2015/03/30

早すぎる桜&『イミテーション・ゲーム』



春本番……というより、ここ数日、初夏のような暖かさ。近所の公園も花見の人たちで賑わっていたが、やはり「桜」と言えば4月初旬。あまりにも早すぎる「満開」に気圧され、心がついていかない。何気に、こんな切ない歌まで思い出してしまった。

愛と死のアンビヴァレンツ落下する花 恥じらいのヘルメット脱ぐ(福島泰樹歌集より)

今年は、花吹雪が舞う中で桜を想う春になりそうだ。

さて、先週の話……水曜(25日)の午後、代理店のJさんから制作コンペ勝利の知らせあり。

制作物としては“小物”の域に入る、たかがA4 4Pのパンフだが、コンペ以外の仕事が少ない状況下、勝つのと負けるのでは大違い。これで少し弾みがつくとイイなあ……と、超久しぶりの「勝利」に、ホッと胸をなでおろした。

というわけで、すこし気がゆるんだ翌日(26日)は、映画鑑賞。新宿武蔵野館で『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(製作/イギリス、アメリカ)を観てきた。

上映開始は1335分。館内はほぼ満員(相変わらず中高年の姿が目立つ……映画の途中、女性が発した大音響のくしゃみに思わずのけ反る)。

サブタイトルにある「エニグマ」とは、第2次世界大戦時、解読不可能とされたナチス・ドイツの軍事用暗号システム。で、「天才数学者」(本作の主人公)は、そのエニグマを解き明かし、ナチスの攻勢に追いつめられていたイギリスを窮地から救った「アラン・チューリング」。後にデジタルコンピュータの基礎理論構築に貢献し「人工知能の父」とも呼ばれた数学者だ。(コンピュータサイエンスのノーベル賞と言われる「チューリング賞」の名も、彼の名にちなんでいるとのこと)

では、何故、それほどの功績がありながら「アラン・チューリング」の名は、あまり世の中に知られていないのだろう?……本作は、戦争の終結に多大な影響を及ぼした「エニグマ解読」の全容と、解読に挑んだチームの人間模様を描きながら、その渦中にいた“非情で合理的”な天才「アラン・チューリング」の人物像に深く迫るもの。

天賦の才に恵まれ、歴史的偉業を成しながら、「ゲイ」であるが故に自分が救った国によって裁かれ、死に追い込まれた“異能の変人”……その深い愛の在処と不遇の人生を、主演ベネディクト・カンバーバッチの熱演と共にじっくりと味あわせてもらった。
(世事に疎く、非情で合理的な男が、実は、少年期に芽生えた愛を、深く胸底に秘めて生き続けた男でもあったというアンビバレンツな心の在り方。その切なさに触れる映画とも言えそうだ)

2015/03/24

マキさんを聴く日


今日は朝から冷たい風が吹いている。でも、頭の中は無風状態。(ぼんやりと先行きのことなど考えていたが、憂鬱になりかけ思考停止)

ふと思い立ち、階段箪笥の中から古いレコードを取り出した。(家にプレーヤーもないのに)

タイトルは『裏窓』。5年前、突然この世から去った歌手・浅川マキの名盤……

その中に大好きな歌がある。映画『新・仁義なき戦い 組長の首』(1975年)の中でも流れていた『町の酒場で』(浅川マキ作詞・作曲)という曲。

その曲にまつわる遠い日の苦い思い出もあるが、それはさておき、昔からマキさんの唄を聴きたくなる時は、大概、悲しみからも歓びからも遠く離れているような自分を感じる時……(心が風邪をひいている時とでも言おうか)。といって、彼女の唄で気持ちを鼓舞されたり、癒されたりしたことはない。ただその声の沁み渡る優しさが、虚空に一点だけ光る道標のように思えて胸が熱くなってくる。




町の酒場で
酔いしれた女に
声をかけてはいけない
どんなにあなたが淋しい時でも
昔あなたが
恋したひとに似ていても
声をかけてはいけない♪

今日も、なんだか、胸が熱い。

その勢いで、もう1……『あたしのブギウギ』(作詞:成田ヒロシ 作曲:南正人)。当然、マキさんの唄はイイが、成田ヒロシの詞がまたイイ!




