2013/06/11

気ままな日常に戻って。(+読書)



14歳から70歳まで、この1ヶ月半の間にインタビュー取材した人の数は10人。編集系のライターならよくあることだと思うが、私的にはこれほど短期間に別々の案件で10人もの人たちにインタビューすることなど滅多にない話。
そもそも、人の話を聞くより、人を押しのけて話すような煩い男に、なんで?と思うが、不遇のコピーライター(?)を気遣ってくれたクライアントの配慮の中に、「たまには人に心地よく喋っていただくような気配りをせよ」という有難い忠告が含まれていたのかもしれない。

その“慣れない気配り”の所為か、未だに首・肩・背中がパンパンに張っていて、一向に身体の疲れは抜けないが、ともかく厳しくも充実した“激アツ”仕事状況は何のトラブルもなくスムーズに収束。また今週から予定の見えない気ままで不安定な日常が戻ってきた。

というわけで、映画も本も解禁……早速、2日かけて村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み終えた。(本当は30ページほど読んだ所で、「もう、いいかも」と思ってしまったが)

作品のテーマは「喪失と回復」(のようだ)。物語の背景にサリン事件や大震災があるようだが、全体的な筋立ては多少ミステリアスな部分を含んだ甘美な青春小説のようで、「1Q84」で味わったゾクゾクするような圧迫感・緊張感に欠け、そのシリアスなイメージはあまり重ならない(敢えて抑えているのかもしれないが)。そのかわり、音楽、ファッション、宗教、酒、食べ物など、作品のディテール表現は食傷気味になるほど綿密で、本筋の奥行きが掴みづらく、個人的には、ちょっと付き合いにくい小説といった感じ。

とりわけ、リアリティのない会話、背中が痒くなるような比喩表現に辟易……「孤独」は、いつからこんなにオシャレで饒舌なものになったのか?と、少しイラッとしたほどだ。
しかも、死と背中合わせの「喪失感」を抱えながら、大した苦労もせずに魅力的な女性と関係が持てるという羨ましいほどの「孤独」なので、疲れたオヤジが感情移入のしようもない。(もう、この時点で“いい読者”の資格なし)
さらに、“「嫉妬」とは、世界で最も絶望的な牢獄”とか、時折つぶやかれる哲学的アフォリズムも大仰過ぎて頭の隅で砕け散るのみ。逆にイメージの拡がりを妨げられ「喪失感」の深さも推し測れない……で、現在付き合っている女性を手放さないことが「自己回復」の鍵、という「傷んだ精神の処方箋は恋愛」的な結末も気に入らず、何のカタルシスも味わえないまま半分シラケ状態で読了。

まあ、その“付き合いにくさ”を、巷の評のように「若い世代を見守る優しい大人のまなざし」とか「生きづらさを感じる若者たちへのエール」と捉えれば、無理やり頷けなくもないが、失いつつある「色」を辛うじて胸奥に塗りこみながら斜めに生きている中年男子が、そんな“レトリックに長けた良識文化人”のような村上春樹を読みたいわけではない。(最近は政治や社会問題への発言も目立つし、反核・反原発運動に熱心なあまり肝心の小説がつまらなくなったノーベル文学賞作家のようになってしまわないか?と余計な心配もしてしまう)

斯くしてこの本は、私にとって、「サヨナラ、村上春樹」のきっかけになるかもしれない一冊となった。





0 件のコメント:

コメントを投稿