2014/12/31

大晦日に「絶望」を思う。



「この国には、何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」……“ゆっくりと死んでいく患者のような日本経済”への危機感を背景に、そこで生きる若者たち(&子どもたち)の閉塞感を捉えながら、新たな希望の方向を示そうとした小説『希望の国のエクソダス』(村上龍)がセンセーショナルな話題を集めて、早14年。

「希望」が、そこかしこに生まれる社会になったかどうかは定かでないが、その間、大学では「希望学」(東大社研)という新たな研究分野が生まれ、さらに3.11を経て、「絆」や「夢」とセットになった「希望」は、より強く豊かで明るい未来をイメージさせる言葉になった。
普段でも「希望」という言葉を聞かない・目にしない日がないくらい、「希望」は私(たち)の身近に溢れてきたような気がする。

でも、いま私は、「希望」を持つことの大切さを噛みしめるより、その真逆の、こんな言葉に共感し頷かされている。

それは、先週の木曜、朝日新聞の論壇時評「選挙の後に 投票先は民主主義だ!」(高橋源一郎)に書かれていた、「この国は絶望が足りない」という森達也氏の発言だ。(記事は、オンライン・政治メディア「ポリタス」での「投票」の意義をめぐる議論を、源一郎さんが抜粋し解説を加えたもの。「投票先は民主主義だ」は漫画家・しりあがり寿の言葉)

高橋源一郎によると、森達也は「もう(選挙に)行かない派」。《選挙前から、与党の勝ちと結果はわかっている。おまけに、権力を監視する装置としてのメディアは「その機能を放棄しかけている。ほぼ現政権の広報機関だ」「だからもう投票には行かなくていい。落ちるなら徹底して落ちたほうがいい。敗戦にしても原発事故にしても、この国は絶望が足りない。何度も同じことをくりかえしている。だからもっと絶望するために、史上最低の投票率で(それは要するに現状肯定の意思なのだから)、一党独裁を完成させてほしい。その主体は現政権ではない。この国の有権者だ」》と“悲しげに”書いたそうだ。

「これって、選挙前のオレの気分と同じじゃん!」と、その気持ちを代弁してくれたような森氏の文に思わず「異議なし」と心の中で叫んだ私……その勢いで『希望の国のエクソダス』の一文を捩ってみたくなった。

「この国には、希望がたくさんある。本当にいろいろな夢と希望があります。だが、絶望が足りない」

というわけで、来年に「希望」をつなぐべき大晦日に、あまりふさわしくない話になってしまいましたが、忘れてはいけない「絶望」を、しっかりと未来につなぐことも「希望」への道のり。
「バイアグラ連打状態」(旧知の仲間との忘年会の帰り道、経済学者の友人がそう言っていた)のアベノミクスの行く末を見届けつつ、新たな「希望」を見つめる2015年にしたいもの。

では、皆さま、よいお年を。

※今夜の「紅白」は、サザンの飛び入り参加(ライブ中継?)と、美輪さんの「愛の讃歌」だけ観たい。吉田類の「酒場放浪記」も気になるし。

0 件のコメント:

コメントを投稿