2014/09/09

夏の終わりの映画メモ②



827日(水)
シネ・スイッチ銀座」で、『マダム・イン・ニューヨーク』(2012年/インド)を観る。映画の前に銀座「天龍」で、餃子+小ライス(&焼きそば少々)

「全世界の女性の共感を得た作品」ということで、観客の9割方は女性。メガホンを取ったのは、これがデビュー作となる新人女性監督ガウリ・シンデー……好きな映画監督は「ウディ・アレン」だそうだが(故に舞台はニューヨーク?)、人の心の襞を丁寧に描こうとしているのはその影響か、ヒロインの心の“覚醒”プロセスを些細なエピソードを散りばめて、ラストまで盛り上げていく脚本・演出は見事なものだ。
というわけで、インド映画のメッカ「ボリウッド」のイメージを変えつつ、その好調さを裏づける佳作。主人公の主婦シャシを演じるインドの大女優「シュリデヴィ」の美しさが光る。ただ、残念なことに男の描き方がステロタイプでつまらない。「シャシ」の気高さを引き立てるためだろうが、これほど魅力的な男が出てこない映画も珍しい。(唯一、わずか数分の出演で際立つ存在感を見せてくれた人物がいたが、特別出演の大スター「アミターブ・バッチャン」とのこと。ナットクの貫禄)
上、歌と踊りとスピーチで全て丸く収まるラストもボリウッドらしく、後味も悪くない。が、私的には、女性の共感を呼ぶ「マダム」より、孤独を埋める「ジゴロ」が好み。(ウディ・アレンも出演している『ジゴロ・イン・ニューヨーク』)。

829日(金)
「ポレポレ東中野」で、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(2013年/監督:太田信吾)を観る。上映開始1230分、映画の前にカフェ「ポレポレ坐」でヱビスの生とミックスナッツ。

映画のテーマは「自殺」……プロ・ミュージシャンを目指しながらも夢破れ27歳で自ら命を絶った若者と、彼の友人二人(一人は本作の監督)の生き様を見つめたドキュメンタリー。
若者の名は増田壮太、高校時代に結成した「おきゃんぴー」というバンドで「YAMAHA TEEN’S MUSIC FESTIVAL2000」全国優勝を果たし、10代で音楽業界と関わる。しかし、ほどなく突き放され、やがて音楽で生計を立てられない苦しさと表現に対する迷いの中で心を病む。
彼の友人であり、本作で長編デビューした監督・太田信吾に残されたのは「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで」という遺言(高校の後輩でもある太田は、2007年頃から“憧れの先輩”と親交を深め、衝動的な欲求に駆られ彼の姿をカメラで追っていたそうだ)……太田は混乱の中でその言葉と向き合い、フィクショナルなカットを織り交ぜ、増田(と自分たち)が求めた「表現とは何か」「自由とは何か」を模索しながら、増田のバンド仲間で本作の主人公の一人でもある富永蔵人と併走して映画を完成させる。

さて、映画の印象だが……正直、自主製作の拙さが目立ち、構成も粗く、当然ながら完成度は高くない(と言うより、これで完成なのだろうか?と疑うほどの「混乱」も露呈する)。だが、今までこんな映画を観たことがあっただろうか。自分の不様な青春が隠さず映し出されているような、息苦しいほどの切迫感は圧倒的だ。そこには激しく心を揺さぶる友情の物語がある。カッコ良くも素晴らしくもなく、不器用にもがく若者の姿がある。そして、現実に切り裂かれながらも生きる意志と表現にかける強い思いが迸る。

 「自殺」の理由は、誰にも分からない。そして誰も止めることはできなかった。

映画の後半、「壮太さんらしい選択だとは思いますか?自殺が」と太田は両親に問う。
「らしくはないと思うんだよね、自殺が。最後がこんな締めくくり方を彼らしいなんて思わないよ」と父は答える。
「わたしは子供に先に逝かれちゃう親になるかもしれないっていう予感がある中で日々暮らしてた。だって本当にこう、ヘトヘトになるような日々を過ごしてたのは、ひとつ屋根の下に暮らしていたら見えちゃうでしょ。だから良いとかじゃなくて。でも自殺を止められるだけの力がわたしの中にあったか?と考えると、親だから出来ることはあっても、この子が必要としている力はわたしの力じゃなくて、別の誰かにあるんだって突きつけられていた日々なんだよね」と母は語る。その言葉が胸を刺す。(気がつけば、私と同世代の二人だ)

彼の自殺を「らしい選択」とも、「才能」とも言うことはできない。また、それは魂の激闘の果てに辿りつく決意でもないはず。身近な人に残されたのは、夢に食い潰され、現実に抗う力も生きる意味も失った人間の「虚ろ」をつかみ、握り締めることができなかった悔しさだろうか。誰もが計り知れない絶望感と無力感に襲われたであろうことは容易に想像がつく。
それでも、「表現に生きる」道を捨てず、迷いあがきながら、太田信吾と富永蔵人は、立派に「かきむしられるような生命と疾走の物語」を作り上げた。増田壮太の生きた時間と自ら絶った未来は、二人の表現の中で生きている。(そして、生きていく)

映画終了後のロビーで、舞台挨拶に来ていた太田監督と遭遇。パンフレットにサインをもらいながら二言三言、軽く言葉を交わした。彼が名前と共にしたためた大きな“伝”の文字を目に入れながら。

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