2014/03/31

「吉祥寺バウスシアター」閉館



明日から消費税が上がる。慌てて買いたい物もなかったし、まとめ買いも性に合わないので駆け込み需要とは無関係だが、はて「映画料金」はどうなるのだろう?

と少し気になりネットで確認したところ、大手映画会社、大手シネコンをはじめ多くの映画館で各種割引料金が100円増しになるとのこと。税率3%アップに対して10%アップとは解せないが、もともとサービス料金なので文句をつける道理はない。1100円で想像力を刺激し、非日常を味わえるなら安いものだとナットク。

で、その流れで観たい映画の上映館を調べていたら、「吉祥寺バウスシアター」が5月末で閉館、30年の歴史に幕を下ろすという“お知らせ”を見つけてびっくり(2月中旬に告知されていたようだが気付かなかった)。

確かに、いつ行っても空席が目立つし、建物の老朽化も進んでいる(そのレトロな感じも魅力だが)。正直、これでは経営的にも展望的にも厳しいだろうなあと思ってはいたが、まさかの閉館……比較的近場にある数少ないアート系の映画館でもあり、吉祥寺のシンボルのひとつだったので、とても残念だ。
「これで、吉祥寺に行く楽しみもあまりなくなるなあ…」と、「バウスシアター」→「伊勢屋」(で一杯)→「ハモニカ横丁」の私的ほろ酔い黄金コースの消滅を含めて寂しく思う

なおバウスシアターでは、426日から「THE LAST BAUS さよならバウスシアター、最後の宴」と題した特別興行を開催するそうだが、私はそのラスト・ランを楽しむ前に、できるだけ早期の「カムバック」を願いつつ、明日にでも上映中の『ネブラスカ』を観に行くつもり。(映画の帰り、井の頭公園で満開の桜を目に収めた後は、もちろん「伊勢屋」で花見酒…の予定)


32年続いた国民的お化け番組「笑っていいとも」が今日で終了。特に思い出はないが、生活の疲れも臭いも感じさせず、常にひょうひょうと笑みを浮かべながら番組を続けた「タモリ」の稀有なセンスと精神力・体力の凄さに改めて感心させられる。
「人生とは後悔するために過ごすもの」「自分がいかにくだらない人間であるかを思い知ることで、スーッと楽になれる」……そんな言葉にも敬意を込めて。

2014/03/27

「差別にノーと言おう」


巷ではそろそろ賞味期限切れの話題かもしれないが……

今月8日、埼玉スタジアムでのサッカーJ1「浦和レッズVSサガン鳥栖」戦において、ゴール裏に陣取る熱狂的な浦和サポーターが、コンコースのゲートに「JAPANESE ONLY」という差別的な横断幕を掲げた問題で(その横断幕の前方には旭日旗も掲げられていた)、Jリーグは浦和に無観客試合という厳しい処分を下し、23日、Jリーグ初の無観客試合が開催された。

観客のいないスタジアムでのプレーを強いられた選手たちには気の毒だったが、「Say no to racism(差別にノーと言おう)」をスローガンに掲げ差別撲滅を目指すFIFA(国際サッカー連盟)の方針に、事実上背く形でサポーターの意向を優先し、問題の横断幕を試合終了後まで掲示させ続けた浦和の企業責任は重大。Jリーグの処分は当然かつ妥当なものだったと思う。

