2016/08/31

8月中下旬メモ



815日(月)終戦記念日or敗戦・降伏記念日
隣駅のTジョイで映画『シン・ゴジラ』を鑑賞……のつもりだったが、上映開始から1520分、動く原子炉のようなゴジラに踏みつぶされていく東京の街々を眺めているうち、急激に眠気が押し寄せ、ほぼ朦朧状態。
途中「ん?なぜ石原さとみが偉そうな態度で英語を喋っているんだろう」と疑問に思ったが、その役柄も分からないまま、一気に夢の中。気がついた時にはエンドロールが流れていた。

かねがね「映画を観ながら寝るなどもってのほか、映画に対して失礼だ!」と公言して憚らない自分が、寝不足気味でバイトの疲れが残っていたとはいえ、傑作と評判の映画でまさかの寝落ち……我ながら情けなし。
(「えっ、あの映画で寝ましたか?!」と、『シン・ゴジラ』大絶賛の建築家IWAMAさんにも失笑を買いそうだ)

「万全の体調で、また観よう」と、鑑賞リベンジを期しての帰り道。駅前の「ジュンク堂」に立ち寄り、桐野夏生の小説『猿の見る夢』を購入。

家に帰ると友人のTAKENAKA君から、一句添えられた残暑見舞いハガキが届いていた。
立秋や風のささやく声の朝

816日(火)
バイトは休み。前夜から読み始めた『猿の見る夢』を一気に読了。

主人公は、大手一流銀行から服飾メーカーに出向している還暦間近の男・薄井。
家庭(妻と二人の息子)、不倫(10年来の愛人がいながら、会長秘書も気になる)、出世(65歳まで勤め上げるため、常務昇格を狙う)、老後(実家の200坪の土地に二世帯住宅建築を目論む)……定年前の果てなき足掻きと優越の中、自分の思い通りにすべての事がうまく運ぶと信じて疑わない男の人生は、ある女性(占い師)の出現により、大きく狂い出す。というお話。

身勝手な欲望と独善的な人生設計をリアルな女たちに見透かされているのも気づかず、徐々に負のスパイラルにはまっていく“終わらない(終われない)男”の哀れな生き様に、「しょーもないヤツだなあ~」と呆れ果てながら、何故かその人生に救いの手を差し伸べたくなるような、不思議な魅力(魔力)を秘めた一冊。実に面白かった。

で、「これまでで一番愛おしい男を描いた」という著者・桐野夏生の言葉は、皮肉?本音?……どちらにしても、女は怖し。

820日(土)
旧友のY君、O君と暑気払い(呑み会)。場所は池袋の「酒菜屋」、少し早目に17時スタート。
リオ五輪・陸上400mリレーの快挙をのっけの話題に、ビール&ハイボールで乾杯……その後
3人とも日本酒に切り替え、五輪(卓球、バドミントン、「君が代」)、政治(都知事選、日本会議、「STOP!安倍政権」……そのために「何か自分ができることはないものか」とはO君の言葉)、映画(『帰ってきたヒトラー』他)、本(小説『流』、加藤典宏の『戦後入門』他)、サッカー日本代表、ベトナム旅行計画など、勝手な進行役(?)に合わせて話が進み、楽しく盛り上がった。
(席上、法学者のO君から出版されたばかりの自著『イェーリングの「転向」』を贈呈される……
パラパラめくっただけで、大変な労作というのは分かるが、イェーリングって誰?概念法学って何?の門外漢には半分読むのもしんどい感じ。申し訳ないが暫く本棚で眠ってもらおうと思う)

2軒目は「萬屋松風」。店を出るまで、何を飲み、何を食べ、何を話したかほとんど記憶なし。
といってヘベレケになったわけでもなく足取りはシャキッ。23時頃、東武線改札に向かうY君に「またね」と手を振り、JRで帰るO君とはハイタッチで別れ、西武池袋線のホームに急いだ。

827日(土)
長野からMOTOMI嬢が上京中。というわけで、いつものメンバーが集合。
田無駅近くの居酒屋でハイボールを飲みながら、4人で楽しく(時にきつめの話題で)歓談。

