80歳を超えてなお映画界をリードする巨匠クリント・イーストウッドの新作は、FBI初代長官ジョン・エドガー・フーバーの半生をレオナルド・ディカプリオとの初タッグで描く『J・エドガー』。アメリカの正義を偏執的に信じた権力者の功罪の物語だ。
その“功”は、指紋採取、筆跡鑑定、捜査情報のデータ化など科学的捜査手法の導入によって、現在の犯罪捜査の基礎を築いたこと。そして“罪”は、圧倒的な権力と情報収集力(盗聴など)で政治家・活動家の言動を監視、“秘密ファイル”の存在をちらつかせながら、ジョン・F・ケネディを始め時の大統領を従えるまでのアンタッチャブルな存在にのし上がったこと(賭博好きでマフィアとの関係も取りざたされた)。
だが、この映画はそれらの“功罪”を仔細に取り上げ、その評価を観客に委ねるような実録劇ではない。これまでの作品同様、イーストウッドが描くのは人間そのもの。常に自分を優位に置き、他者を抑圧する強引な正義を断行する権力者の心の闇に迫りながら、リンドバーグ愛児誘拐事件、レッド・パージなど20世紀の象徴的な出来事を通じて、アメリカ近代史の光と影を巧みに浮かび上がらせてゆく……
というわけで、観ているコチラの視点は、一人の複雑怪奇な人物の興味深い人間ドラマから、いつの間にかアメリカという国の“正義”とは何か? という現在的な疑問に向けられていくようだった。恐らく、イーストウッドの鋭い眼差しの先では、現代アメリカの強迫観念にも似た危うい政治状況が、強烈なコンプレックスと孤独を抱える“正義と愛国の権力者”の姿と重なり合って見えているのだろう。
そういう意味で『J・エドガー』は、イーストウッドの深い人間洞察力と同時に、正義を標榜する国家に対し警鐘を鳴らし続ける“愛国者”としての視線を強く感じさせる映画でもある。もちろんその愛国心は、イラク戦争へ突き進んだアメリカの“似非正義”を一貫して許さない姿勢に象徴されるように、頭の壊れた政治家が強いる愛国心や過剰な国家礼讃とは全く異質なもの。個人の自由と平等を何よりも重んじ、自らの恥部をも暴き堂々と批判しうる精神を尊ぶ風土への熱い思いに他ならない。
私はいかなる国の正義も信じない人間だが、ささやかな愛国心を持つ一人の映画ファンとして、敬愛するイーストウッドの精神の行き先と、彼が描く「愛と正義」の人間ドラマをこれからも見つめ続けたいと思う。
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