『七年の最後』(著者:キム・ヨンス/橋本智保訳、新泉社)
2024年、最も心に刺さった小説。まず、帯の文に惹かれた。
「夜は昼のように、昼は夜のように。水は火のように、火は水のように。
悪が善になり、善が悪になる。その廃墟を見つめること、それが詩人のすること――」
この本を読むまで、その存在すら知らなかったが、韓国の詩人たちに最も敬愛されている詩人の一人が、伝説の天才詩人「白石(ペクソク、1912~1996)」。白石は1930年代後半から40年代前半に活躍した詩人で、解放後は故郷のある北朝鮮に残り、体制になじめず筆を折った(らしい)。『七年の最後』は、その筆を折る1962年までの最後の7年間を、現代韓国文学を代表する作家キム・ヨンスが《構想30年。膨大な資料をもとに、記録された文献や歴史書の中に埋もれた人たちの声に生命を吹き込み、できるかぎり想像を膨らませて(訳者あとがきより)》蘇らせた長編作。キム・ヨンスによると「この小説は、白石はなぜ詩を書くのをやめたのか、書く自由を奪われた詩人を生かし続けた力は何なのか、などの疑問から始まった」とのこと。帯には《書かないことで、文学を生き抜いた詩人、白石》とも記されている。
で、私が最も印象に残った一節(咸興出身、モスクワの国立映画大学シナリオ科在籍の留学生リ・ジンソンに語らせたもの)……
時代という吹雪の前では、詩など、か弱いロウソクにすぎない。吹雪は散文であり、散文は教示するものだ。党と首領の言葉は、吹雪のごとく吹き荒ぶ散文である。峻厳で恐ろしく、緻密である。だが、詩は語らない。詩の役目は、吹雪の中でもその炎を燃やすところまでだ。ほんのいっとき燃え上がった炎によって、詩の言葉は遠い未来の読者に燃え移る。
それを受けた訳者のあとがきも印象的だった。
《(前略)そう考えると、『七年の最後』は、人間の力を信じることと、私たちが大切にしているものは権力によって壊されることはない、という著者の思いから出来上がった小説だといえる。その思いが白石が生きたと思われる架空の世界をつくりあげ、その中で白石は詩人として生き続けたのだ。それは皮肉にも、白石が詩を書かない選択をしたからこそ可能だったのだが、その結果、彼は自分の詩を守り、遠い未来の読者に燃え移り記憶されている》
(にしても、ノーベル文学賞を受賞した「ハン・ガン」しかり、韓国を代表する現代作家の力量、というか「読ませる力、その世界に引き込む力」は想像を軽く超える。確固とした信念と深い考察に導かれながら、さらに何故、このように繊細で美しく、その意志と悲しみをまとったような稀有な文体で綴ることができるのだろう)
『私たちが起こした嵐』(著者・ヴァネッサ・チャン/品川亮訳、春秋社)
舞台は、1930年代のイギリス植民地時代と1940年代の日本占領下のマラヤ(現マレーシア)。主人公となるのはユーラシア系(ヨーロッパ系を自負するが実際には浅黒い肌のアジア系として見下され、差別的に扱われていた)主婦セシリーと、その子供たち。セシリーはイギリス植民地時代に日本軍のスパイ「フジワラ」に惹かれ、彼の唱える「アジア人のためのアジア」という理想に共感して間諜行為に協力するのだが、「日本占領下」その子どもたちに数々の悲劇が訪れる……という、かなり陰鬱で辛いストーリーだが。それでもページを繰る手が止まらないのは「もし歴史を影で動かしている女性がいたとしたら…」というテーマ設定が生み出す予想外の展開とその緊迫感故だろうか。「心やさしい読者のみなさんへ」と題された、著者の長い“まえがき”も「日本人」的にかなり強烈な印象を受けた。
心やさしい読者のみなさんへ
《マレーシアでは、孫たちには話さないというのが、祖父母たちの愛のかたちでした。より具体的には、1941年から1945年までのあいだのことについては、ということです。それは、マラヤ(独立前のマレーシアはこう呼ばれていました)を侵略した日本帝国軍が、イギリスの植民者たちを追い出し、平穏だった国を内戦のただ中に突き落とした時期にあたります》(中略)
《『わたしたちが起こした嵐』を書く前のわたしは、日本による占領について、五本の指で数えられるほどの事実しか知りませんでした。日本人たちが巧妙にも、タイを経由して北から自転車を使って侵攻したということは知っていました。その間、イギリス軍の機関砲は、南の海に向けられていたのです。日本人たちは残忍で、情け容赦なく殺したということも、自分たちが侵略しておきながら、同時に(アジア人のためのアジアを)と訴える赤い宣伝ビラを空中から撒いたことも。それは、警告であるとともに、武器を取って立ち上がれという呼びかけでもありました。》(中略)
《話が長じるにつれて、祖母から真実を聞き出すことが、おしゃべりをとおした探し物ゲームのようになっていきました。占領下のクアラルンプールで過ごした、10代の頃の生活はどうだった?占領下の生活はどうだった?と尋ねると、祖母はいつもこう答えたものです。「普通さ!みんなといっしょだよ」
それでも最終的には長い年月をかけて、真実だけを伝える冷静な声によって、わたしはさらに学んでいきました。だれもが家族を飢えさせないようにするのに必死だったこと。学校は閉鎖されたこと、日本の凶暴な秘密警察である憲兵隊が、イギリスの行政官たちを投獄し、中国系住民の抵抗運動をジャングルの奥でひねり潰したことを。》
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