「人間にはすべての行為が許されている。でも、それは何も許されていないということと同義なのだよ」と、意味不明なことをしかつめらしく語る友人に薦められて、ドストエフスキーの大長編『カラマーゾフの兄弟』を読んだのは、19才の頃だったと思う。(後で気づいたが、その友人の言葉は、無神論者である次男イヴァンのセリフ「神がいなければ、すべてが許される」が“ネタ元”だった)
今となっては物語のあらすじもよく覚えていないが、ロシアの広大な大地のイメージと小説のスケール、そして、全編に漂う強烈なニヒリズムに圧倒され、自分の存在すら不可解かつ無意味に思えるほど、激しく心が揺れたことは強く記憶に残っている。
そんな昔を思い出しながら、渋谷アップリンクで観た映画『ドストエフスキーと愛に生きる』……原題は『THE WOMAN WITH THE FIVE ELEHANTS』(五頭の象と生きる女)。
そんな昔を思い出しながら、渋谷アップリンクで観た映画『ドストエフスキーと愛に生きる』……原題は『THE WOMAN WITH THE FIVE ELEHANTS』(五頭の象と生きる女)。
40年にわたって、ロシア文学のドイツ語翻訳に心血を注いだ女性、スヴェトラーナ・ガイヤーさん(撮影時84歳、2010年87歳でこの世を去った)の数奇な半生を追ったドキュメンタリーだ。(彼女が呼ぶ“五頭の象”とは、ドストエフスキーの長編5作「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「白痴」「未成年」「悪霊」のこと)
1923年、ウクライナのキエフで生まれた彼女は、スターリン政権下の1930年代に多感な少女時代を過ごした。1937年、父親はいわゆる“大粛清”によって逮捕、1年半の獄中生活を経て奇跡的に解放されるが、1939年、獄中で受けた拷問の後遺症によって亡くなる。「人民の敵」とされた家族に将来の望みはなく、15歳のスヴェトラーナに、母親は“将来のために”と外国語の習得を勧め、彼女は敵性語であるドイツ語を学ぶ。そして、独ソ戦勃発からまもなくウクライナはドイツナチスの占領下に……期せずしてスヴェトラーナの語学的能力はすぐにゲシュタポの目に留まり、ドイツ軍の軍人の下で働くことになる。その後、ドイツ軍がスターリングラードでの戦いに敗れキエフを撤退、ソ連軍のウクライナ侵攻が予測される中、スヴェトラーナはドイツ軍への戦争協力の追及を恐れる母とともにウクライナを去ることを決意し、ドイツ・ドルトムントへ。
ドルトムントでは、東部出身者向けの捕虜収容所の実習生として働いていたが、ドイツ人の篤志家の助力で異例のフンボルト奨学金を得ると同時に、母親共々外国人在留パスポートが交付され、二人はドイツ南西部のフライブルクへ移る。戦後、フライブルク大学でドイツ学と比較言語学を学び、その地でクリストムント・ガイヤーと結婚するも10数年後に離婚。翻訳と教職で生計を立てながら二人の子どもを育て、1992年にドストエフスキーの5大巨編の翻訳を開始。以来、それをライフワークとして生き続けた。
映画は、ドイツの小都市の郊外で、自分の審美眼にかなった調度品に囲まれて静かに暮らすスヴェトラーナの日常をスケッチし、ナレーションと彼女自身の回想で、その人生を綴る。
クライマックスとなるのは、65年ぶりのキエフ帰還……孫娘と訪れた故郷ウクライナ、キエフへの旅が、ロードムービーさながら、暗鬱なトーンで詩情豊かに描かれていく。
その旅程で、スヴェトラーナは「少女時代に飲んだ井戸の水を、死ぬまでにもう一度飲みたい」と言う。それが、ただ一つの願いだと。しかし、故郷の人々に尋ね歩いても井戸は見つからず、異邦人を見るような冷ややかな視線を背に、その足でスターリン時代に死んだ父の墓に向かう。
「私には負い目がある」と映画の冒頭で語った「故郷喪失者」の計り知れない孤独と寂寥感……その姿、そして思考の深さを物語る知的な表情に見入りながら、私はふと、彼女が“誰かに似ている”と思った。が、「誰だろう?」と考える間もなく気が付いた。そうだ、オシムさんだ。
もちろん、元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムは男性だが、豊かな才能と感性を持つ人に過酷な人生がもたらした精神の奥行、戦争や紛争の記憶が深い皺となって刻まれている顏、そして深く美しい箴言の数々を紡ぎだす無償の魂の在処は、確かに似ている。(それぞれの生涯の仕事、サッカーと文学への深い愛情も同じ)
