あの日の後、政治家は声高に自らの「正当性」を主張し、作家は小声で「正しさ」についてつぶやく……どちらが私たちにとって本当に必要な言葉なのだろうか。
昨日、作家・高橋源一郎の『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』を読み終えた。
この本は、彼が3.11以降にTwitterでつぶやいたものと、その間に発表した文章を時系列で並べて纏め上げたものだが、特に印象深かったのは、明治学院大学国際学部の先生として、卒業する教え子たちに向けて発信した言葉の数々。
ここで書き出すとあまりにも長くなるので詳しく紹介はできないが、《「午前0時の小説ラジオ・震災篇」・「祝辞」・「正しさ」について》と題された2011年3月21日の“つぶやき群”は、その圧倒的な意思の強さと、しなやかな思考力によって研磨された平易な言葉の力によって、よくも悪しくもはっきりと読者に「あの日の日本」と「あの時の自分」を思い起こさせてくれる。そして彼が《気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです》と危険信号のように発する「正しさ」について深く考えさせてくれる。(多分、「あの時」にTwitterを読んでいたら、一時「正しさ」に捉われていた私も、彼の“教え子”のように心の底から湧き起こる感情を抑えきれず、涙を流していたかもしれない)
高橋源一郎の言葉は、常に真上ではなく真横から「そう思わない?」と問いかけてくる。だから、ひねくれ者の私でも素直にやられてしまう。この本と並行して、金曜(27日)の朝日新聞「論壇時評」の《入学式で考えた ぼくには「常識」がない?》と題された記事も読んだが、「そうだよなあ」「なるほどね~」とノー文句で頷かされてしまった。それは多分“人は誰しも「あいまいな存在」である”ことをよく知っている人の言葉だからだと思う。普通の人の普通の感覚・感情を大切にする人は、何事に対しても断定的な言い方をしない。人を責めるための「正義」の仮面を身につけない。故に彼の言葉は「あいまいさ」を嫌う人々や、それを認めない社会に対しての強い警戒心とともに放たれるのだろう。
私にとって、その言葉は思考の栄養ドリンクのようなもの。自分の存在の希薄さに心が萎え、共同体の意味すら見失いそうな時、今の日本にこういう人がいることをとても心強く思う。
但し、その言葉への信頼感とは裏腹に、彼の競馬予想はまったく信用できないけれど。(たまにはドカンと当てようよ、源一郎さん……)