ひとりぼっちが やり切れなくて
お酒飲んで ほれほれろ
ブギとブスとを聞き間違えて
あんた あたしを笑ったね
つれない素振りに
あたしは惚れて
なんども なんども 振り向いた
あたしのブギウギ

淋しそうだね 旅に出ようと
声をかける 男はみんな
風に吹かれて どこかへ消えた
ほんとは あたしは 抱かれたかった
つれない素振りに
あたしは惚れて
なんども なんども 振り向いた
あたしのブギウギ

何処かそろそろ 落ち着こうかと
小さな夢を 小出しに出して
歩き疲れた 夕焼けのした
いまじゃ みんな 嘘みたい
つれない素振りに
あたしは惚れて
なんどもなんども 振り向いた
あたしのブギウギ




2015/03/19

インド発、サスペンスムービー



先週の木曜(12日)、渋谷のユーロスペースで観た『女神は二度微笑む』。

劇場の待合スペースの壁に貼られているポスターには、「ハリウッドが認めた、インド発、極上のサスペンス・エンターテイメント」と書いてあった。

で、観終ってからそのポスターの前で静かに毒づいた。「“ハリウッドが認めた”じゃなく、“ハリウッドが震えた”じゃないの?」……

まあ、とにかく期待以上の面白さ。(ラストのどんでんなど、思わず腰を浮かして「え~~っ!」と声をあげそうになったほど)
春めく陽気を肌で感じつつも、何かと物悲しい気分に陥りがちなこの時期、異国の町(インド・コルカタ)の風情を味わいながら、こんな娯楽作品で気分転換を図るのも悪くない。

さて、そのストーリーだが、《イギリス・ロンドンに暮らすヴィディヤ(ヴィディヤ・バラン)は、インドへ行ったまま行方不明となった夫のアルナブを捜すためにコルカタにやって来る。しかし、宿泊先や勤務先にアルナブがいた痕跡はなく、やがてアルナブに非常によく似た男が国家情報局に追われていることが判明。妊娠中の身でありながらヴィディヤは危険を冒してでも、アルナブの行方を捜そうとするが……》という流れから、いくつもの伏線が張り巡らされ、謎が謎を呼ぶスリリングな展開。

『ゼロの焦点』の久我美子(古っ!)や『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリーのような芯の強さとひたむきさ、そして『昨日・今日・明日』のソフィア・ローレンの艶やかさと肝っ玉ぶりを併せて割ったような美しい主人公が圧倒的な存在感を放つ。

というわけで、妊婦ヴィディヤの一心不乱の捜索劇に目を奪われつつ、コルカタのカオティックな雑踏、そのダイナミズムにもクラクラしながらの2時間3分。エンドロールで心地よい脱力感に包まれる、見事な一本でありました。

※昨日は墓参り。山の上でも陽射しが暖かく、風の冷たさを感じなかった。
 (もうすぐ、サクラ……花見の前に、マグリット展!)

 

2015/03/16

「フットボールの情熱」



という言葉が何度も口を突いて出てきた金曜(12日)の記者会見。(もちろん、サッカー日本代表監督に就任したハリルホジッチ氏の話。私は日本サッカー協会のホームページで生中継を見ていた)

「気鋭の名将」「多彩な戦術を持つ情熱家」という評判通り、サッカーへの情熱と勝利へ向かう強い意志がひしひしと伝わるものだった。特に、言葉の端々から感じられるモチベーターとしての高い能力&揺るぎない姿勢は、とても魅力的で頼もしい限り。「この人なら、自信を失いかけている選手たちを立ち直らせ、世界の舞台で輝ける日本代表を築いてくれるのではないか」と、ここ数か月しぼみ気味だったコチラの期待感も再び膨らみ、非常に良い印象を持つことができた。(アギーレ監督の解任問題で揺れていた頃のモヤモヤ気分も解消された感じ)

ところで、私が「ハリルホジッチ」の名前を知ったのは、アギーレ監督解任の直後……「ラウドルップ」「オリヴェイラ」「スパレッティ」「ストイコビッチ」など10人近い候補の名がメディアを賑わす中で、「ハリルホジッチ」の扱いはそれほど大きくはなかったように思う。でも、先のW杯で優勝国ドイツを最も追い詰めた「アルジェリア代表」の監督であり、候補者の中では唯一、異なる地域・異なる文化のクラブ&代表チーム(フランス、コートジボワール、アルジェリア)を指揮した経験のある人物であることから、個人的には最も注目していたし、サッカー以外のこんなエピソードにも、心を動かされていた。

