2014/09/23

余談(前回「マグリット」の流れで…)



ところで、いつから広告やグラフィックがつまらなくなったのか? ソフトバンクのお父さん犬が茶の間の人気者になった頃からだろうか?CM自体は革新的だったと思うが) 佐藤可士和がもてはやされるようになったあたりか?(ユニクロのマークにしろ、明学大のブランディングにしろ、どこがいいのかさっぱり分からん) それとももっとずっと以前からか……その辺は定かではないが、いつの間にか「マーケティング」が「クリエイティブ」の上に立って仕切り、「とにかく金をかけずに、商品寄りで分かりやすく」とクライアントが言い出し、「イメージ」より「ストーリー」&「即効性・廉価感」が常に優先されるようになり、街にはベタなコピーと毒にも薬にもならないビジュアルが溢れ、金のかからない版権フリーの写真やイラストが氾濫。広告表現における「イメージ」の衰退と共に、力のあるイラストレーターやカメラマンの仕事は激減し、巷のデザイナーの仕事もルーチンに変わってしまった。(もちろん、広告コピーも疲弊中)

一方、CMはどうか? 「ソフトバンクみたいなCMを作ってよ」と数多のクライアントが異口同音に言っているのかどうか知らないが、トヨタ、ダイハツ、ダイワハウスなどなど、有名タレントを惜しげもなく(金に糸目もつけず?)使ってストーリーを組み立てる手法は、いずこも同じ秋の夕暮れ……商品と企業広告を合体させたトヨタの「ReBORN」などは、ソフトバンクの「ホワイト家族」を手がけたプランナーとクリエイティブチームが作っているのだから何をか言わんや、我が世の春。まさに大手代理店専属クリエーターの独り勝ち状態だ。
私的には、挿入歌「黄昏のビギン」以外、まったく好きな所はないので、「何がReBORNだよ!」と悪態をついて即、チャンネルを変えたくなるが、不思議に好感度は高いらしい。(rebornは、トヨタと日本と過去の英雄の転生をつなぐ言葉。「トヨタも生まれ変わりたい」というのは分かるが、転生した英雄に改革を期待する・語らせるっていうのが、そもそも古いコンセプト。CM自体をrebornしてほしいくらい)

でも、紙媒体(新聞広告やポスター)よりは、まだテレビCMの方が元気に見えるし、もちろん中には「オッ、面白いじゃん!」と唸らせてくれるものもある。例えば、サントリーの「BOSS(宇宙人ジョーンズシリーズ)や、中居クンと「電車おじさん」の掛け合いが笑える「ヒューマントラスト」など。(「BOSSCMも「ReBORN」と同じプランナーが手掛けたものなので、あまり誉めたくはないが)
そしてもうひとつ、好感度はさほど高くはないだろうが(むしろ、低いか!?)、「美容整形なんて、端から胡散臭いと思われているんだから、逆に堂々と正面突破で“胡散臭くても幸せな生き方”や楽しんでいる姿を見せてやろうぜ」みたいな強烈な個性とバイタリティを感じるYES!「高須クリニック」のカオスなCM。(普通の視聴者には「ナニこれ?」とウケなくても、「整形」を一歩手前で躊躇っている女性たちには「思いのまま、もっと、自由に生きようよ」と肩を押してくれるメッセージに思えるはず。つまり、自分の存在全肯定のYES!なのだ)

そういうCMを見ると、イミフに見えて考えが深いなあ、訴求力あるなあ……と、素直に評価したくなるが、自分がそういうものに「関わりたい・作りたい」と思わなくなったのは、広告制作に対する情熱が年と共に薄れてきたからだろう。(まだ、いいコピーを書きたい!とは思うけど)

……というわけで、広告における「イメージの衰退(=想像力の衰退)」を嘆きながら、CMの好き嫌いみたいな、まとまりのない話になってしまったが、「余談」なのでお許しあれ。

