘆。特に今大会最年少の金メダリスト、15歳の仁茜の演技は凄かった)
で、スポーツの素晴らしさを改めて認識しつつ、大会期間中気になったのは、日本選手の大活躍のお陰で何度か聴かされた「長すぎる(遅すぎる)君が代」(以前は60秒以下だった「君が代」演奏を、リオ五輪では同じ楽譜で1分23秒に引き伸ばしているそうだ)……
JOCがこのテンポの遅い「君が代」を用いているのは2014年ソチ冬季大会からしいが(演奏は読売日本交響楽団)、当時獲得した金メダルはフィギュアスケート男子シングルの羽生結弦選手の1個だけ。「君が代」も一度しか流れなかったので特に問題になることもなかった。しかし今回は金メダル12個。
大会前の「国歌も歌えないような選手は日本代表ではない」という森喜朗(組織委会長)の強圧的な発言の影響もあり、「長すぎて歌いにくい君が代」がいやがうえにも目立ってしまう五輪になってしまった。(もともと限界値まで延ばされている雅楽を、さらに4割以上も無理矢理引き延ばしては、いくら肺活量が優れた運動選手でも歌いづらいのは当たり前。現に、体操の内村選手も「すごくゆっくり流れたので、ちょっと歌いづらかった」と言っていた)
では、何故それほど歌いにくい「長すぎる君が代」を作ってしまったのだろう……《「国旗掲揚時の統一感を出すため、演奏時間を60~90秒に収めた国歌音源を提出すること」というIOC(国際オリンピック委員会)の指示を受け、より遅めに演奏し、現在のゆったりとした「君が代」が完成した》とJOCは説明しているようだが、ならば、60秒でも65秒でもよかったはず。範囲の上限近くまで遅くした理由が未だによく分からない。(単に「(国威発揚のため)できるだけ長く“君が代”を流したかった」だけかもしれない。あるいはスローにすれば「より荘厳になる」とでも思ったか?)
その後「テンポについては君が代の演奏上許される範囲で遅くしており、特に問題はない」というJOCの開き直りコメントがネット上に流れただけで、秘かに「問題あり(許される限度を超えている)」と思っているNHK及び各テレビ局は、選手の表彰台の姿や日の丸は映したものの肝心の『君が代演奏』(国歌斉唱中の場面)は意識的に避けていた感じ。また、私が知る限り、大会期間中に「長すぎる君が代」を話題にする局もなかった。(何らかの圧力で「長すぎる君が代」に触れるのは“ご法度”になったのかも?)
だから、競泳選手団の帰国会見で「君が代を競泳陣みんなで熱唱して気持ち良かった」という言葉が松田選手の口から発せられた時は、「あのクソ遅い君が代を?みんなで熱唱?!…うっそだろ!」と驚くと同時に、大会前の森喜朗の発言が何の抵抗もなく普通に受け入れられているのか……と尚更気分が悪くなってしまった。(みんなで「君が代」を歌う前に、代表選手は「オリンピック憲章」をよく読み、その精神を理解するのが先決では?)
そもそも「君が代」は、アメリカやフランスのように自国の優越を歌った勇ましい国歌とは異なり、《人の心を鎮め、その場の雰囲気を厳かにする》「祈りの歌」。
試合や競技に向かう心を鼓舞するために歌うような歌でもなければ、結婚式や祝賀会などの晴れがましく賑やかな席にも相応しくない。
むしろ人前で歌うことが憚られるような雅な旋律を持つ不思議な国歌であり、歌うにしても“みんなで熱唱”するような歌ではないはず。(例えば、結婚式で突然「君が代」が流れたり、誰かが歌ったりしたら、まず確実にシラケると思う)
というわけで、如何なる場でも「君が代」を歌うつもりのない私などは、《昔から「辛気くさい」「国歌としては短い」などの批判にさらされながら(戦争期は政治的プロパガンダに利用されながら)、良くも悪しくも近代日本の象徴として生き残ってきた「君が代」を、「歌う国歌」から「聴く国歌」に変えてはどうか》という『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)の著者・辻田真佐憲さんの提案に一票を投じたい気分にもなるが、2020年の東京にも引き継がれそうな“長すぎて歌いにくい”「君が代」は「聴く国歌」としてもちょっと耐え難いもの。
(「歌う国歌」から「聴く国歌」へという提案は《「歌う」という行為は、強制された時の屈辱感や抑圧感がとても強いが、「聴く」という行為は、一分程度であれば強制されてもそれほど強い抑圧感はもたらさないはず。実際、多くの日本人にとって「君が代」はすでに「聴く国歌」になっている》……という考えに基づいている)
大会前「どうして、みんな揃って国歌を歌わないのでしょうか」と斉唱を半ば強制しながら“歌わない(&歌えない)選手”を遠回しに非難した「君が代」大好きな失言王・森喜朗は、この国辱的な「長すぎる君が代」をどう思っているのだろう。黙認(?)しているのも不思議な話……
本当に非難すべきは国家を歌わない(日本代表)選手ではなく、国歌を私物化するごとく国民に意図も伝えず「長すぎて歌いにくい君が代」を勝手に作ったJOC(及び君が代を利用しようとする森喜朗のような政治家たち)だと思うのだが。
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