その際、MIYUKIさんとUEちゃんからコピー(というか言葉)のオーダーあり。MIYUKIさんの写真集に入れたいとのこと。(それ自体は前から頼まれていたのだが、何を書けばいいのかよく分からなかった)
改めて「写真に関係なく、好き勝手に今思っていることを書いてほしい」と言われたが、簡単そうに聞こえて、その実けっこう厄介なご依頼。それはそれで、ちょっと頭を悩ませないと。
(自由な言葉がそうそう自由に出てくるものでもないわけで…)

MOTOMI嬢からは安曇野の酒「酔園 幻の酒」(純米吟醸)を頂いた。(後日味わったが、スッキリ系の甘口で飲み心地よし)
「せっかく東京に出て来たから、どこかで映画を観て帰る」と言っていたが、何を観たのだろう。(「『君の名は。』でも観れば」と勧めたら、「(アニメーションは気になるけど)純愛モノでしょ。今さらね~」って感じだったけど)

2次会はカラオケ。「新宿の女」から始まり、「東京ブルース」「新宿育ち」「北国の春」etc.……と演歌づくしだったが、咽喉の調子はイマイチ。
次第に誰も曲を入れなくなり、会話中心になったので延長はせず、2時間くらいで店を出た。
(いつもの盛り上がりに比べ、地味目な再会だったが、また今度。みんな元気で!)

以上。

明日はW杯アジア最終予選「日本VS UAE」……頼むぜ、ハリル・ジャパン!

2016/08/29

獄中句と『君の名は。』



詠まざればやがて陽炎 獄の息

今日の朝刊(朝日「歌壇・俳壇」俳句時評)にオウム真理教事件の死刑囚・中川智正の句が紹介されていた。記事によると彼は現在、俳句をよすがに独房で悔悛の日々を送っているという。

かのピカは七十光年往けり夏

指笛は球場の父 虎落笛(もがりぶえ)

繊細な感受性と強い正義感は時に人生の歯車を大きく狂わせる……公判中「生まれてこなければよかった」「私は人間失格。すべてを関係者におわびします」と述べた男はいま、自らの罪の深さを原爆に重ねて慄き、またある時は、応援席の父と過ごした少年野球の思い出を手繰りながら帰らぬ日々を思い、死と隣り合わせの独房で厳しい夏と向き合っている。

《奈落の底から生まれた俳句は勁(つよ)い。認識と感情が一本の草になって立っている。草は人間とは何かを問う境界線になろうとしている》
記事の結びに書かれた恩田侑布子さんの言葉が印象的だ。

“人間とは何か”か……なぜ人生には、生きている間に解けそうもない問題ばかりが押し寄せてくるのだろう。これ以上、脳ミソのキャパを増やせそうもない自分にまで。

さて、朝からこんなヘビーで心揺さぶる句に出会ったせいか、昨日Tジョイで観たアニメーション映画の余韻はすっかり薄れてしまったが、消えないうちにその感想をサクっと。

『君の名は。』(監督/新海誠)……

青春のど真ん中から遠く離れた前期高齢者(一歩手前)の男が、今さら“時空を超えてつながるラブストーリー”なんぞに胸キュンしていていいものか?と思うが、いいんです!!

大概の男は幾つになっても己の不甲斐なさと後悔の塊を心の奥に留めながら生きているもの。その揺るぎない切なさをダイレクトにくすぐられたら仕方なし。とにかく空が美しかった。
(「誰そ彼(たそかれ)」と「ムスビ(産霊)」……奇跡につながる繊細な言葉も心に残った)

 

 

2016/08/27

「歌う」か、「聴く」か。(リオ五輪&君が代)



萩野公介に始まり、内村航平、ウサイン・ボルト、卓球女子トリオ&水谷隼、タカマツ・ペア、陸上400mリレー、そして閉会式(色々解せない安倍マリオは別にして、8分間の東京PRはなかなか面白かった)……という感じで、17日間たっぷり楽しませてもらったリオ五輪。
(外国選手では、陸上400mのバンニーキルク、水泳・女子高飛び込みの中国選手「仁茜」に感嘆。特に今大会最年少の金メダリスト、15歳の仁茜の演技は凄かった)