では、また。

明日からは、デザイナーのUEちゃんに頼まれたロゴマークの「コンセプト作り」に集中。彼岸明けの金曜日は墓参りの予定。

2014/09/21

黒板ジャック&マグリット



先週の土曜13日)の朝、「ズムサタ」(日テレ)を観ていたら、美大生が中学校の黒板にチョークで落書きして回る「黒板ジャック」の話が紹介されていた。(武蔵野美術大学の学生による「旅するムサビプロジェクト」の一環らしい)

「ジャック」と言っても、きちんと学校の許可を得て真面目に描いているし、「落書き」自体もかなり本気度を感じさせる力作ばかりなのだが、殺風景な教室を、さながら街の小さな美術館に早変わりさせるその行為が何ともユニークで楽しそう。
もちろん、生徒たちは事前に何も知らされていないので、教室に入った途端に目がテン! 他の教室の「黒板」を覗きに行ったり、大袈裟にのけ反る子もいたり、そのリアクションの面白さも一緒に楽しめるというワケだ。(好きだなあ、こういうの)

黒板に描かれた絵は、授業が始まる前に美大生と生徒の手により「せ~の」で一気に消されるのだが、「え~~っ」「もったいな~い」とどよめく教室の名残惜しげな雰囲気を、束の間残した夢の跡とばかりに、スパッと断ち切る感じもまたイイ。(退屈な日常をぶち破るアートの力ここにあり!といった意気と自負を感じる)

というわけで、テレビを観ながら「旅するムサビプロジェクト」にエールを送ったわけだが、そんな「黒板ジャック」に刺激を受け、翌日は“家でグウタラ”の予定を急遽変更。ウチの「黒猫ジャック」に留守番を言いつけ、Bunkamura25周年特別企画『だまし絵Ⅱ 進化するだまし絵』展を観に、渋谷へ出かけた。

好天に恵まれた日曜日(14日)。渋谷の街は丁度「金王八幡宮例大祭」とかで、凄い人混み。お決まりの「麗郷」でランチを取り、練り歩く神輿と路肩に腰を下ろして休んでいるハッピ姿のお兄さん・お姉さん(オバサン、オジサンもチラホラ)を横目に文化村へ着いたのだが、「だまし絵」という言葉の“ふしぎ発見”的な親しみ易さ(&面白さ)に惹かれるのか、宝探しにでも来たような、あまりアートと縁の無さそうな家族連れも多く、会場は老若男女入り乱れて渋谷の街以上の大混雑。(「シュールレアリスム」や「トリックアート」という言葉では、これほど人は集まらないだろうに…)
とてもゆっくり観ていられるような状況ではなかったが、目当てのアルチンボルドの2作品(「司書」「ソムリエ」)、ダリの「海辺に出現した顔と果物鉢の幻影」、マグリットの「赤いモデル」「真実の井戸」「白紙委任状」などは何とかじっくり目に収め、1時間ほどで鑑賞を終えた次第。

で、何が印象に残ったかと言えば、やはり「ルネ・マグリット」。絵も不思議だが、タイトルも不思議……先端に指の生えた片足だけの長い靴の絵を「なんで、真実の井戸なの?」と聞かれても、答えられるわけがない。
が、その「なんで?」という違和感、言葉で説明できない不思議さこそが「言葉とイメージ」の問題を追求し続けたマグリットの魅力。観る側の常識的観念に奇抜な発想で問いかけ、眠っている想像力を掻き立てる強烈な力がある。

さすが「イメージの魔術師」と言ったところだが、そんなマグリットの生涯は、同じくシュールレアリスムを代表する画家ダリのような波乱や奇行とは全く無縁……3LDKのアパートで、幼なじみの妻と生涯連れ添い、犬を飼い、絵を描くときも常にスーツにネクタイ姿、時間に正確で夜10時には就寝する「平凡な小市民」だったという。(逆にこれだけキチンと生活する「平凡な小市民」もいないと思うけど…)