《指導者としてのスタートは90年、古巣ベレジュ・モスタルから。この時にはボスニアに広がった民族紛争に巻き込まれ、あやうく生命を落とす経験をしている。92年の春、自宅前の路上で銃撃戦が始まった。ハリルホジッチは何とかそれを阻止するべく「戦争になったら、みんなが敗者だ!」と叫んだ。名門ベレジュの監督として顔が知られていたので、双方とも撃つのを止めるだろうと考えたのだ。しかし自身に銃弾が命中し(所持していた拳銃が暴発?)、自宅の庭で重傷を負ってしまう。
ハリルホジッチはけがをおして、病床でテレビの取材に応じて、戦争を止めるように訴えた。この発言のせいか、民族主義者からたびたび脅迫を受けている。その後、ボスニアの戦争が激化し、サッカーどころではなくなると、知人を頼ってフランスに脱出。直後に、モスタル市内の自宅は民族主義の民兵によって焼き払われた。このてんまつは「モスタルのワハよ、生きているか」と流行歌の題材にもなった(「ワハ」とはハリルホジッチの愛称)。》

また、同郷の先輩、イビチャ・オシム元日本代表監督との親交も深く(現役時代はオシム監督のタイトル獲得を阻んだライバルチームのエースストライカー。指導者になってからも、コートジボアールを率いて初来日した08年のキリンカップなど、幾度か偶然の出会いがあり旧交を温めてあっていたようだ)、そうした“縁”も含めて日本代表監督に最も適した人ではないだろうかと思い、その就任を待望していた。(ものごとに筋を通すプロフェッショナルとして知られるだけに、協会の交渉次第で決裂するリスクはあったと思うが、契約がうまくまとまり本当に良かった。色々ごたごた続きだったが、この難しい時期にベストの選択と仕事をしてくれた日本サッカー協会に拍手!)


とは言え、一押しの監督が決まって一安心……というわけにもいかない。アギーレジャパンでの半年間を生かすも殺すも選手次第。まずは、ブラジルW杯一次リーグ敗退およびアジア杯敗退の精神的ダメージを完全に払拭することから新たなスタートを切るべきではないだろうか。そのためにも「劇的なメンタル改善を施すことで日本代表を立ち直らせたい」と考えている新監督の手腕に期待するところ大。W杯後、燃え尽き症候群のような状態に陥っている(?)長友や、自信喪失気味で代表でもクラブでもプレーに精彩を欠く香川を、勝者のメンタリティーを持つ選手として再び輝かせてほしいものだ。
そして、「サッカーのおかげで私の人生はすばらしいものになった。魔法のようなものだ」という言葉の重みと深い歓びを、3年後、我が代表選手たちの胸にもたらしてほしいと思う。

もちろん、私も魔法が見たい。まずは、チュニジア戦(27日)!

※ちなみに、日本サッカー協会の話によると、ハリルホジッチ氏の国籍は出身国ボスニア・ヘルツェゴビナ(旧ユーゴスラビア)ではなく「フランス」。選手時代からフランスで長く生活をしていて家もあり、奥さんもフランス人……ということで国籍はフランスとのこと。(なるほど、だから記者会見もフランス語だったのか)

2015/03/09

『バカになったか、日本人』のススメ。



10年以上前、仕事仲間と四方山話をしていた際、ふと「小泉政権」に批判的な言葉を吐いたら、「小泉さんだって一生懸命やっているんだから……文句があるなら、政治家にならなきゃ」というような事を言われ、瞬間「おいおい、それは違うでしょ!」と言いつつも、そういう考えに対抗するのがバカバカしくなり、即、打ち切ったことがある。

それ以降も、「小説や映画を批判するなら、自分が書くなり、撮るなりすればいい」とか「政治を変えたいなら、選挙に出て訴えなきゃ」とか、まるで作家や政治家じゃない人間が、文学や政治を語ってはイケないかのような反応をされ、「それじゃあ、何の話もできないじゃん」とがっかりしたことが度々あった。(まあ元々、そういう人たちは文学にも政治にも関心がないのだろうけど)