で、スポーツの素晴らしさを改めて認識しつつ、大会期間中気になったのは、日本選手の大活躍のお陰で何度か聴かされた「長すぎる(遅すぎる)君が代」(以前は60秒以下だった「君が代」演奏を、リオ五輪では同じ楽譜で123秒に引き伸ばしているそうだ)……

JOCがこのテンポの遅い「君が代」を用いているのは2014年ソチ冬季大会からしいが(演奏は読売日本交響楽団)、当時獲得した金メダルはフィギュアスケート男子シングルの羽生結弦選手の1個だけ。「君が代」も一度しか流れなかったので特に問題になることもなかった。しかし今回は金メダル12個。
大会前の「国歌も歌えないような選手は日本代表ではない」という森喜朗(組織委会長)の強圧的な発言の影響もあり、「長すぎて歌いにくい君が代」がいやがうえにも目立ってしまう五輪になってしまった。(もともと限界値まで延ばされている雅楽を、さらに4割以上も無理矢理引き延ばしては、いくら肺活量が優れた運動選手でも歌いづらいのは当たり前。現に、体操の内村選手も「すごくゆっくり流れたので、ちょっと歌いづらかった」と言っていた)

では、何故それほど歌いにくい「長すぎる君が代」を作ってしまったのだろう……《「国旗掲揚時の統一感を出すため、演奏時間を6090秒に収めた国歌音源を提出すること」というIOC(国際オリンピック委員会)の指示を受け、より遅めに演奏し、現在のゆったりとした「君が代」が完成した》とJOCは説明しているようだが、ならば、60秒でも65秒でもよかったはず。範囲の上限近くまで遅くした理由が未だによく分からない。(単に「(国威発揚のため)できるだけ長く“君が代”を流したかった」だけかもしれない。あるいはスローにすれば「より荘厳になる」とでも思ったか?)

その後「テンポについては君が代の演奏上許される範囲で遅くしており、特に問題はない」というJOCの開き直りコメントがネット上に流れただけで、秘かに「問題あり(許される限度を超えている)」と思っているNHK及び各テレビ局は、選手の表彰台の姿や日の丸は映したものの肝心の『君が代演奏』(国歌斉唱中の場面)は意識的に避けていた感じ。また、私が知る限り、大会期間中に「長すぎる君が代」を話題にする局もなかった。(何らかの圧力で「長すぎる君が代」に触れるのは“ご法度”になったのかも?)

だから、競泳選手団の帰国会見で「君が代を競泳陣みんなで熱唱して気持ち良かった」という言葉が松田選手の口から発せられた時は、「あのクソ遅い君が代を?みんなで熱唱?!…うっそだろ!」と驚くと同時に、大会前の森喜朗の発言が何の抵抗もなく普通に受け入れられているのか……と尚更気分が悪くなってしまった。(みんなで「君が代」を歌う前に、代表選手は「オリンピック憲章」をよく読み、その精神を理解するのが先決では?)

そもそも「君が代」は、アメリカやフランスのように自国の優越を歌った勇ましい国歌とは異なり、《人の心を鎮め、その場の雰囲気を厳かにする》「祈りの歌」。
試合や競技に向かう心を鼓舞するために歌うような歌でもなければ、結婚式や祝賀会などの晴れがましく賑やかな席にも相応しくない。
むしろ人前で歌うことが憚られるような雅な旋律を持つ不思議な国歌であり、歌うにしても“みんなで熱唱”するような歌ではないはず。(例えば、結婚式で突然「君が代」が流れたり、誰かが歌ったりしたら、まず確実にシラケると思う)

というわけで、如何なる場でも「君が代」を歌うつもりのない私などは、《昔から「辛気くさい」「国歌としては短い」などの批判にさらされながら(戦争期は政治的プロパガンダに利用されながら)、良くも悪しくも近代日本の象徴として生き残ってきた「君が代」を、「歌う国歌」から「聴く国歌」に変えてはどうか》という『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)の著者・辻田真佐憲さんの提案に一票を投じたい気分にもなるが、2020年の東京にも引き継がれそうな“長すぎて歌いにくい”「君が代」は「聴く国歌」としてもちょっと耐え難いもの。
(「歌う国歌」から「聴く国歌」へという提案は《「歌う」という行為は、強制された時の屈辱感や抑圧感がとても強いが、「聴く」という行為は、一分程度であれば強制されてもそれほど強い抑圧感はもたらさないはず。実際、多くの日本人にとって「君が代」はすでに「聴く国歌」になっている》……という考えに基づいている)