それまた不思議。斯様に意識的な(?)「小市民」ぶりを知り、尚更、マグリットが魅力的に思えてくるのは何故だろう。

シュールレアリスムは、新兵器・大量殺戮兵器(毒ガスなど)が大々的に使用され、非戦闘員(民間人)の死者数が1000万人に及んだ第一次世界大戦後、人々の心の壊れの表現として生まれた芸術運動。マグリットは、戦争によって奪い尽くされた「普通の生活」にこそ人間の在るべき姿があるとでも言うように、平凡な市民として実生活上の“真実”を体現しながら、時折「死」の気配すら漂わせるその心の「壊れ」を絵の中に隠し、無限のイメージの世界で自由に生きようとしたのだろうか……

まだ広告が元気で、ビジュアルも刺激的で楽しかった頃、事あるごとにマグリットの絵を眺め、ビジュアルのヒントを探していた自分を思い出しながら、そんなとりとめのない事を考えてしまった。

もう、秋ですね~

2014/09/09

夏の終わりの映画メモ②



827日(水)
シネ・スイッチ銀座」で、『マダム・イン・ニューヨーク』(2012年/インド)を観る。映画の前に銀座「天龍」で、餃子+小ライス(&焼きそば少々)

「全世界の女性の共感を得た作品」ということで、観客の9割方は女性。メガホンを取ったのは、これがデビュー作となる新人女性監督ガウリ・シンデー……好きな映画監督は「ウディ・アレン」だそうだが(故に舞台はニューヨーク?)、人の心の襞を丁寧に描こうとしているのはその影響か、ヒロインの心の“覚醒”プロセスを些細なエピソードを散りばめて、ラストまで盛り上げていく脚本・演出は見事なものだ。
というわけで、インド映画のメッカ「ボリウッド」のイメージを変えつつ、その好調さを裏づける佳作。主人公の主婦シャシを演じるインドの大女優「シュリデヴィ」の美しさが光る。ただ、残念なことに男の描き方がステロタイプでつまらない。「シャシ」の気高さを引き立てるためだろうが、これほど魅力的な男が出てこない映画も珍しい。(唯一、わずか数分の出演で際立つ存在感を見せてくれた人物がいたが、特別出演の大スター「アミターブ・バッチャン」とのこと。ナットクの貫禄)
上、歌と踊りとスピーチで全て丸く収まるラストもボリウッドらしく、後味も悪くない。が、私的には、女性の共感を呼ぶ「マダム」より、孤独を埋める「ジゴロ」が好み。(ウディ・アレンも出演している『ジゴロ・イン・ニューヨーク』)。

829日(金)
「ポレポレ東中野」で、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(2013年/監督:太田信吾)を観る。上映開始1230分、映画の前にカフェ「ポレポレ坐」でヱビスの生とミックスナッツ。

映画のテーマは「自殺」……プロ・ミュージシャンを目指しながらも夢破れ27歳で自ら命を絶った若者と、彼の友人二人(一人は本作の監督)の生き様を見つめたドキュメンタリー。
若者の名は増田壮太、高校時代に結成した「おきゃんぴー」というバンドで「YAMAHA TEEN’S MUSIC FESTIVAL2000」全国優勝を果たし、10代で音楽業界と関わる。しかし、ほどなく突き放され、やがて音楽で生計を立てられない苦しさと表現に対する迷いの中で心を病む。
彼の友人であり、本作で長編デビューした監督・太田信吾に残されたのは「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで」という遺言(高校の後輩でもある太田は、2007年頃から“憧れの先輩”と親交を深め、衝動的な欲求に駆られ彼の姿をカメラで追っていたそうだ)……太田は混乱の中でその言葉と向き合い、フィクショナルなカットを織り交ぜ、増田(と自分たち)が求めた「表現とは何か」「自由とは何か」を模索しながら、増田のバンド仲間で本作の主人公の一人でもある富永蔵人と併走して映画を完成させる。

さて、映画の印象だが……正直、自主製作の拙さが目立ち、構成も粗く、当然ながら完成度は高くない(と言うより、これで完成なのだろうか?と疑うほどの「混乱」も露呈する)。だが、今までこんな映画を観たことがあっただろうか。自分の不様な青春が隠さず映し出されているような、息苦しいほどの切迫感は圧倒的だ。そこには激しく心を揺さぶる友情の物語がある。カッコ良くも素晴らしくもなく、不器用にもがく若者の姿がある。そして、現実に切り裂かれながらも生きる意志と表現にかける強い思いが迸る。

