2013/12/19

無思考という「悪」――映画『ハンナ・アーレント』を観て。


《今年になって目立ったのは、様々な社会的「弱者」がバッシングを受けたこと、「従軍慰安婦は戦争につきもの」という政治家や、「子どもが生まれたら会社を辞めろ」という女性評論家が現れたこと、そして、新しい政権が、強硬な政策を次々と打ち出し、対話ではなく力でその政策の実現を図ろうとしていることだった。さらに不思議なのは、力を誇示する政治家たちが、同時に力とはおよそ正反対な「愛(国心)」ということばを叫ぶことだった。誤解を恐れずにいうなら、わたしには、この国の政治が、パートナーに暴力をふるう、いわゆるDV(ドメスティック・バイオレンス)の加害者に酷似しつつあるように思える。彼らは、パートナーを「力」で支配し、経済的な自立を邪魔し、それにもかかわらず自らを「愛する」よう命令するのである》
と、今朝の朝日新聞で(論壇自評)、高橋源一郎さんが述べていたが、けだし同感。この先、ますます右に傾きながら「DV国家」は何処へ向かっていくのだろう。

 
さて、話は変わって、2週間以上前に「岩波ホール」で観た映画『ハンナ・アーレント』(監督マルガレーテ・フォン・トロッタ)……

高名な哲学者から一転、世界中から激しい非難を浴びた女性ハンナ・アーレント。あの“知の巨人”松岡正剛が「思考するヴァイタリティ」とまで呼んだ、彼女の思考の核と複雑な魅力に迫った力作だ。(冒頭からラストまで、煙草を手放すことなく思索するアーレントの姿が、実に魅力的)
なので、アーレントの著作を一冊も読んだことがない。尚且つ彼女が哲学者であることすら知らなかった人には(わたしのように…)、少々敷居が高い映画のように思われるかも知れないが、そんなことはない。日頃から政治や社会問題に関して拙いながらも思考を重ねている映画好きの人なら、十分に理解&共感できる作品であり、人によっては胸が震えるほどの感動を得ることができるはず。(わたしのように…)

 で、どのような内容かと言うと……

主人公「ハンナ・アーレント」は、第二次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人。
映画は、ナチス親衛隊で何百万のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者アドルフ・アイヒマンが、1960年、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報部(モサド)に逮捕された場面から始まる。
当時、ニューヨークに住んでいたハンナ・アーレントは、アイヒマンの裁判の傍聴を熱望、「ザ・ニューヨーカー」誌にそのレポートを書きたいともちかける。著書『全体主義の起原』で既に名声を得ていたアーレントの要望は、即座に受け入れられ、1961年、彼女はイスラエルに向かう。

その地で、ユダヤ人にとって冷酷非情な怪物のような存在であった人物の歴史的裁判が始まるのだが……そこで見たアイヒマンの姿は、ごく普通の、というか虚ろな表情をした線の細いさえない男(映画の中でも実際の裁判映像が流れる)。
その答弁も一貫して、「忠実に仕事をこなす」とナチス親衛隊入隊時に誓った言葉通り「上から与えられた指示通りに、何百万というユダヤ人を強制収容所に移送すること。それに異を唱えることも、良心の呵責を感じることも、その行為が良いことかどうか考えることも、一切しなかった」というもので、原告側が、実際に強制収容所に収容された人や家族・親族・友人を虐殺され悲嘆と怒りに震える人々を証人として揃え〈非人道的(な怪物)〉だと、感情的にアイヒマンを糾弾し攻めたてても、論理的に彼を断罪できず“暖簾に腕押し”状態。だが、アーレントだけは、その凡庸な姿にアイヒマンの罪と悪の深さを見ていた。
「善悪を判断することなく、思考を停止し、ただ命令に従った」こと、その「無思考性」によって引き起こされた「悪の陳腐さ」こそ、彼の責められるべきところではないかと。

そして、《アイヒマンは凶悪な怪物ではなく、上官の命令を黙々と遂行する凡庸な官吏のごとき存在にすぎない。その思考する能力の欠如こそが未曾有のホロコーストを引き起こした》という論旨の長編レポートが、一部のユダヤ人指導者たちがナチスに協力していたという汚点も含め、「ザ・ニューヨーカー」に5回に渡って発表される。
だが、「アイヒマンは命令に従っただけで反ユダヤではない」というアーレントの主張に、ユダヤ人社会は「アイヒマン擁護だ!」と激怒、彼女は「非ユダヤ人」として一斉に叩かれ、客員教授を務めていた大学からも辞職勧告を受ける……(わたしには、このアーレントの姿が、地下鉄サリン事件の際に「オウムの擁護者」と非難を浴びた、亡き吉本隆明さんとダブっても見えた)
映画は、それでも断固として主張を曲げなかったアーレントの、存在をかけた魂のスピーチでラストを迎えるのだが、その気迫に満ちた一言一句は、まさに感動モノ。時代と民族を超えて、明日を生きる人々の胸に、カーンカーンと強く高く響き渡る警鐘のように聞こえた。
《“思考の嵐”がもたらすものは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう》

以上、かなり長い「あらまし」になってしまったが、今日の〆に私が最もシビレた所を紹介……

 映画の終盤、家族同然の付き合いをしていた友人クルト(ユダヤ国家再建を願うシオニスト)が、アーレントを激しく詰問し、彼女がそれに答える場面。

クルト  「イスラエルへの愛は? 同胞に愛は無いのか? もう君とは笑えない」
アーレント  「一つの民族を愛したことはないわ。ユダヤ人を愛せと? 私が愛すのは友人、
                  それが唯一の愛情よ」……「クルト、愛してるわ」
 
もう、一気に鳥肌。「DV国家」が強要する「愛(国心)」など、クソくらえ!

0 件のコメント:

コメントを投稿