2014/07/12

最近のあれこれ③「普通の国」



14日早朝に行われるW杯決勝は、ドイツ対アルゼンチン……これまでの試合を見ると、どう考えてもドイツが有利に思えるが、地の利はアルゼンチンにあるだろうし、結果はどう転ぶか分からない。ただ個人的には、相手の長所を消す「破壊的サッカー」(&メッシの個人技)で勝ち上がってきたアルゼンチンより、堅守(GKノイアーの圧倒的存在感!)をベースに、フィジカルの強さ+技術・スピードで中盤を制してきたドイツの攻撃的サッカーの勝利を期待!(でも、注目は「メッシ」!)

さて、本題……

最近とみに気になるフレーズ「普通の国(になりたい)」。「積極的平和主義」の名のもとに、「集団的自衛権」の行使容認に踏み切った安倍政権の政治的衝動を表す言葉だが、その意味がイマイチよく分からない。(集団的自衛権=普通の国、というのでは、それぞれの国の成り立ちや歴史を無視した、余りに短絡的な定義づけではないだろうか?)
だが、日本が「普通の国」になることへの警戒感が中国・韓国はもとより、欧米メディアでも示されているようだし、「普通の国」になるために、憲法9条を変えて海外に軍隊を派兵できるようにしようというわけだから、分からないまま放っておくわけにもいかない。

で、そもそも「普通の国」というのは、この世界にあるのだろうか?というあたりから考えてみようと思っていた矢先、メールボックスを開いたら運よくこんなナットクの一文に出会った(JMM配信)。

その中で、米国ニュージャージー州在住の作家・冷泉彰彦氏は、こう述べている。
《例えばアメリカの場合は、英国の植民地であったものが、本国の徴税権に反旗を翻す中で、独立へ向けた戦争を戦うという「異常な経緯」によって生まれた国であるわけです。また、その歴史にしても分裂あり、孤立主義あり、また二回の世界大戦で、特に終わり方に関して主要な役割を演じたり、冷戦の一方の当事者、そして世界の警察官や反テロ戦争の当事者など、異常なことだらけであり、とても普通の国とは言えません》
《英国にしても、第一次産業革命で先行したことから、強大な海軍力を背景に世界にまたがる帝国を構築したものの、以降の技術革新には敗北して、帝国としては縮小の一途を辿った奇妙な国ですし、フランスなどは、共和制と帝政、保守政体とリベラルな政体などに揺れ動く大変にユニークな国であると言えます》
《安保理常任理事国の残りの2カ国に至っては、ロシアは途上国型半独裁、中国は共産主義をタテマエとした史上空前の規模の途上国型独裁という、これまた異常な政体であるわけです。そう考えると、世界の国々というのは、どれも大変に「クセのある歴史」を持っており、その「国体=国のかたち」にしても、どれ一つとして「普通の国」などというものはないと考えられます》

なあ~んだ、やっぱり「普通の国」なんてものは何処にも無いじゃん!……と、胸のつかえが少し下りた途端、再び疑問が沸きあがる。では、何故「目指すべき普通の国」などという概念が実在しないにも関わらず、日本には「普通の国にしたい」などという政治家たちが多くいて、その願望の象徴でもある「集団的自衛権」をめぐって言葉遊びのような議論が長々と続けられるのだろう。

それに関して、冷泉氏は《日本が「特殊な国」であるからだ》と端的に言い切る。

《日本の特殊性というのは、世界に類例を見ない「2つの特殊性」が拮抗しているという構造にあります。1つは、「枢軸国という国のかたち」を継承している、もしくは継承したいという政治的求心力があり、その政治的求心力が現在の政権を成立させているという特殊性です。そのような国家は、世界に全く例を見ません。
そう申し上げると、「いやいや、東京裁判史観に反対するのも、南京入城時の一件も、慰安婦問題も、心情的に納得がいかないから反発しているだけであり、戦後世界全体に反旗を翻すほどの大胆な意図はない」という弁解が来るのかもしれません。「せめて、国に殉じた人々の純粋性に自己を投影して、その名誉回復を企図するぐらいのことは許して欲しい。別に誰に迷惑をかけるわけでもない」そんなところかもしれません。
ですが、世界からはそうは見えないのです。それは、日本という国は「枢軸国の国体を護持してしまった」という特殊な歴史的経緯のある国だからです》