 「自殺」の理由は、誰にも分からない。そして誰も止めることはできなかった。

映画の後半、「壮太さんらしい選択だとは思いますか?自殺が」と太田は両親に問う。
「らしくはないと思うんだよね、自殺が。最後がこんな締めくくり方を彼らしいなんて思わないよ」と父は答える。
「わたしは子供に先に逝かれちゃう親になるかもしれないっていう予感がある中で日々暮らしてた。だって本当にこう、ヘトヘトになるような日々を過ごしてたのは、ひとつ屋根の下に暮らしていたら見えちゃうでしょ。だから良いとかじゃなくて。でも自殺を止められるだけの力がわたしの中にあったか?と考えると、親だから出来ることはあっても、この子が必要としている力はわたしの力じゃなくて、別の誰かにあるんだって突きつけられていた日々なんだよね」と母は語る。その言葉が胸を刺す。(気がつけば、私と同世代の二人だ)

彼の自殺を「らしい選択」とも、「才能」とも言うことはできない。また、それは魂の激闘の果てに辿りつく決意でもないはず。身近な人に残されたのは、夢に食い潰され、現実に抗う力も生きる意味も失った人間の「虚ろ」をつかみ、握り締めることができなかった悔しさだろうか。誰もが計り知れない絶望感と無力感に襲われたであろうことは容易に想像がつく。
それでも、「表現に生きる」道を捨てず、迷いあがきながら、太田信吾と富永蔵人は、立派に「かきむしられるような生命と疾走の物語」を作り上げた。増田壮太の生きた時間と自ら絶った未来は、二人の表現の中で生きている。(そして、生きていく)

映画終了後のロビーで、舞台挨拶に来ていた太田監督と遭遇。パンフレットにサインをもらいながら二言三言、軽く言葉を交わした。彼が名前と共にしたためた大きな“伝”の文字を目に入れながら。

2014/09/08

夏の終わりの映画メモ①



818日(月)~22日(金)
レンタルDVDで(TSUTAYA「発掘良品」)アン・リー(李安)作品『推手』(1991年)、『ウェディング・バンケット』(1993年)、『恋人たちの食卓』(1994年/原題「飲食男女」)を自宅鑑賞。

 3作とも老父とその息子・娘たちの関係がテーマになっている「父親三部作」。父親役はすべて台湾の国民的俳優ラン・シャン(郎雄)が演じている。
アン・リーの名を初めて知ったのは『ブロークバック・マウンテン』(2005年/アメリカ)を観た時。一気に燃え、儚く消える二人(男)の愛を象徴するかのように打ちあがる花火のシーンがとても印象的で美しく、強い情念と高い美意識を持った監督だなあ……と思っていたが、改めてその感を強くした。
で、「父親三部作」だが……それぞれ趣は異なるものの全体的な印象としては、小津安二郎の世界を現代風にアレンジし、小気味よいテンポとアーティスティックな感性を加えたような感じ。
(もちろん、淡々と平坦な物語を描いて深く感銘を残す小津は凄いのですが)
何れも洗練された品格と知性、そして独特の情感を漂わせる味わい深い作品だが、特に好きなのは三作目の父親(中華の元シェフ)と3人の娘の情愛を描いた『恋人たちの食卓』(終わった瞬間、思わずテレビ画面に向かって拍手をしてしまった)。
練り上げられた脚本が素晴らしく、じんわりと長く胸に響く秀作。最後のちょっとしたドンデン返しも心地よく、料理のシーンが映画を鮮やかに引き立てている。