大会前「どうして、みんな揃って国歌を歌わないのでしょうか」と斉唱を半ば強制しながら“歌わない(&歌えない)選手”を遠回しに非難した「君が代」大好きな失言王・森喜朗は、この国辱的な「長すぎる君が代」をどう思っているのだろう。黙認(?)しているのも不思議な話……
本当に非難すべきは国家を歌わない(日本代表)選手ではなく、国歌を私物化するごとく国民に意図も伝えず「長すぎて歌いにくい君が代」を勝手に作ったJOC(及び君が代を利用しようとする森喜朗のような政治家たち)だと思うのだが。

 

2016/08/16

8月上旬メモ②



86日(土)
広島平和記念日、原爆忌。リオ五輪開幕……平和記念式典とリオ五輪開会式(30分程度)をテレビで見たあと、池袋へ。
シネマ・ロサで映画『帰ってきたヒトラー』(監督デヴィット・ヴェント/製作国ドイツ)を観る。

1945年に自殺したはずのヒトラーが、2014年のベルリンにタイムワープし、その卓越した話術を活かしてテレビ番組のスターになる》というお話。(2012年、ドイツでベストセラーになった風刺小説『帰ってきたヒトラー』の映画化)
その荒唐無稽なストーリーに加え、所々に強烈なブラックジョークも散りばめられており、「傑作コメディ」(公式サイト)と謳われているが、現実と虚構が不気味に入り混じった内容はすこぶる刺激的で啓発的。
終始一貫してヒトラーの言動と昨今のヨーロッパにおける難民排斥の動きを意識的に結び付けて描かれており、在日コリアンに対するヘイトデモなど固有の民族差別問題を抱える日本人の一人としても、とても笑って見ていられるような映画ではない。
そして何より恐ろしいのは、最初はヒトラーを笑っていながら、知らず知らずに彼の話術に引き込まれ、「イエスか、ノーか」を迫るその言動の明快さに、どこか共感してしまう人々(&自分)がいること。

87日(月)
東京は今年一番の暑さ(37.7℃)……駐輪場もうだる様な暑さだったが(精算機の裏側にある温度計の針はなんと44℃!)、リオ五輪の真っ最中ということもあり利用者は少なめ。その分せわしく動き回ることもなく仕事的にはラクな一日だったが、やはり猛暑の中で働いた影響か、夜になってどっと疲れが出た。リオ五輪もそこそこに早目就寝。

88日(火)
午前10時半、建築家のIWAMAさん来訪。(わが家も築10年を越え、排水系統等に問題が出てきたため、その点検・確認をお願いした)
その時間、テレビでは丁度、日本VSコロンビア戦の真っ最中……Iさんも私も大のサッカー好き。屋内外の気になる所を確認していただいた後は、二人で缶ビール(ロング缶3本ずつ)を飲みながらワイワイ楽しくサッカー観戦。
結果は2:2の引分けだったが、藤春の衝撃的なオウンゴールで2点差がついた試合を、浅野と中島の見事な2発で追いつくというスリリング&エキサイティングな展開に、ほろ酔いな二人も大興奮。試合後の気分もまずまずだった。
サッカーのあとは久しぶりに映画談議……『恋人たち』を凌いで“本年度ベスト1!”とIWAMAさん大絶賛の『シン・ゴジラ』(脚本・編集・総監督/庵野秀明)は、ぜひ観に行かないと。
ちなみに、宣伝ポスターのキャッチコピーは、「現実対虚構」(ニッポンVSゴジラ)……う~ん、そそられる。