で、今回の問題だが、果たして偶然に起こったことだろうか。

当初、横断幕を作成した3人は浦和の調査に対し、「ゴール裏は自分たちのエリア。応援の統率がとれないので、他の人たち、特に外国人が入って来るのは困る」などと説明、それを受け入れた浦和・淵田社長は「差別する意識はなかったと話している」とJリーグに報告していたそうだが、笑止千万。以前から、浦和レッズの一部熱狂的なサポーターが「嫌韓」であることは、浦和の選手とファン・サポーターはもちろん、Jリーグファンの間でも広く知られている事(ベガルタ仙台の梁勇基選手への差別発言、自クラブの李忠成選手に対するブーイング&侮辱発言など)、当該のクラブ関係者が(まして社長が)知らないはずはない。
そうした差別の火種があることを分かっていながら、事なかれ主義で対応を怠っていれば、今回のような事件が起きるのは必然(「JAPANESE ONLY」という言葉も、すべての外国人に対してではなく、出自が“特定の国”に関係している人に向けられたものであり、よりタチが悪い)。尚且つ、「無意識」を装うサポーターの言い分を丸呑みし、上っ面の体裁だけを保とうとするような事後処理をしていては、「浦和には、本気で差別主義を排除する気はない」と受け止められても仕方ない。記者会見で「クラブの危機」と淵田社長は語ったが、こういう企業体質でこの重大な危機を乗り越えられるのだろうか、と疑念は膨らむばかり。

また、日常的にネット上でのサッカー関連スレッドを通じてレイシズムの蔓延を目にしている人間から見れば、今回の事件はそれが表面化しただけのこと(最早、在日韓国・朝鮮人に対する差別発言はネット上の「娯楽」のようになっているのではないだろうか?)。ここが根絶されない限り、スタジアムや社会の様々な場所で差別問題が繰り返し起きるのだろうなあ……と、ウンザリしながら浦和レッズの将来とネット社会の未来に対して懐疑的にもなっていた。

が、そんな折、清水のゴトビ監督と浦和のペトロヴィッチ監督の示唆に富んだメッセージに触れ、こういう監督や差別的横断幕への抗議をいち早くツイッターで発信した浦和のDF槙野智章選手のような人たちがJリーグを支えている限り、二度と差別的表現やヘイトスピーチがスタジアムに持ち込まれるようなことはないはず。と、やや暗澹としていた気持ちを取り直した次第。
今後も二人にならって「差別を憎んで、人を憎まず」……日本のサッカーファンの一人として、その姿勢を忘れずに、ちっぽけな社会の片隅で「差別はNO!」と言い続けたいと思う。

以下、少し長いがその二人の監督のメッセージを紹介したい。(無観客試合後の記者会見より)

「差別・人種差別というものには、パスポートも何もなく、社会の病気だと思っています。それは、世代世代に移っていき、そして親から子へと伝染するものです。
我々にはこういった美しいゲームがあります。この美しいものには色がありません。全ての国際色を持っているものです。
スタジアムに誰もいない状況で戦うと、本当にスタジアムに魂が欠けているように感じます。サガン鳥栖戦の埼玉スタジアムで事件は起きました。私たちはサッカーから、差別・人種差別をなくしていかなければいけないと思っています。人と人には、違いがあり、だからこそ、世界というものが美しい場所であると思っています。
私がサッカーを始めた頃、サッカーボールは白と黒でした。今、我々が使っているボールには多くの色が使われています。エスパルスは、9カ国の違った国籍の人達がいるチームです。カナダ、韓国、スロベニア、オランダ、ドイツ、ブラジルなど。私については、自分がどこから来たのかさえ分かりません(笑)。日本が、「全てのものを受けいれるサッカー」を行っていければいいと思います。
私は日本に来て、3年と2ヶ月になります。本当に悲惨だった、東日本大震災を経験しました。日本はその時、世界と強く団結していました。それが真の日本だと思っております。私も含めて、外国人の人達は本当に日本を、そして日本人を愛しています。優しさ、礼儀ただしさ。それが日本の顔だと思っております。もしこの国で、そういったことに対して無知な人がいるならば、彼らを愛し、彼らに教えていきましょう。この先の将来というものは、そういった複数の色が、多様なものが重なっていく時代だと思います」(清水エスパルス・ゴトビ監督)