普通の国民が、自由に自分の考えで、政策に疑問を投げかけたり、政権を批判したりすることが民主主義の基本であり、政治家はその国民の声を聞いて事態の改善を図るべきものだと思うのだが、「政治はプロの政治家がやるもの。素人である国民は黙って任せなきゃ」的な意識は随分前からこの社会に蔓延していたような気がする。

で、先日読み終えた『バカになったか、日本人』(著者・橋本治)……

けっこう挑発的なタイトルだが、別に橋本治が日本人をバカにしているわけではない。バカにしているのは政治を司る人たちの方。「俺たちが決めるんだから、何も決められないバカなお前たちは黙っていろ」的に、反対意見に耳もかさず、キチンとした議論もせずに(できずに)、「特定機密保護法」も「集団的自衛権の行使」も意のままに押し通す安倍内閣と政治家たちに「ちゃんと文句を言おうじゃないか!」という趣旨の卓見に満ちたスグレ本。

その本の中で彼は、実行力を欠き敗退した民主党政権の反動で、この「批判するだけじゃだめだ」という空気がさらに国民間に広がり、一層、言論は後退してしまったのではないかと言いつつ、2012年末に戦後最低の低い投票率で成立した内閣が、未だに50%超の高い支持率を保っているという不思議な現象も、安倍政権の二枚看板「景気回復」と「憲法改正」に対する積極的な支持ではなく、この「批判するだけじゃだめ」という国民側の「言論の後退」に起因していると説く。

そして、さらにこう続け「安倍政権の支持率安定」を予測する。

《憲法改正の議論を持ち出しても引っ込めても、安倍内閣の支持率はそうそう変わらない。はっきりしているのは、日本人の関心が「景気回復」に集中していて、内閣の思惑に反して、「憲法改正」への関心も問題意識も高くはない。安倍内閣を支持する日本人の過半数は、「景気が良くなること」にしか関心がないのだ……「憲法改正の必要」を訴えようと訴えまいと、国民の関心は「景気回復の実現性」だけにあって、それを「着々と実行している」とする安倍政権に批判の矢は向かわない。》

事実、「日本経済回復」のために、中東や東欧で日本製の原発をセールスする首相に対して、批判の声はほとんど聞かれなかった。あれほどの大事故を日本中が目の当たりにし、原発には人間の手におえない巨大なリスクが伴うことを、身を以て知ったというのに……
領土問題や歴史認識に端を発した中国や韓国との関係悪化にも、批判の声は湧き上がらず、街角インタビューなどを見ても、アベノミクスの良し悪しも不明なのに「安倍さんはよくやっている。頑張ってもらいたい」という能天気な声ばかり。
また、最近の話で言えば、朝日新聞の世論調査(21415日実施)で、安倍内閣の支持率は50%(読売では何と58%!)、「IS(イスラム国)」による日本人人質事件をめぐる政府の対応に関しても、「評価する」が50%となり、「評価しない」の29%を上回ったとのこと。
「言論の後退」が無思考の波を巻き起こしているのか、これはヤバい!としか言いようがない。
「集団的自衛権の行使」を容認しようとする際は「国民の命と安全を守るため」と言いながら、知らぬ間に「有志連合」に加わり、日本人2人がISに拉致されていることを知っていたにも関わらず、“アラブの敵”イスラエルと日本の二つの国旗の前で、イスラエルの首相とにこやかに握手(その会談の様子が「IS」の反発を招いたのは容易に想像できる)。人質事件発覚後は、最初から「テロには屈しない」「テロリストと交渉はしない」と勇ましげな姿勢で「有志連合」に同調し裏取引での金銭解決の可能性を自ら放棄、「IS」との交渉はISの敵国であるヨルダンに任せっきり。もともと無理なヨルダン主導の「人質交換」に賭けた結果、湯川・後藤両氏の命を守れず終わったのに、どこをどう捉えれば評価できるのだろう。

このイミフな50%という数字が、安倍政権の自信をさらに深めさせていることは、野党を舐めきった“首相の野次”などを見れば明らか。辺野古移設反対派の沖縄県知事との面会を避け、その立場を無視し続けているように、ますます「反対勢力が何を言っても聞く耳を持たない」という傲慢さをオブラートで包みながら増長し、事を進めていくように思う。当然、「憲法改正」への動きも早くなるに違いない。

