2016/03/20

歌を呼ぶ、春。(その②)



啄木といえば、彼を強く意識していた歌人として、すぐに頭に浮かぶのは「寺山修司」。

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」という歌は、啄木の「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の本歌取りとして有名だ。

で、啄木の歌に刺激された昨日、寺山の歌が読みたくなり、久しく本棚で眠っている「寺山修司歌集」を取り出して開いたところ、中から小さく切られて二つに折られた新聞のチラシらしき紙が落ちてきた。

あれっ?と思い、拾って紙を開くと、白地に黒いペンで「東京行進曲」の歌詞が書いてあった。
もう随分長く目にしていない、かつて見慣れた、流れるような母の字で。
(短歌をたしなむ亡き母に「読んでみたら」と、この本を渡したことは覚えているが、母が何かを書いた紙の存在はすっかり忘れていた)

恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文書く人もある
ラッシュアワーに拾ったバラを
せめてあの子の想い出に

広い東京 恋故狭い
いきな浅草 偲び逢い
あなた地下鉄 私はバスよ
恋のストップ ままならぬ

遠い昔、母はYWCAで英語を学んだ後、丸の内にあるM商事にタイピストとして勤務していた。その当時、タイピストは花形の職業。きっと母も嬉しさと誇らしさに胸躍らせながら、真新しい靴で軽やかに銀座界隈を歩き、東京生活を楽しんでいたのだろう。
母から、あまり独身時代の話を聞いたことはないが、「丸の内」で働いていた頃が「自分の青春だった」みたいなことは、何かの折に耳にした気がする。

シネマ見ましょか
お茶のみましょか
いっそ小田急で逃げましょか

……職場か何処かに、秘かに想いを寄せていた人でもいたのだろうか。(母は数年後、会社を辞め、郷里の岩手で周囲に勧められるまま父と結婚。私が7歳の時に離婚した)

その歌詞を口ずさみながら、ふと「丸の内」ではなく、子供心に漠然と感じていた母の恋路を思い返し(「道ならぬ恋」ではないが、まだ手のかかる子供をかかえた女性の再婚は、とても難しい時代だった)、「なんだよ、あの時、俺のことなんか気にしないで、あの人と逃げちまえばよかったのに」と、心の中で軽くからかったつもりが、照れてはにかむ母の顔が目に浮かび、懐かしさが込み上げ、なんの声にもならなかった。

逃げたくても、逃げられない(否、逃げない)。手放したくても、手放さない。そんな時が人生には幾度もあるはず。その時の母は、もがき苦しむ未練の中で恋を捨てたのではなく、ただ潔く逃げない道を選んだけだと、“恋路を邪魔した子ども”は、今にしてそう思う。

今日は彼岸の中日。
桜が好きだった母の墓に、春の花と一緒に、さて、どんな歌を手向けようか。

 

 

 

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