第三帝国という「国のかたち」の残像を、分断による長い苦しみ、自国通貨の放棄と運命共同体形成(EU)、一方的な譲歩による完全な国境線確定などの厳しい条件の甘受を経て、「旧枢軸国」としての「国際社会からの警戒感」を完全に消すことが出来た「ドイツ」。そして独裁者ムッソリーニを倒して連合国に降伏した以降、対独・対日宣戦を行うことで、事実上の連合国側として大戦末期を戦った「イタリア」と比較して、「三国同盟」の一員ながら、ドイツ、イタリアが降伏した後も、単独で連合国と戦い続けた日本の事情は大きく異なるというわけだ。

そして、その特殊性は、敗戦国日本を軍政下におきながら、事実上は間接統治し日本の法規が機能するという形をとったアメリカの判断《「冷戦が深刻化する時代状況にあって、西側の自由陣営に日本を留めておくために、旧枢軸的な国体の徹底的な解体をしなかった」》によってもたらされたものだと説く。
さらに《このことは、日本に取っては危険な状況でした。一歩間違えば、戦後の国際社会において「唯一残存した枢軸国」であるとして、孤立する危険があったからです。ですが、その危険は現実のものとはなりませんでした。それは戦後の日本が「枢軸的なものを全面解体されなかった」という日本の「特殊性」をよく認識しており、これをある意味では弱点だという認識を密かに持つことで、「全方位外交、平和主義」を徹底してきたからです》
と続け、現在の「普通の国になりたい」という政治的衝動は、この前提を無視して「枢軸国日本の名誉」があたかも「現在の日本人の名誉」であるかのような心情を流布させる中で、戦後の日本が細心の注意を払って回避してきた「日本は枢軸国である」という名指しによる孤立の危険性を増大させていると警告を発している。

《これは大変に異常なことであり、こうした姿勢が続く限り日本は「特殊性」を増すばかりであって、その先には孤立の危険が待っているように思います。
歴代の「保守政権」はこの点の危機意識は持っていたと思います。ですが、現在の自民党政権の政治的求心力の中には「枢軸国の名誉回復」というストーリーが深く埋め込まれてしまっていて、もう清算はできなくなっています。そこで、アメリカに対して、例えば日本には直接関係のない中東での軍事行動に参加して犠牲を出すことで、「バーター取引として」東アジアの軍事バランスの一角を担ってもらうということを志向しているように思います。
つまり、中国との摩擦において日本が前面に出る、あるいは単独で当たるようなことになれば、中国サイドは「枢軸国が来た」ということで、士気も高まるでしょうし、国際世論を味方につけることも容易になります。これを避けるために、米軍の存在は日本の安全保障には欠かせないというわけです》

迫りくる「孤立の危険」の一方で、「反日」を煽るばかりの中韓の指導者たちの思考硬直ぶりも気になるご時世(何処もかしこも政治家はロクなもんじゃない)、何だか余計に頭が痛くなる話だが、その「特殊性」を踏まえて、冷泉氏が挙げる「2番目の特殊性」、「一国平和主義」に関して、さらに彼の卓見に耳を傾けてみたい。