その「憲法改正」と「集団的自衛権」について、橋本治はこう言っている。(かなり長い引用になるが、とても興味深い内容なので…)
《「集団的自衛権の行使」とは、どう考えても「よその国と一緒になって戦争をすること」です。「よその国と一緒になって日本を守る。日本を守ってもらうではありません。それだったら、日米安全保障条約があります。「それだけじゃだめだ。日本は独自の軍事力をもたなければならない」と考える人がいたって、「集団的自衛権の行使」はそれとも違います。「既に日本には自衛隊という軍事力があって、その軍事力をもって他国と共同で軍事行動に当たる」というのが、「集団的自衛権の行使」です。だから、「これは集団的自衛権の行使だ」と言えば、日本とは全然関係ないところへ自衛隊が行って、他国と一緒に軍事行動が出来ます。そのことと「日本の安全」がどう結びつくのかはまったく分かりません。
「集団的自衛権」の分かりにくさはその一点にあって、だからこそ「これで日本は外国で戦争が出来ます」と言いづらい総理大臣が、「これで日本は安全です」と言って、平気で通ってしまうのかもしれません。だって、「日本が外国で戦争をする」とか「外国と戦争をする」と言ったって、具体性が全然湧きません。「どこで?」で「なんのために?」で、その軍事力の行使が「日本のあり方」とどう結びつくのかが、まったく想像出来ないからです。「一体どこへ行って日本は戦争をしたいんだろう?」と考えて、その先に思いつくことは一つです。日本は、国連の安全保障理事会の常任理事国になりたがっています。自民党政権ではかつて常任理事国になることを「悲願」としていました。安全保障理事国だと、きっと「ウチには軍隊がないんで、海外派遣は出来ません」とは言えないのでしょう。邪推ですが、「安全保障理事会の常任理事国入り」ということは、「日本でのオリンピック開催を!」に似た、グローバリズムの一流国願望でしかないように思います。
日本が国連安保理の常任理事国入りすることは、「イスラム国を空爆する」に参加するのに近いようなもので、「イスラム国からの危険を防ぐ」ということになると見事に「集団的安全保障」ですが、キリスト教国でもない日本が、キリスト教対イスラムのつまらない宗教戦争に巻き込まれる必要なんかまったくないですけどね。
でも、「世界の一流国はみんな軍事力を持って“世界平和の敵”と戦っているんだから、日本だってそういう一流国にならなきゃいけない!なりたいんだ!」という声は、きっとどこかにありふれて存在するんでしょう。だから私は、「一流志向のグローバリズム」が嫌いなんですけどね。》

 《憲法改正というと、どうしても第9条の問題だと思っていた。しかし、自民党の改憲草案を知って、そういう問題ではなかったんだと気がついた。憲法改正というのは、日本国憲法を大日本帝国憲法に近づけようという動きだったんだと、自民党草案の第1条にある「天皇は、日本国の元首」という条文で思った。》
《天皇を日本の「象徴」ではなく「元首」にしてしまうと、国旗や国歌は「国民のもの」ではなく「天皇のもの」になってしまう。だから自民党草案では第3条第2項に「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」が新設される。「そうでしょう?」と尋ねて「そうです」という答が返って来るとも思わないが、だからこそ現行憲法にはない「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という条項も付け加えられる。
現行憲法でその「尊重の義務」を負うのは、国民ではなくて、行政、立法、司法に関わる人間だけで、現行憲法は国民ではなく政府を縛るものだし、そもそも憲法とはそういうものだ。
自民党草案には「自分たちが憲法を変えて、その憲法に国民を従わせる」という姿勢が明確にあって、だからこそ「国民の基本的人権」を保障する現行憲法の第97条が、自民党草案では丸ごと削除されている。「そこが一番の問題だ」と言っても、そういう抽象的な総論は今の日本人にはピンと来ないだろう。そこを突つき出すと、「基本的人権とはなにか」という、今の日本人にとってむずかしすぎる話になってしまう。
だったら、「憲法改正なんて知らない」の無関心のままでいるのが一番いい。知らないまま、憲法改正の国民投票に「NO」の一票を投じればいい。なにしろ、今の日本人には、「議論の仕方」が分からなくて、それをいいことにして、憲法を改正したがる人間は「焦点の合わない説明」をいくらでも展開するはずなのだから。一番重要なのは、「なんでそんなことをしなきゃいけないのか分からない」という頑固でバカな姿勢を貫くことだろう。私は、なんで憲法を改正しなきゃいけないのかが、分かりません。》