酒の酔いが回った午後は、畳の上でぐっすり昼寝。夜はリオ五輪のハイライトを見ながら就寝。

8月上旬メモ①



84日(木)
前夜、『怒り新党』のコーナー「写真家・富岡畦草の次世代に託したい定点写真」に心そそられ(富岡さんは御年90歳。定点写真のパイオニアと呼ばれている方。その若々しさにも驚いた)、深夜まで見入っていたせいか少し寝不足気味。渋谷で映画を観るつもりだったが、出かけるのが億劫になり、駅前のTSUTAYA(のDVD)で我慢、ドキュメンタリー映画『ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年』(監督・阪本順治)をチョイス。
そのDVDの前に、NHK「スタジオパークからこんにちは」内で、ゲストの石橋蓮司主演のドラマ「ふろたき大将 故郷に帰る」を観る。

「ヒロシマ8.6ドラマ」とサブタイトルがついているので、かなりシリアスなドラマかと思いきや、さにあらず。「原爆」を扱いながらも、孤独な老人とオレオレ詐欺の青年(&彼の恋人)の出会いと交流が半ばコミカルに描かれるポップなドラマ。後半、映画好きを喜ばせてくれるセリフ&シチュエーションもあり、石橋蓮司の魅力がじんわり染みてくる佳作だった。
(このドラマは、原爆投下の9年後に広島で制作された児童劇映画『ふろたき大将』の続編とのこと。その主人公の原爆孤児・宮田徳三を演じたのが、当時12歳の「石橋蓮」少年……60年の時を経て、蓮司さんが再び徳三を演じた)

映画『ジョーのあした』は、自分が抱いていたイメージどおりの「辰吉丈一郎」……父・粂二(くめじ)に男手ひとつで育てられた辰吉の、「生まれ変わっても、もう一度自分に生まれたい。父ちゃんの子で生まれたい」と語る姿から、映画は始まる。

全盛期、自らパンチの雨に晒されることを望むかのように、ノーガードで顔を突き出して戦う一種自虐的な彼の“喧嘩ボクシング”は、愛情に飢えた幼い子どものようで痛々しく、あまり好きではなかったが、今も現役にこだわりながら自分の生き方を冷静に見つめ語るその姿は、心の壁を打ち砕いた男の優しさと静かな闘志を漂わせ、グッと人間的な魅力を増した感じ。46歳……再びリングに立つ日が来るのだろうか。

85日(金)
仕事(バイト)の前に、駅前のドトールで小1時間読書。『日本会議の研究』(著者・菅野完/扶柔社新書)を読み終えた。その「むすび」の一文が胸に重くのしかかる。

《この間、彼らは、どんな左翼・リベラル陣営よりも頻繁にデモを行い、勉強会を開催し、陳情活動を行い、署名集めをしてきた。彼らこそ、市民運動が嘲笑の対象とさえなった80年代以降の日本において、めげずに、愚直に、市民運動の王道を歩んできた人々だ。その地道な市民運動が今、「改憲」という結実を迎えようとしている。彼らが奉じる改憲プランは、「緊急事態法」しかり「家族保護条項」しかり、おおよそ民主的とも近代的とも呼べる代物ではない。むしろ本音には「明治憲法復元」を隠した、古色蒼然たるものだ。しかし彼らの手法は間違いなく、民主的だ。
私には、日本の現状は、民主主義にしっぺ返しを食らわされているように見える。
やったって意味がない。そんなのは子供のやることだ、学生じゃあるまいし……と、日本の社会が寄ってたかってさんざんバカにし、嘲笑し、足蹴にしてきた、デモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった「民主的な市民運動」をやり続けていたのは、極めて非民主的な思想を持つ人々だったのだ。そして大方の「民主的な市民運動」に対する認識に反し、その運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力となった。このままいけば「民主的な市民運動」は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉。これは悲喜劇ではないか!》

※ショッピングカード5%OFFの日で、駐輪場は大混雑。暑さも手伝い、キレる男が2、3人……やれやれ。

2016/08/03

雑感(都知事選ほか)



今朝の「あさイチ」(言っちゃえ場 10代×ジドリ×はじめての選挙)を見ていたら、女子高校生がこんなことを言っていた。

「投票所の中は、お葬式みたい」……(う~ん、確かに似ているかも)