「差別問題に関してですが、そのことを語れるのはもしかしたら、私かもしれません。私自身は、37年間、ほぼ自分が生まれた所でない外国(オーストリア)で生活しています。もちろん、私が生まれ育ったユーゴスラビアという国はもう存在しません。
差別というものは残念ながらどこの国でもあります。オーストリアでは旧ユーゴスラビアの人々を快く思わない人もいるし、現役時代にプレーしたスロベニアやクロアチアでも差別的な態度を受けたことがあります。ただ、最終的には、私はどの国に行っても、そういった差別から勝利することができました。それは、なぜか。私は差別を受けながらも、差別した人間に対するリスペクトと愛情を忘れなかったからです。
クラブは今、厳しい状況に置かれていますが、どんな状況であっても、私は他者を愛し、リスペクトすることを忘れず生きて行こうと思っています。それが私の考え方であり、哲学であり、そういうものに対する向き合い方です」(浦和レッズ・ペトロヴィッチ監督)

2014/03/20

“ちっぽけな存在”を思い見つめる2冊



先週半ばから一気に気温が上がり、例年通り花粉とともに春到来……と思ったら、今日は冷たい雨が降り、寒い冬へ逆戻り(昨日の墓参りも、北風が吹いて寒かった)。
でも、目の痒みとショボショボ感&鼻の調子は相変わらずで、最近は天気の良し悪しに関係なく外出は控え気味。仕事も暇だし、どうしても、部屋で本を読んだりテレビ&レンタルDVDを見たりする時間が多くなる。

というわけで、かなりのスローペースでようやく読み終えた田中慎弥の長編小説『燃える家』に続き、先週末は吉田修一の『怒り』を一気読み

『燃える家』は、朝日新聞(書評)の言葉を借りれば《ちっぽけな存在の人間と、政治や神、天皇など世の中を動かす大きな力との対峙(たいじ)を描いた》作品……だが私的には、映画評論家・越川芳明が言っていた「現代版・源平合戦(体制をコントロールする者たちに挑み続ける「負け組」の物語)」という表現の方が小説の舞台とも合っていてシックリくる。(舞台となる赤間関は壇ノ浦の近く。全編を通して「諸行無常の響き」も感じる)
そうしたテーマ上の“重さ”に、600頁近い大長編の“分厚さ”が加わり、体力的にはかなり消耗したが(時折、気力も萎えかけた)、読み終えた後の気だるい充足感は久しく味わったことのないもの。見えない力に支配されながら、社会の片隅で世界の「無意味(=虚無)」と向き合いつつ、血縁という「意味」に縛られて生きる“ちっぽけな人間(私たち)”の生活と抵抗を、戦後日本の権力構造を見据えながら独特の視線で描き出す作家の並々ならぬ力量と思想的な“毒”、そしてマグマのように胸奥で滾る“血”を感じさせてくれる力作だと思う。(その長さゆえ、小説自体に多少の“息切れ感”があるのはやむなし)

もう一方の『怒り』は、ひとつの殺人事件を契機に展開される3つのストーリーが同時進行する群像劇。本の帯には《惨殺事件に残された「怒」の血文字。整形をして逃亡を続ける犯人・山神一也はどこにいるのか?》と書いてある。舞台は千葉、東京、沖縄……何やら「市橋達也事件」を想起させるが、設定的に似ているだけで内容は全く別物。殺人の動機と「怒り」の内容も最後まで明かされず、ミステリー小説としてはやや肩透かしを食らった感もあるが(私は勝手に、高村薫の『冷血』のような犯人像を思い浮かべた)、それを補って余りある痛く切ない濃密な人間ドラマが描かれているのだから文句なし。
ちなみに『悪人』の映画監督・李相日は「何の涙なのか、自分でも全く分からない。ただどうしようもなく、誰かを心の底から信じてみたくなった」と泣き、『さよなら渓谷』の主演女優・真木よう子も「信じたい。信じられる自分でありたい。吉田修一という人は、どれだけ人間の喜怒哀楽を知っているんだろう」と絶賛……早くも映画化決定!? という感じで待ち遠しいが、それはともかく、ソーシャルメディア時代の広く浅い交流関係を見据え、「信頼」すべき存在を求めながら、身近な他者を信じきれない心の危うさに揺らぐ“ちっぽけな人間”の哀しみに寄り添い、今に相応しい情愛の物語に仕立て上げることのできる作家の力に感服。やや苦い読後感も妙に新鮮だった。