もちろん、私も分かりません!……というわけで、ストンと胸に落ちるしなやかな言葉と衰えない思考力&深い洞察力で、世の中と日本人の今を捉えた『バカになったか、日本人』。読み終えた後、私のように強い味方を得た気分になる人も多いはず。ぜひ、ご一読のほど。

※先週の木曜(5日)は、新宿ピカデリーで映画『はじまりのうた』を観て(音楽は良かったが、ストーリーがイマイチ。というか、感動作という触れ込みなのに話が浅すぎ!)、金曜(6)は池袋の「トラベルカフェ」で代理店のJさんと仕事の打合せ(A4パンフ4頁とA4チラシ表裏のコピー&ビジュアルアイデア出し)。今週は、ちょっぴり仕事で忙しくなりそうだ。

2015/03/03

仕事と酒と『アメリカン・スナイパー』



はや3月……先週あたりから花粉の影響で頭がボーッとしている。そのせいか、取材のテープ起こしに時間がかかり(ダラダラと丸2日)、仕事も思うようにはかどらなかった。金曜(27日)の朝、クライアントからメールで「コピー、いつ上がりますか?」と催促がきたところで、慌ててねじを巻き、ようやく日曜(1日)の夕方に書き終えた次第。(「来週早々にお見せできます」という約束は、何とかクリア)

で、昨日は旧友と池袋ではしご酒。酒豪の二人につられて飲み過ぎ、千鳥足でフラフラ帰り、今朝は見事に二日酔い(若干、記憶も飛んでいる)……朝メシを喰う気にもならず、ダル重・胸やけ状態でパソコンを立ち上げ、サッカー情報などをチェックした後、メールを見たら、クライアントから先日送ったコピーに対する絶賛コメントあり。お陰で少し頭もシャキッとした感じ。(まだまだ腕衰えず。でも、腕を活かす仕事が足らん!)

さて、先週の木曜(26日)に観た映画の話。

神と国家と家族、それがアメリカの絆か……と、鑑賞後、ひとり胸で呟いた『アメリカン・スナイパー』。
主人公は、喧嘩をすることは許しても負けることは許さない父に育てられ、子供の頃から銃に親しみ自分の判断で引き金を引く自由をもっていた、マッチョな男「カイル」。自分の家族は自分の銃で守る――羊と狼の真ん中に立つ「番犬」として弱い弟を守ることを教えられた彼は、9.11を機に政府のプロパガンダを丸ごと信じ、国と国民を守るため志願してイラクへ。その戦場で女子供も含め160人もの人間を「自分の判断」で狙撃する。
子供を撃った後も、仲間と笑いながら話し、携帯で妻に電話しながら銃を構えるカイルの姿は、まるで危険地域に出張中のビジネスマンのようで、観ているコチラの違和感は膨らむばかり。
だが、名匠が淡々と描くフィルムの力に引き込まれ、眼はスクリーンに釘づけ。

やがてカイルは任務を終え帰国するが、心はイラクに残したまま。家族の元に落ち着くことなく、戦場こそが自分のホームであるかのように、再び志願……4度の従軍の後、心身共に蝕まれた状態で祖国に帰り、家族の支えでようやく心の平安を取り戻したかのように見えたある日、突然PTSDを患う元海兵隊員に射殺される。
爆撃も戦闘もない祖国アメリカで迎えた“英雄”の最後は、異国の敵ではなく守ってきたはずの味方からの狙撃だったという虚しいだけの皮肉な結末。

そして、伝説の狙撃手「クリス・カイル」の実写が流されるラスト。葬送の車を見送る人々が振り続ける無数の星条旗、音楽のない無音のエンドロール……私には、狂信的愛国者へのオマージュのようにも見えたが、この間違った戦争で偶像となった主人公カイルもまた戦争の犠牲者なのだという「愛国者」クリント・イーストウッドの無言のメッセージなのだろうか。
難しい題材を抑制の効いた戦場エンタメに仕立て上げる腕は、さすがというほかないが、私の頭の中では愛国的かつ好戦的な主人公への違和感が最後まで拭えず、素直に反戦映画とは言いにくい重苦しさが残った。(当然、同じ愛国者でも、人生が醸し出す風格と自己犠牲の精神の尊さを見せてくれた『グラン・トリノ』の主人公の魅力には遠く及ばない)