824日(日)
レンタルDVDで『小さいおうち』(2013年/監督:山田洋次)。

とにかく「松たか子」と「黒木華」の存在感に尽きる映画。特別、印象に残る作品と言うわけではないが、中弛みもせず最後まで楽しめるのは脚本・演出の質が高いから。
ベルリン映画祭では幾つかの海外メディアから「情熱に欠ける」「昭和初期へのノスタルジーを掻き立てるだけの高齢者向けメロドラマ」と酷評されたそうだが、個人の意思・責任を重んじる国の人たちには、戦時中の日常生活を描きながら政治的・歴史的背景をあまり語らず、「庶民に罪なし、希望あり」的な緊張感のない映画に仕立てる“甘さ・温さ”が納得できないのかもしれない。
でも、この作品の批判としてはちょっと筋違い。小津作品『東京物語』へのオマージュとして撮った『東京家族』の次の作品という点を踏まえて語られるべきだと思う……山田洋次がいくら小津安二郎を真似ようとしても、なかなか小津映画のような深みが出ないのは何故?とか。(思うに、山田洋次は庶民に優しすぎるのかも……裏返して言うと「庶民幻想」?「庶民コンプレックス」?)
それにしても、このところテレビを観ても映画を観ても何故か「妻夫木聡」がついてくる。別に嫌いな役者じゃないが、いい加減学生役も無理がある。他に誰かいないのだろうか?
(暑い夏も終わり、そろそろ『若者たち2014も食傷ぎみ)

2014/09/05

帰るべき場所へ。(香川の移籍について)



BVB(ボルシア・ドルトムント)は家族のような存在であり、彼らが僕を忘れず、また迎え入れてくれたことを誇りに思う」……そんなメッセージを携え、週明けの91日、サッカー日本代表・香川真司のドルトムント復帰が決まった。

香川自身は「もう十分」というくらいビッグクラブでやり尽くした後に、待っている「家族」のもとへ帰りたかったのだろうが、自分の個性が生かされない場所でどう足掻いても、イメージ通りにキャリアアップを果たすことなど無理な話。まして、指揮官に信頼されているならまだしも、「戦力外」と告げられてまでマンチェスター・Uに留まる意味はない。例え、内外の心ないメディア(クソ大衆紙)やファンに「都落ち」「落伍者」などと揶揄されようと、貴重な選手生命を無駄にしないためには、「移籍」は正しい決断だったと思う。(落伍者?…なんて酷い言い草だ!)

もちろん、マンチェスター・Uでの活躍を楽しみにしていたファンの一人としては、十分な信頼も評価も得ることができないままチームを去ることになったのは残念だ。また、その結果を捉えて「プレミア挑戦は失敗だった」「能力が足りなかった」と結論付ける人もいるだろう。しかし「多彩なアイデアとスピードを持つ攻撃的MF」「ゴールに近いゾーンで違いを生みだす存在」として元監督アレックス・ファーガソンが獲得したはずの香川に、強いフィジカルと守備面でのハードワークを求め、単調な攻撃パターン(サイド突破からのクロス多用)の中でその個性を埋没させてしまったのは、香川の失敗というよりは明らかにマンUの失敗。そんな理不尽な方針転換に文句一つ言わず、直向きに戦い続けた香川の「ビッグクラブからの脱出」を誰も咎めることはできないし、その挑戦が「成功」だったか「失敗」だったかを示せるのは他の誰でもなく、これからの香川真司だけ。

が、ともあれ、彼とマンチェスター・Uの間には強い縁も運もなかったのは事実(入団早々軌道に乗りかけた所で負傷し2か月の戦線離脱。縁を結んだ名将ファーガソンが香川入団後1年でマンUを去ったのも不運)。そうしてみると、今のところ、香川の挑戦がもたらしたものは、素人目で思うに「強化されたフィジカル」と「ビッグクラブで得た貴重な経験の数々」と言うくらいかもしれない。
でも、それが、香川の臨んだ成長であり、新たなステージへ向かう大きな力になるだろうことは容易に想像がつく。