《例えば今回の集団的自衛権論議に際して、「日本が関係のない戦争に巻き込まれる」という懸念が多く語られました。ですが、「巻き込まれる」という受身形の認識は誤りであると思います。一つには「第1の特殊性」の側、つまり「親米保守」の政権は、「日本とは関係のない」ところで犠牲を払って、東アジアの軍事バランスに米国がコストを負担してくれることとの「バーター」にしたい、そのためには、「日本と関係のない戦争に巻き込まれたい」と思っているからです。
ですから、この問題は国内問題であり、堂々と「親米保守」の危険性を批判すれば良いのですが、それを「巻き込まれるのは怖い」などとトンチンカンな恐怖心を表明しているということが、まず「大変に特殊」です。
また、「日本が戦争に巻き込まれるとテロの標的にされる」という批判もありましたが、これも極めて視野狭窄であると思います。日本は資源のない中、エネルギー政策の迷走により極端なまでに化石エネルギーに依存した状況にあります。ですから、中東で大規模な紛争が起きること自体が国益には反します。また、産油国の一部と敵対することも回避しなくてはなりません。
更には、日本はユダヤ教の国でも、キリスト教の国でもないわけで、カルチャー的にはイスラム圏と敵対する理由はありません。また、労働人口激減という問題を考えると、インドネシア、マレーシア、パキスタン、バングラディッシュといった東南アジア、南アジアの諸国との関係は良好に保っていかねばならない宿命にあるわけです。そんな中、まるで日本がどんどん中東で軍事活動をして、イスラム原理主義の憎悪のターゲットになるというような話は、極めて非現実的です。
つまり、この「一国平和主義」というのは、純粋な感情論であり、それが大きな影響力を持つことで、かえって「第1の特殊性」つまり、枢軸国の名誉回復を企図しながら軍事的な活動を拡大しようとする立場を「追い込み、居直らせて」しまっているという構図があると思います》
《こうした2つの特殊性、つまり戦後秩序に挑戦するかのように「枢軸国の名誉」を追求し、そのために東アジアで孤立する危険性を米軍のプレゼンスで守ってもらい、その米軍との貸し借りの清算のために「関係のない戦闘に巻き込まれたい」と考える、「親米保守」という危険な「特殊性」があり、これに対しては「あらゆる軍事的なものには嫌悪感を持ち、外からやって来る危険へは恐怖心で反応する」という「一国平和主義」という「特殊性」が拮抗しているわけです。
そのバランスの中に、日本の現在の「国のかたち」があるとしたら、それは国際社会の中では極めて特殊な国であると思います。現在の日本は、普通の国に向かっているのではなく、より特殊性を強めている、そう考えるべきだと思うのです》

……侵略戦争はもとより、革命戦争も自衛と名乗る戦争も、全て悪であり、如何なる戦争にも双方の勝手な言い分があるだけで「正義はない」と思っている私も、論理矛盾を抱えつつ心情的に「一国平和主義」寄りだったが、それが安倍政権の暴走を助長し居直らせている大きな要因になっているという話なわけで、心おだやかではいられない。

さて、そんな風に論点が不明確かつ噛み合わないまま「保守」「リベラル」という単純なくくりの中での「心情的対立」という構図が浮き彫りになり、ますます特殊性を強めているように見える日本を「普通」にするには、どうしたらいいの?という感じだが、最後に、彼は一つの方向性を示唆している。

《一つ大きな問題があるとしたら、経済合理性という原則を持っているはずの経済界が、沈黙したままであるということです。依然として世界から資源を調達し、世界に販路を見出す構造を日本経済は持っているわけで、政治的・軍事的に日本が孤立することは経済界には決定的なダメージになるはずです。
にも関わらず経済界が、こうした問題に沈黙を守っているのは、政権与党の創りだす「官需」との構造的な癒着構造があるからだと思います。これは、途上国型独裁の構造そのものです。もっとも、日本の場合は人口も経済も縮小の危機に直面しているわけで、途上国型というよりも縮小途上型経済ということになると思いますが、生存への恐怖の中で「官需」にしがみつく構図としては、左右対称形であると言えるでしょう。
本来でしたら、経済界が改めてグローバルな世界へ向かって出て行くことで、日本が国際的に孤立しない方向性が国家的な合意となり、またそうした経済活動に成果が出ることで、社会的な不安感も払拭される、その中で「枢軸の名誉にしがみつく」とか「外から来る危険に対して身をひそめる」といった不合理な感情論が消えていくことが望ましいのだと思います。日本が「普通」になるとしたら、その方向性ではないでしょうか?》

う~ん、ますます難しい話になってきた。とても私には手に負えない。が、とりあえずお互い「感情論」からは脱却しないと……ね。(でも、戦争は絶対にダメ!)

 

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