で、「原作・吉田修一」と言えば、この前WOWOWで観た映画『横道世之介』も良かった。(「この映画、いいなあ」「すっごい、好きだわ~」と見ている間も何度か呟いたくらい)
ずっと引き出しの中に仕舞っておきたくなる映画とでも言うのだろうか、他愛もない話なのに普遍的……変な感傷やナルシズムを感じさせることなく、こういう風に不意に胸に迫る「ノスタルジー」を醸し出せる優れモノには、なかなか出会えない。劇場公開時は、タイトルだけ頭に入れて軽く流した私だが、御見それしました「横道世之介」と頭を下げて星五つ。やはり映画でも「原作・吉田修一」は必見かも知れない。これからも注目!

2014/03/11

3年目の春……『家路』を観て。



春は名のみの風の寒さや……早春賦の歌詞どおり、冷たい風が頬をさすように吹いていた昨日、“3.11を迎える前に”と決めていた映画『家路』を観てきた。(小屋は新宿ピカデリー)

「あの日を忘れまい」と思っていても、被災地から何百キロも離れている東京に住み、特に不自由もなく怠惰な時をやり過ごしていると、テレビでも映画でも何か震災につながるものを意識的に目に入れなければ、被災地・被災者の気持ちに寄り添うどころか、全身が震えたあの日の衝撃すら遠い記憶になってしまう。
「風化」とは、そんな私(たち)の無為な日々の一コマ一コマを言うのだろうか。「復興」は名ばかりで、まだ何も終わってはいないのに。

さて、『家路』……東日本大震災に伴う原発事故によって、先祖代々受け継いできた土地を失ってしまった一家の物語。継母・登美子(田中裕子)、妻の美佐(安藤サクラ)、娘と仮設住宅に暮らす長男の総一(内野聖陽)家族と、20年前に故郷を離れながら突然帰郷し、無人となった実家に住みはじめた次男の次郎(松山ケンイチ)の生活が、オール福島ロケによって対比的に描かれる。

メガホンを取ったのは、長年TVドキュメンタリーを中心に活躍してきた久保田直。撮影地である富岡町、川内村の美しい自然、その風景の中で黙々と鍬を振う次郎の姿を捉えるシーンは、ここが避難指示区域であることすら忘れさせるほど清々しく・神々しく印象的だ。(松山ケンイチは土の似合う役者だと思う)
その一方、閑散とした町の風景が映し出すのは人々の厳しい現実……土地も仕事も失い将来の見えない生活。狭い上に、生活音も筒抜けの仮設の暮らし。そんな日常の不条理を最も強く感じさせられたのは、痴呆の兆候が現れている登美子が、無機質な迷路のような仮設住宅の中で道に迷い、必死に孫の名を叫ぶシーン。その異様な切迫感に目を凝らしながら、悲しみなのか恐怖なのか、それとも怒りなのか、分けのわからない感情に襲われ背筋が寒くなってしまった。

3年目の春、この映画と出会えたことに感謝。そして、田中裕子と松山ケンイチに拍手。

エンドロール、Salyuの歌う「アイニユケル」が胸に沁みた。




2014/03/09

サティスファクション?!

6日(木)はザ・ローリング・ストーンズの最終公演を観に、東京ドームへ。(その前に、池袋の蕎麦屋「文右衛門」で腹ごしらえ&軽く一杯。かつ煮&じゃこ天をつまみに菊政のぬる燗をひっかけ、冷えたカラダを温めた)

最寄りの後楽園駅に着いたのは午後6時前(開演予定1830分)。お馴染み“ベロTシャツ”を着た人たちを横目に見ながら22ゲートからドームへ入る。席は11塁側 25通路161番(かなりステージに遠いとは言え、真正面!)……予定から30分遅れの午後7時、大音響&大歓声の中で待ちに待ったステージが開いた。

オープニングは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」。

家を出る前から「年甲斐もなく、はしゃいで、ジャンプしたりするのはやめよう」と心に決めていたが、いきなりの総立ち・大合唱……そんな熱狂の嵐に抗う術も気もなく、野暮な決心はあっさり撤回。♪ガス!ガス!ガス!と小さく叫び、軽く握った拳を天に突き上げた。