さて、帰るべき場所に戻る決心をした香川を待っているのは、彼がもたらす多くの歓喜と成果を信じて疑わない熱狂的なサポーターと、家族のような雰囲気で選手を支えてくれるボルシア・ドルトムントいうクラブだ。そこには、香川の個性と才能を磨き上げ、一層の輝きを与えてくれた人間味溢れる名将ユルゲン・クロップをはじめ、ギュンドアン、グロスクロイツ、フンメルス、シャヒンなどワールドクラスの力を持つ親しい仲間がいる(もちろんチームとしても一流)。
その固い信頼の絆があるゆえに、期待外れに終わることのできない厳しい挑戦にもなるだろうが、個性が活きる場所に立てれば、香川なら必ず良い結果を残せるはず。失いかけたプレーの喜びと嘗ての輝きを取り戻すべく、軽やかに全力で進んで行ってほしいと思う。そして再び、あの黄色と黒が怒涛のように揺れるスタジアムで、大歓声を浴びる香川の勇姿を見せてほしいと心から願っている。

以下、ネットで拾った、的確かつ心に響く印象的な独白を紹介……

「ある一人のユナイテッドファンから香川真司選手へ向けた公開レター」
(インド人のマンチェスター・Uサポーターより)

 “運命とは、思い通りにいっている時には良いモノとして受け入れられる。そうでない時にはそれを運命とは呼ばず、不当な仕打ち、裏切り、単なる不運な事と呼びなさい”

こんにちは、真司

あなたがマンチェスター・ユナイテッドに来た時、私はそれを運命と呼びました。そしてそれから2年後、あなたがここを去った時、私はそれを不当な仕打ちと呼びます 

あなたが来た時、全てのユナイテッドファンは本当に心が躍りました。あなたがドルトムントで相手をズタズタに引き裂いているのを見て、私達はクラブを変える力を持った世界レベルの選手を雇い入れるのだと確信しました。

あなたは私達のナンバー10(トップ下)の選手になる予定でした。ユナイテッドはそれまで主に4-4-2のシステムでウイングを配置し、サイドからのクロスを使うことで有名でした。私達はあなたがクラブの現代化(モダンフットボールへの移行)に関して、私達のフットボールのやり方に変化をもたらしてくれると信じていました。そして私達はあなたとルーニーの連携を想像し、心を躍らせていました。

私は今でもエバートンと対戦した2013/14シーズンの最初の試合を見たのを鮮明に覚えています。また、ある夜には他の誰もがもがき苦しんでいた時、あなたは落ち着き払ってエルナンデスのゴールを二度完成させ、我々の目を引きました。しかし、ロビン・ファン・ペルシーの貢献によってあなたの印象は弱いものにされてしまいました。その傾向は期日まで続き、最終的にはあなたの旅立ちを招いてしまいました。

2年間を通して、あなたがあなたにとってふさわしいポジションで先発した試合はほんの一握りです。まったく不当なことです。左ウイングはあなたを行き詰まらせ、あなたの創造性が出せないように鎖をかけてしまうポジションです。
後知恵ですが、2年目のシーズンはもっと良くなっていたかもしれません。ウェイン・ルーニーが去り、あなたが10番の位置を自分のものに出来たかもしれません。しかしデイビッド・モイーズが来て、全てはダメになってしまいました。ティム・ケーヒルやフェライニのようなタイプの選手を10番の位置で使う監督にあなたを起用する事やあなたを理解することを期待するなど愚かな事でした。彼はあなたを1試合と半分(レバークーゼン戦とスウォンジー戦)だけ10番の位置で起用しました。それは彼の指揮下において最も素晴らしいフットボールに値するものでした。

1月の移籍ウインドーが開き、クラブは’statement signing’(選手を獲得する事によってファンや利害関係者に対し、首脳陣がクラブを改善しようと努力していることをアピールするようなこと?)が必要でした。そしてフアン・マタがやってきて、あなたは序列をさらに落としてしまいました。何試合かはあなた達二人が共にプレーし、うまく連携している時もありました。しかしそれは線香花火のような短い間でした。

あなたはユナイテッドのようなビッグクラブにおいてどれほど物事が簡単にいかないかという古典的な例です。能力を持っているだけでは充分ではありません。宿命、運命、運。多くの要因が関係し、あなたやそのファンを苦しませ、あなたはそれらの要因を自分の方に呼び寄せることはありませんでした。

