2014/03/20

“ちっぽけな存在”を思い見つめる2冊



先週半ばから一気に気温が上がり、例年通り花粉とともに春到来……と思ったら、今日は冷たい雨が降り、寒い冬へ逆戻り(昨日の墓参りも、北風が吹いて寒かった)。
でも、目の痒みとショボショボ感&鼻の調子は相変わらずで、最近は天気の良し悪しに関係なく外出は控え気味。仕事も暇だし、どうしても、部屋で本を読んだりテレビ&レンタルDVDを見たりする時間が多くなる。

というわけで、かなりのスローペースでようやく読み終えた田中慎弥の長編小説『燃える家』に続き、先週末は吉田修一の『怒り』を一気読み

『燃える家』は、朝日新聞(書評)の言葉を借りれば《ちっぽけな存在の人間と、政治や神、天皇など世の中を動かす大きな力との対峙(たいじ)を描いた》作品……だが私的には、映画評論家・越川芳明が言っていた「現代版・源平合戦(体制をコントロールする者たちに挑み続ける「負け組」の物語)」という表現の方が小説の舞台とも合っていてシックリくる。(舞台となる赤間関は壇ノ浦の近く。全編を通して「諸行無常の響き」も感じる)
そうしたテーマ上の“重さ”に、600頁近い大長編の“分厚さ”が加わり、体力的にはかなり消耗したが(時折、気力も萎えかけた)、読み終えた後の気だるい充足感は久しく味わったことのないもの。見えない力に支配されながら、社会の片隅で世界の「無意味(=虚無)」と向き合いつつ、血縁という「意味」に縛られて生きる“ちっぽけな人間(私たち)”の生活と抵抗を、戦後日本の権力構造を見据えながら独特の視線で描き出す作家の並々ならぬ力量と思想的な“毒”、そしてマグマのように胸奥で滾る“血”を感じさせてくれる力作だと思う。(その長さゆえ、小説自体に多少の“息切れ感”があるのはやむなし)

もう一方の『怒り』は、ひとつの殺人事件を契機に展開される3つのストーリーが同時進行する群像劇。本の帯には《惨殺事件に残された「怒」の血文字。整形をして逃亡を続ける犯人・山神一也はどこにいるのか?》と書いてある。舞台は千葉、東京、沖縄……何やら「市橋達也事件」を想起させるが、設定的に似ているだけで内容は全く別物。殺人の動機と「怒り」の内容も最後まで明かされず、ミステリー小説としてはやや肩透かしを食らった感もあるが(私は勝手に、高村薫の『冷血』のような犯人像を思い浮かべた)、それを補って余りある痛く切ない濃密な人間ドラマが描かれているのだから文句なし。
ちなみに『悪人』の映画監督・李相日は「何の涙なのか、自分でも全く分からない。ただどうしようもなく、誰かを心の底から信じてみたくなった」と泣き、『さよなら渓谷』の主演女優・真木よう子も「信じたい。信じられる自分でありたい。吉田修一という人は、どれだけ人間の喜怒哀楽を知っているんだろう」と絶賛……早くも映画化決定!? という感じで待ち遠しいが、それはともかく、ソーシャルメディア時代の広く浅い交流関係を見据え、「信頼」すべき存在を求めながら、身近な他者を信じきれない心の危うさに揺らぐ“ちっぽけな人間”の哀しみに寄り添い、今に相応しい情愛の物語に仕立て上げることのできる作家の力に感服。やや苦い読後感も妙に新鮮だった。

で、「原作・吉田修一」と言えば、この前WOWOWで観た映画『横道世之介』も良かった。(「この映画、いいなあ」「すっごい、好きだわ~」と見ている間も何度か呟いたくらい)
ずっと引き出しの中に仕舞っておきたくなる映画とでも言うのだろうか、他愛もない話なのに普遍的……変な感傷やナルシズムを感じさせることなく、こういう風に不意に胸に迫る「ノスタルジー」を醸し出せる優れモノには、なかなか出会えない。劇場公開時は、タイトルだけ頭に入れて軽く流した私だが、御見それしました「横道世之介」と頭を下げて星五つ。やはり映画でも「原作・吉田修一」は必見かも知れない。これからも注目!

0 件のコメント:

コメントを投稿