2曲目は、調子良さ気なキースのギターが自由奔放に唸る「ユー・ガット・ミー・ロッキング」。そして“たかがロックン・ロールじゃねえか”“でもオレはそいつが好きなんだ”の繰り返しが堪らない「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」、ミックのキレキレな動きに“スゲエ~”と声が漏れた「タンブリング・ダイス」と続き、5曲目は、ロックと酒で熱くなった胸に沁み渡る「ルビー・チューズデイ」。(衰えを知らないミックのパフォーマンスにシビレながら「彼にも、いつかこの世を去る時が来るのだろうか?」……と半ば本気で一人の人間の死を疑ってしまった)

で、7曲目「リスぺクタブル」の時、突然「トビキリノスペシャルゲスト、ホテイ!」とミックが叫び、「布袋寅泰」登場……会場には何とも言えない驚きの声と拍手が入り交り響き渡ったが、「えっ、ホテイ?なんでだよ!!」と思わず口走ったくらい、私的にはまったく嬉しくないサプライズに、テンション大幅ダウン。

別に布袋寅泰が好きとか嫌いとか言う問題ではなく、世界最高のロック・バンドの演奏に酔いたいこの夜に、この場に、ストーンズのファンにとっては無関係な日本のミュージシャンが出てきてはイカンでしょ!という感じ。しかも、キース・リチャーズとロン・ウッドに挟まれてギターセッション。さらにはセンターマイクを分け合ってミックと熱唱なんて、観ているコチラが恥ずかしくなるくらい恐れ多いパフォーマンスではないか(確かにギター・テクニックは一流。でも耳では納得できても、目と胸が捉えた違和感は拭えない)。その上、ゲスト布袋の影響により、もう一人のゲスト、ミック・テイラー(元ローリング・ストーンズのギタリスト)の参加曲が減ったというのだから、サプライズどころか悪夢としか言いようがない。(例え、スペシャルゲストが清志郎だったとしても、それはいけないルージュマジック……)

というわけで半端ない興醒め感を味わったが、「ホンキー・トンク・ウィメン」で多少回復。「ペイント・イット・ブラック」で完全回復。

以降、眩しすぎる照明に時折クラクラしながらも、ほぼ立ちっぱなしで、実年齢からは想像もできない凄まじいエネルギーと不変の輝きを放つ最高のステージを満喫。大盛り上がりの「サティスファクション」をラストに、ぶっ通し2時間超の夢(ライブ)が終わった。

そして今宵、平均年齢69歳のバンドが、ロックンロールの限界をさらに広げた熱い夜を思い出しながら、♪祭りのあとの淋しさは……とフォーク気分で一人酔い。

 

(以下、36日のセットリスト)

  1. Jumpin'Jack Flash
  2. You Got Me Rocking
  3. It's Only Rock'N'Roll (But I Like It)
  4. Tumbling Dice/ダイスをころがせ
  5. Ruby Tuesday
  6. Doom And Gloom
  7. Respectable (ファン投票による選曲:with special guest Hotai)
  8. Honky Tonk Women
  9. Slipping Away (with Keith on lead vocals, featuring Mick Taylor on guitar)
  10. Before They Make Run (with Keith on lead vocals)
  11. Midnight Rambler (with Mick Taylor on guitar)
  12. Miss You
  13. Paint It Black/黒くぬれ!
  14. Gimme Shelter
  15. Start Me Up
  16. Sympathy For The Devil/悪魔を憐れむ歌
  17. Brown Sugar

アンコール

  1. You Can't Always Get What You Want (with the Senzoku Freshman Singers)
  2. (I Can't Get No) Satisfaction

2014/03/01

生命力あふれる一本



先日、昨年末に亡くなった友人の奥様から、故人への思いがこもった丁寧なお手紙(自筆の会葬礼状)を頂いた。

その中には、「彼が果たせなかった分も、これからも映画観てくださいね!」という一文も添えられ、4枚(4作品)の映画鑑賞券が同封されていた。

映画好きの私に対する粋な「香典返し」だろうか……その温かい心遣いに謝意を込めた返書を送り、今週の水曜日(26日)、その内の一本『ダラス・バイヤーズクラブ』を観てきた。