もしくはそれは単に戦術上の事だったのかもしれません。おそらく監督達はあなたの素早いワンタッチパス&ムーブというスタイルが、ユナイテッドのゆっくりとしたプレースタイルにフィットするとは見なかったのです。あなたをベンチに追いやる一方で、平凡な選手たちにチャンスを与えるのを見ることはがっかりさせるものでした。しかし2年間、あなたは例えどれだけ残酷な扱いを受けようとも、いかなる不満や愚痴をこぼすことはありませんでした。あなたは常にベストを尽くしていました。ファン達はいつでもそのことを感謝と共に覚えていることでしょう。

果たされない夢もあります。達成されないゴールもあります。目的地にたどり着かない旅もあります。私達に残される事はどうすればうまくたどり着けたかという考えや、どうしてうまくいかなかったのかという後悔だけです。

あなたは全ての人があなたの事を敬慕する場所に帰りました。監督によってあなたのベストが引き出される場所です。私達は幸せです。なぜなら、あなたの能力が再び人目に触れることを予想できるからです。

マンチェスター・ユナイテッドとそのファンの代理として、あなたがボルシア・ドルトムントで2度目の、そしてこの上ないくらいの活躍の時を迎えることを願っています。私は継続してあなたのキャリアをしっかりと追うつもりです。わたしは我々があなたを売ったことを後悔させてくれることを望みます。

                                                        敬具
ひとりのマンチェスター・ユナイテッドファンであり香川真司を尊敬する者より

2014/09/04

どうした? 朝日!?



今日の朝刊に、池上彰さんのコラム「新聞ななめ読み」が載っていた。内容は、「慰安婦問題」の虚偽報道に関連して新聞社と新聞記者のモラルを問うもの
先日、朝日新聞が掲載を見合わせ、と同時に池上氏が今後の連載中止を申し入れたという例のコラム記事だ……(付随して、朝日新聞の“お詫び”と、掲載を認めた池上氏のコメントも載っていた)

 が、すぐに読んで、唖然とした。

と言っても別にコラムの内容に驚いたのではなく、この程度のものに何故、掲載見合わせなどと言う決定が下ってしまったのか全く理解不能だったから。
長年、朝日の記事に親しんできた私から見ても、極めて常識的な批判を封殺しようとした朝日新聞社の姿勢は「バカ丸出し」としか思えず、言い訳がましい“お詫び”を読んでも、まったく納得がいかないし、逆に気分が悪くなるだけ。

しかも、同じ朝刊の9頁に載っていた週刊新潮の広告の一部(2カ所、4文字)も黒塗りされた状態(正確に言うと白抜きベタ丸)で掲載されるという異常さ。(白丸で潰された言葉は「売国」と「誤報」らしい)
確かに、週刊新潮の広告見出しは虚偽報道で痛んだ朝日の神経を、過激な言葉で逆なでする厭らしいものだが、それが未来なき週刊誌の常道。そんな言葉に怯えて「隠す」というのは(隠した所で、ネットですぐバレるのに…)、権力に抗するジャーナリスト精神を守るべきメディアとして情けないというか、あまりに懐が狭すぎはしないだろうか。(そのくせ広告収入の落ち込みは避けたいという本音は見え見え)
第一、今時、どれだけの人が、反韓と「反日」攻撃&性特集と政治・芸能スキャンダルで売るしかない三文週刊誌の記事を真に受けて読んでいると思っているのだろう? 良識ある購読者に対しても失礼な話だ。

というわけで、私を含めて多くの購読者が、この間の朝日の対応力・判断力の拙さに呆れ幻滅していると思うが、社の“見合わせ決定”に対して決然と抗議の声を上げた第一線の怒れる記者たちの姿こそ、未来へ続く朝日の精神(のはず)。ネット右翼の「不買運動」などにジタバタせず、今は真摯かつ冷静に起こっている問題に対処し、ここ一番の時、いわれなき非難・批判すらも隠さず怯えず、堂々と受け止めて時代の流れと権力に真向かう朝日の姿を見せて欲しいと思う。(とりあえず購読契約は持続しますので!)