2014/12/04

文太さんの「サムシング・エルス」



菅原文太さんの死が報じられた日(121日)から一日1作、在りし日を偲ぶつもりで『仁義なき戦い』シリーズのDVDを観ていた。

本棚からも、暫く眠っていた『仁義なき戦い 浪漫アルバム』(1998年・徳間書店刊)を取り出し、再読……「ポスターギャラリー」の中の文太さんを眺め、刺激的な宣伝コピーに目を留めながら、全共闘運動の終焉、「連合赤軍事件」等を契機として閉塞感が漂いはじめた時代に、若者たちの心に凄まじい熱を浴びせ続けたパワフルな群像劇の魅力に、久しぶりに浸った。

その本の中には、「僕が目指したのはバルザックの「人間喜劇」。決まった主人公もいない、勧善懲悪もない、群衆としての登場人物全体のうねりのようなものがエネルギーになるところを、お客さんに伝えたいと思っていた」と語る脚本家・笠原和夫や、「最初は菅原文太じゃなく渡哲也を主役にしようと思っていた」などと製作の舞台裏を話すプロデューサーの日下部五朗、そして「昭和20年の敗戦でガラガラと崩れ去った日本の支配体制が、20年もすると復古調の波に乗ってチャッカリと登場し始めるんです。それが我々焼け跡世代の人間には腹が立って仕方がなかった。『仁義なき戦い』はそういう我々の口惜しさを十分反映させうる素材だったんです。何故ならこれは、古くてズルい大人達にしてやられてしまう若者達のドラマですからね」と胸の内を明かす監督・深作欣二等の興味深いインタビュー記事が載っている。
が、それらファン垂涎のインタビュー記事にも増して、今も忘れがたく目に焼き付いている写真と、心に残るエッセイがある。

写真は、「代理戦争」のB全モノクロ版ポスターに使われたワンショット。海の中、褌一枚、日本刀を手にした裸の文太さんの鋭い眼光、その生きざまを示す全身の入れ墨。その写真の横に《その日が、遂に来た! 盃〈外交〉が生んだ波紋の輪が いま、一人の男〈ヤクザ〉によって広島を赤く塗りつぶす――。》という白ヌキのコピーが添えられている。
カメラマンの富山治夫氏によると、ポスター写真は、徹夜で文太さんの身体に入れ墨を入れて夜明け前に若狭湾で撮ったそうだ。

そしてエッセイは、文太さん自身が「東映映画三十年―あの日、あの時、あの映画」(1981年・東映映像事業部編)に寄せたもの。タイトルは「サムシンズ・エルス」……以下、その全文。

モダン・ジャズが好きで、かねがねモダン・ジャズのような映画を撮りたいと思い、今でもそれは変わらない。
深作さんと格闘しながら撮って、すでに、8年余りになるが『仁義なき戦い』はモダン・ジャズのような映画だったと思う。混沌、喧噪、生々しさ、レジスタンス、荒々しさ、センチメント、アドリブ、それらがあの時大きなボイラーの中で悲鳴をあげていた。
俺ばかりでなく、旭(小林)が、欣也(北大路)が、梅宮(辰夫)が、渡瀬(恒彦)、室田(日出夫)、拓三(川谷)、志賀勝が、金子(信雄)さん、方正(小松)さんが、思えばマイルス・デイビスであり、キャノンボールであり、サム・ジョーンズ、ハンク・ジョーンズであり、アート・ブレーキィ、ボビィ・ティモンズ、リー・モーガンであったと思う。そしてその演奏は、あの年の夏、ニューヨークならぬ京都、広島のゴミゴミした街と、撮影所の薄ら寒いセットで破裂せんばかりに奏でられ、そしてその音は消え去り、今は、再び帰っては来ない。
ミュートをかけたあの哀しい音を、二度と伝えてくれない俺のマイルス。陽の射さない自室にこもり、タフだった唇を閉ざして、サッチモのレコードに聴き入るだけの、しかし永遠のマイルスよ。
俺にももっと狭い、もっと陽のあたらぬ部屋が待っている、その時まで、音程の狂った安楽器を吹き鳴らし続けていよう。
『仁義なき戦い』ララバイ、さらば『仁義なき戦い』よ。

……生前「政治家の仕事はただ二つ。国民を飢えさせないことと戦争をしないことだ」と端的に喝破していた文太さん。きっと、俳優としても人間としても、多くの引き出しを持っていた、粋で見識の高い魅力的な男だったのだろう。

そんな文太さんを送った奥さまの言葉も静かで美しかった。

「『落花は枝に還らず』と申しますが、小さな種を蒔いて去りました」

さようなら、文太さん。これまでも、これからも、私にとっての「サムシング・エルス(格別に素晴らしいモノ)」は、あなたが主役を張った映画『仁義なき戦い』です。

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