さて、大方の予想通り、小池百合子圧勝、鳥越俊太郎完敗で終わった都知事選……(こちらは開票後がお葬式みたい)

クリントンVSトランプのアメリカ大統領選は、嫌われ者同士による「史上最悪の闘い」と呼ばれているが、投票したい候補者もなく、誰が勝っても喜べそうになかった今回の都知事選も個人的には似たようなもの。(その最悪の選択は小池百合子だったが)

で、巷は「初の女性都知事誕生」に期待感が高まっているようだが、“女性目線”から遠く離れた所にヤバい目があるような政治家に、都民(特に女性たち)は何を期待しているのだろう。
(「百合子グリーン」とかいう、あの野菜畑のような群れはナニ? チョー気色悪かった)

小池百合子の過去の言動・行動をみると(「戦後教育は自虐的」と何度も発言したり、“発達障害は親の愛情不足が原因”などという非科学的で差別的な「親学」に傾倒したり…)、都民が彼女に期待する「教育・子育て」への取り組みなどは、むしろ最も危惧すべきところではないだろうか。
いずれ安倍政権とつるんで教育現場への圧力を強めるだろうし、“子ども目線・現場目線”とはほど遠い「詰め込み保育」も大問題、保育士の待遇改善にも消極的(「給与は上げないけど、空き家をシェアハウスに転用するから、そこに住めば生活が楽になるでしょ」的な発想がそもそも侮蔑的で差別的)……

と、グリーンどころか色々ブラックな小池百合子だが、彼女の独走を許した野党統一候補も思いのほか残念すぎた。

「聞く耳を持っている」「都民の声をしっかり聞く(その声を政策に生かす)」と言っていた人間が、出馬会見から1週間経ち、2週間が過ぎても、一向に自分の政策として、都民の声、とりわけ弱者の声を代弁しない(できない)のでは、はなから勝負になるはずがない。
「憲法・平和」も大事だが、私を含めて都民が求めているのは自分たちの生活に根ざした血肉の通った政策であり、その代弁者としての魂がこもった力強い言葉のはず。(今さら言っても仕方ないが、バーニー・サンダースの政策論や演説を少しは見習ってほしかった)
それが全くないばかりか、政策を競うべき討論の場から逃げ回り、病み上がり発言がどうだとか、醜聞記事がどうだとか、都民の生活と無関係な揚げ足取りにムキになって反応していては、都民からそっぽを向かれるのも当たり前。高齢・健康面の不安を増長させた「街頭演説」の少なさ・温さも致命的だったと思う。

おかげで、最近は「日本会議」の思うままに政治も選挙も流れている(イヤ~な)感じが漂うばかり……と思っていたら「防衛大臣・稲田朋美」。(分かりやすいぜ、安倍政権!)

タイミング良く(?)、ちょうど昨日『日本会議 戦前回帰への情念』(山崎雅弘著/集英社文庫)を読み終えたのだが、その本の中に「日本会議」の機関誌「日本の息吹」からのこんな抜粋記事が載っていた。

《現在の安倍晋三政権の下に行われていることは、単にアベノミクスによる「肉体」につながる経済の改善ではなく、安全保障や教育といった日本人の「精神」の健全化なのである。この健全化に対して、戦後精神に侵されて、精神の病が「病膏盲に入った」段階にある世代の人々が反対を唱えているが、これはもう病が重篤な患者の断末魔の呻きに過ぎない。(中略)戦後精神に侵された世代は、もうそろそろ歴史の舞台から退場していくから、日本が本来の日本に取り戻されるのは、もはや時間の問題なのである》(20158月号)

《安倍内閣という志を同じくする内閣が健全な今こそ、憲法改正の最善のチャンスだ。私たちは、政治よりもずっと先んじて新しい地平を切り拓かなければならない。(中略)憲法改正を実現するには、多くの国民の理解を得なければならないが、高校生やお母さん方にも分かるように、なぜ憲法改正が必要なのか、ということを啓蒙していきたい》(20155月号 櫻井よし子「基調提言」)

敵は本気。どうやら私たちは重大な歴史の分岐点に立たされているようだ。