2016/03/20

歌を呼ぶ、春。(その①)



不来方のお城の草に
寝ころびて
空に吸われし 十五の心

昨日、花粉症患者(私もその一人)で大混雑している耳鼻科の待合室で、何気に持参した『競馬学への招待』(ちくま新書)を読んでいたら、“サラブレッドの四歳の春”という章の終わりに、思いがけず啄木の歌が載っていた。
前から好きな歌だったが、まさか「競馬学」の本で目にするとは思わなかった。寺山修司のエッセイでもないのに。

この本が書かれたのは1995年。馬の年齢も今は満年齢で記すようになったが、まだ数え年を用いて表記していた頃だ。(当時の四歳は、今の三歳)

競走馬にとって四歳の春(現・三歳の春)は、生涯一度しか出走する機会のない「クラシックレース」(牡馬は皐月賞、ダービー、そして秋の菊花賞。牝馬は桜花賞、オークス)に挑むことができる時期。その四歳の春に思いを寄せて、著者・山本一生は、こう語る。

《馬の年齢はよく人間の年齢と比較されて、四を掛けるとか、一を引いて満年齢に直してから四を掛けるとか、いろいろと議論はあるようだが、そもそも競馬の世界と人間の世界では時間の流れが違うので、比較すること自体があまり意味はない。生まれたときと死んだときだけが、「自然」の存在として共通しているにすぎないからだが、ただ「四歳の春」だけは私たちにも思い当たるものがある。
四歳の春とは、不思議なときである。まだ見るもの聞くものすべてが新しく、激しい気質を抑える術もなく、遮るものがあれば正面からぶつかるしかない。ときには東の空のあけぼのを夕焼けだと思って生き急ぐこともあれば、ときにはみずからの才能に気がつかず、みにくいアヒルの子としてすごすこともある。あるいは運もなく、人間の作った不条理な規則によって無為な日々を強いられたり、あるいはそのときの一瞬のきらめきに生涯をきめたりもする。だれもが出会う、それぞれの四歳の春なのである。
サラブレッドの四歳の春とは、まさに人生における十五の春にほかならない。》

空に吸われし 十五の心……

確かに、十五の春が「明るく、希望に満ち溢れている時」などと、迂闊に言うことはできない。
寧ろ、どこか物哀しく、所在のない感情を空に投げたくなるような、いっそ何処かに消えてしまいたくなるような、愛より孤独が、夢より虚無が、心を覆う時期かもしれない。50年近く前の自分もそうだったような気がする。

そんな孤独も虚無も、希望も夢も、すべて丸ごと歌におさめ、一度だけの「十五の春」を、清々しくも強烈に、虚空に広げて詠ったイメージの豊かさ、その言葉の鋭さに、「すごいなあ~、啄木は!」と、改めて感嘆するほかない。

《歌は私の悲しい玩具である》と言いながら、逃げて、転んで、また逃げて。それでも“悲しい玩具”だけは手放せない彼が、十五の頃を思い、見上げた空。
その空は、きっと今も、私と誰かの心を吸いよせる、ただ一度だけの儚い春の中にある。

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