クライマックスとなるのは、65年ぶりのキエフ帰還……孫娘と訪れた故郷ウクライナ、キエフへの旅が、ロードムービーさながら、暗鬱なトーンで詩情豊かに描かれていく。
その旅程で、スヴェトラーナは「少女時代に飲んだ井戸の水を、死ぬまでにもう一度飲みたい」と言う。それが、ただ一つの願いだと。しかし、故郷の人々に尋ね歩いても井戸は見つからず、異邦人を見るような冷ややかな視線を背に、その足でスターリン時代に死んだ父の墓に向かう。
「私には負い目がある」と映画の冒頭で語った「故郷喪失者」の計り知れない孤独と寂寥感……その姿、そして思考の深さを物語る知的な表情に見入りながら、私はふと、彼女が“誰かに似ている”と思った。が、「誰だろう?」と考える間もなく気が付いた。そうだ、オシムさんだ。
もちろん、元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムは男性だが、豊かな才能と感性を持つ人に過酷な人生がもたらした精神の奥行、戦争や紛争の記憶が深い皺となって刻まれている顏、そして深く美しい箴言の数々を紡ぎだす無償の魂の在処は、確かに似ている。(それぞれの生涯の仕事、サッカーと文学への深い愛情も同じ)
そんなことを思いながら観ていると、カメラはウクライナの中学校(高校?)へ……名翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの話を聞きに教室に集まった子どもたちに、彼女は『豊かなエレミア』というロシア童謡の一節《エレミアが魚を捕まえると、魚は彼に話しかけた。彼は言葉を理解し、魚の助言で冒険の旅に出る。その結果、皇帝の娘の心を射止め、彼自身が皇帝になる》を紹介しながら、こう呼びかける。
「きっと貴方たちも、人生の中で、いつか言葉を話しかける魚に出会うはず。その言葉は、必ず理解できます。自然や科学の法則は関係ありません。だから勇気を出して、内なる声に従うこと。たとえそれが、世の中を支配している多くの者たちの声に逆らうことになったとしても」
「きっと貴方たちも、人生の中で、いつか言葉を話しかける魚に出会うはず。その言葉は、必ず理解できます。自然や科学の法則は関係ありません。だから勇気を出して、内なる声に従うこと。たとえそれが、世の中を支配している多くの者たちの声に逆らうことになったとしても」
私はその言葉を聞きながら、何故か、2011年11月に、プータン国王が福島の小学校で子供たちに語った「心の中に棲む龍の話」を思い出していた。
ということで、一人の女性の厳しい人生と深く静かな言語の世界に触れる作品。ぜひ、ご覧あれ。(今年も、ドキュメンタリーの当たり年かも!?)
以下、映画の中で語られるスヴェトラーナ・ガイヤーの美しい言葉たち。
ドストエフスキーの文章は宝探しのよう。
二度、三度と読んで
初めて見つかるような宝石が、
目立たない場所に隠されているから。
すでに訳したことがあっても、訳しきれない。
それこそが、おそらく最高の価値を持った
文章である証拠です。
二度、三度と読んで
初めて見つかるような宝石が、
目立たない場所に隠されているから。
すでに訳したことがあっても、訳しきれない。
それこそが、おそらく最高の価値を持った
文章である証拠です。
翻訳は常に全体から生まれるものです。
全体を見て、愛さなければ、
一つ一つを理解出来ない。
文章の全体を、自分の中に取り込む。
ドイツ語では“内面化する”と言います。
文章を自分の内側に取り込んで、
心と一体化するのです。
全体を見て、愛さなければ、
一つ一つを理解出来ない。
文章の全体を、自分の中に取り込む。
ドイツ語では“内面化する”と言います。
文章を自分の内側に取り込んで、
心と一体化するのです。
人はなぜ翻訳するのか?
きっと逃れ去ってゆくものへの
憧れかもしれない。
手の届かぬオリジナルを…
究極の本質を求めること
途方もない言葉ね
「憧れ」
何て素敵な言葉かしら。
きっと逃れ去ってゆくものへの
憧れかもしれない。
手の届かぬオリジナルを…
究極の本質を求めること
途方もない言葉ね
「憧れ」
何て素敵な言葉かしら。
※映画撮影中、息子ヨハネスが交通事故の後遺症により死去。その3年後、スヴェトラーナ・ガイヤーは87年の生涯を閉じた。
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