2014/09/21

黒板ジャック&マグリット



先週の土曜13日)の朝、「ズムサタ」(日テレ)を観ていたら、美大生が中学校の黒板にチョークで落書きして回る「黒板ジャック」の話が紹介されていた。(武蔵野美術大学の学生による「旅するムサビプロジェクト」の一環らしい)

「ジャック」と言っても、きちんと学校の許可を得て真面目に描いているし、「落書き」自体もかなり本気度を感じさせる力作ばかりなのだが、殺風景な教室を、さながら街の小さな美術館に早変わりさせるその行為が何ともユニークで楽しそう。
もちろん、生徒たちは事前に何も知らされていないので、教室に入った途端に目がテン! 他の教室の「黒板」を覗きに行ったり、大袈裟にのけ反る子もいたり、そのリアクションの面白さも一緒に楽しめるというワケだ。(好きだなあ、こういうの)

黒板に描かれた絵は、授業が始まる前に美大生と生徒の手により「せ~の」で一気に消されるのだが、「え~~っ」「もったいな~い」とどよめく教室の名残惜しげな雰囲気を、束の間残した夢の跡とばかりに、スパッと断ち切る感じもまたイイ。(退屈な日常をぶち破るアートの力ここにあり!といった意気と自負を感じる)

というわけで、テレビを観ながら「旅するムサビプロジェクト」にエールを送ったわけだが、そんな「黒板ジャック」に刺激を受け、翌日は“家でグウタラ”の予定を急遽変更。ウチの「黒猫ジャック」に留守番を言いつけ、Bunkamura25周年特別企画『だまし絵Ⅱ 進化するだまし絵』展を観に、渋谷へ出かけた。

好天に恵まれた日曜日(14日)。渋谷の街は丁度「金王八幡宮例大祭」とかで、凄い人混み。お決まりの「麗郷」でランチを取り、練り歩く神輿と路肩に腰を下ろして休んでいるハッピ姿のお兄さん・お姉さん(オバサン、オジサンもチラホラ)を横目に文化村へ着いたのだが、「だまし絵」という言葉の“ふしぎ発見”的な親しみ易さ(&面白さ)に惹かれるのか、宝探しにでも来たような、あまりアートと縁の無さそうな家族連れも多く、会場は老若男女入り乱れて渋谷の街以上の大混雑。(「シュールレアリスム」や「トリックアート」という言葉では、これほど人は集まらないだろうに…)
とてもゆっくり観ていられるような状況ではなかったが、目当てのアルチンボルドの2作品(「司書」「ソムリエ」)、ダリの「海辺に出現した顔と果物鉢の幻影」、マグリットの「赤いモデル」「真実の井戸」「白紙委任状」などは何とかじっくり目に収め、1時間ほどで鑑賞を終えた次第。

で、何が印象に残ったかと言えば、やはり「ルネ・マグリット」。絵も不思議だが、タイトルも不思議……先端に指の生えた片足だけの長い靴の絵を「なんで、真実の井戸なの?」と聞かれても、答えられるわけがない。
が、その「なんで?」という違和感、言葉で説明できない不思議さこそが「言葉とイメージ」の問題を追求し続けたマグリットの魅力。観る側の常識的観念に奇抜な発想で問いかけ、眠っている想像力を掻き立てる強烈な力がある。

さすが「イメージの魔術師」と言ったところだが、そんなマグリットの生涯は、同じくシュールレアリスムを代表する画家ダリのような波乱や奇行とは全く無縁……3LDKのアパートで、幼なじみの妻と生涯連れ添い、犬を飼い、絵を描くときも常にスーツにネクタイ姿、時間に正確で夜10時には就寝する「平凡な小市民」だったという。(逆にこれだけキチンと生活する「平凡な小市民」もいないと思うけど…)

それまた不思議。斯様に意識的な(?)「小市民」ぶりを知り、尚更、マグリットが魅力的に思えてくるのは何故だろう。

シュールレアリスムは、新兵器・大量殺戮兵器(毒ガスなど)が大々的に使用され、非戦闘員(民間人)の死者数が1000万人に及んだ第一次世界大戦後、人々の心の壊れの表現として生まれた芸術運動。マグリットは、戦争によって奪い尽くされた「普通の生活」にこそ人間の在るべき姿があるとでも言うように、平凡な市民として実生活上の“真実”を体現しながら、時折「死」の気配すら漂わせるその心の「壊れ」を絵の中に隠し、無限のイメージの世界で自由に生きようとしたのだろうか……

まだ広告が元気で、ビジュアルも刺激的で楽しかった頃、事あるごとにマグリットの絵を眺め、ビジュアルのヒントを探していた自分を思い出しながら、そんなとりとめのない事を考えてしまった。

もう、秋ですね~

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