上映館は都内で3カ所、私は、よく飲み会で利用する店がテナントとして入っている新宿NOWAビル地下1階の「新宿シネマカリテ」へ。
上映開始1310分、レディースデーということもあり、開始10分前で席はSOLD OUT……さすが話題のアカデミー賞候補作品、100席にも満たない小さな映画館とはいえ予想以上の入りだった。

私の座席の両サイドは、それぞれ20代と60代(勝手な見立て)の女性……別に若かろうがオバサンだろうがどうでもよいのだが、この二人、「何が、そんなに可笑しいの?」と聞きたくなるくらい実によく笑う(クスクスじゃなくゲラゲラ)。それも決まってR15っぽいシーンや下ネタ系で……。
まあ、ある意味“オ・ト・ナ”の二人なのだろうが、ソレ的な場面は軽く流して主人公の内面やドラマの本筋に集中したい私としては、かなり興醒めで鬱陶しい。 
どうせなら、主人公のロン(マシュー・マコノヒー)が、エイズで死んだ俳優ロック・ハドソンの事を「『北北西に進路を取れ』を見たことがないのか」と、仕事仲間に“知ったか”で教えるあたりで笑って貰えると、ナイス!なんだけど。(『北北西に進路を取れ』の主演は、往年の二枚目スター、ケーリー・グラント)
と、余計な事に気を取られ少し集中力を欠いてしまったが、斯様に笑えるシーンやセリフも多く、重い題材を扱っていながら、悲壮感や説教臭さとは無縁の心動く作品……

ロデオを愛し、酒に溺れ、コカインをキメてコール・ガールと戯れる。そんな刹那的で荒れた日々を送るテキサス男(カウボーイ)が、突然(ゲイでもない)自分がエイズで余命30日と診断されたことに激しく動揺(物語の舞台は、1985年のテキサス・ダラス。ゲイ=エイズという盲目的な偏見に満ちていた時代)、容体を改善する良薬のないことに憤りつつ自ら未承認薬を手に入れ捌き、挙句は無料で配布する組織「ダラス・バイヤーズクラブ」を立ち上げ、国と製薬会社に必死の戦いを挑む……という実話に基づいたドラマを、殊更盛った描写もない誠実なカメラワークで、無知ゆえの偏見に満ちた一人の男の成長のプロセスとしてスクリーンに浮かび上がらせる。

で、この映画の一番の魅力は、何と言っても役者陣のスキルの高さ。まず、21キロの減量を果たして難役に挑んだ主演のマシュー・マコノヒーが秀逸。絶えず渇いた咳をしながら、刻々と痩せ細っていく様をリアルに体現し、ただ“生きたい”という強い意思だけで、社会と病に中指を立てて戦い抜こうとする男の切実な苛立ちとユーモアを、全身で感じさせてくれた。
そして、主人公のロン同様にエイズを患い、互いに反目しながらもいつしか彼のビジネス・パートナーとなるトランスジェンダーのレイヨンを演じた「ジャレット・レト」の息を呑むような輝きと存在感。高貴な哀しみ……とでも言おうか、内面から湧き出す優雅な美しさと眼差しで自身と他者の痛みを宥めながら、寛容で孤独なマイノリティを見事に演じていた。

映画は、ロンの生き様を象徴するように、彼が暴れる牛の背に跨り巧みに乗りこなすロデオシーンで終わる。必死に社会に抗い、まるでロデオのように、微かな希望にしがみつく人生……まさに生命力にあふれた一本ここにあり。(余命30日の宣告から7年後、ロン・ウッドルーフはエイズによる合併症でこの世を去ったそうだ)

※作品賞は『ゼロ・グラビティ』『キャプテン・フィリップス』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』以外、未だ他の候補作を観ていないので何とも言えないが(4本の中では、断トツで『ダラス・バイヤーズクラブ』)、アカデミー主演男優賞・助演男優賞は、ぜひ二人に!