2016/02/02

海と水の記憶(『真珠のボタン』を観て)



先週の水曜(27日)、ドキュメンタリー映画『真珠のボタン』(監督:パトリシア・グルマン/製作国:フランス、チリ、スペイン)を観に、渋谷「アップリンク」へ。

年に3、4回は行く「アップリンク」だが1階の“FACTORY”で観るのは初めて。アップリンクXほど小さくもないし(座席数58席)、列ごとに割と高い段差がついていてスクリーンが見やすく、椅子の座り心地もまあまあ良い。(ホームシアターに毛が生えた程度の映画小屋といった感じの「X」も嫌いじゃないが、中高年的に腰が辛い)
観客は30人程度(平日昼間のアップリンクにしては、かなり多い)。水曜のせいか女性客の姿が目立ち、男は私を含めて5、6人。上映開始は1320分、予告編の後、本編が始まった……

冒頭、ボタンが入った氷の塊がスクリーンに映し出される。(数分間じっくりと)

そのあと、静かな波の音とゆらぎ音のような深みのある優しい声が流れ(ナレーションも監督パトリシア・グスマン)、まるでプラネタリウムを観ているような感覚に捉われながら、全長4300キロという長い国土が太平洋に臨んでいるチリの歴史へ誘われる。

氷山、宇宙、ビッグバン……チリの海と水の起原を示唆する壮大なイメージ映像に、ふと眠気を覚えつつ「これは、本当にドキュメンタリー映画なのか? 単なる宗教チックなヒーリング映像ではないのか?」という疑念に襲われるが、頭に響くグスマンの声が静かにそれを振り払い、驚くべき壮絶な歴史が語られていく。

無数の島や岩礁、フィヨルドが存在する世界最大の群島と海洋線が広がるチリ南部の西パタゴニア。そこには、かつて水と星を生命の象徴として崇めた先住民・インディヘナ(「インディオ」は、その蔑称)が住んでいた。
「水の言葉」を持つ海洋民の彼らは、星と交信し、海を家族として穏やかに生きていたが、その海の彼方からやってきた植民者の迫害(大量虐殺など)によって、絶滅の危機に瀕する。(18世紀に8000人が暮らしていたこの地の住人は20人に激減しているそうだ)

そして19世紀前半、パタゴニアに探検でやってきたイギリスの船が4人の先住民を《「野蛮人」を「文明化」する》という目的のため拉致。イギリスに連れて行くための「代金」として、その中の一人の家族に、「真珠のボタン」を渡したという。その男は「ジェミー・ボタン」と名付けられた。それがタイトル「真珠のボタン」の意味……何というおぞましい話だろう。

だが、その悲惨さに戦慄するのはまだ早かった。

続いて語られたのは、チリの「9.11」……1973911日、当時の陸軍総司令官アウグスト・ピノチェトによる軍事クーデターによって、アジェンデの民主政権が倒された。その後、米国CIAが加担したピノチェト独裁政権下で、アジェンデ政権時の大臣や支持者ら1400人が拷問や虐待を受けたのち殺害され(あるいは生きたまま)海に捨てられたという。(証言者によると、死体を重石代わりの鉄道レールに縛りつけて、ヘリコプターや船で海に捨てたそうだ)
実際、海からは腐食したレールが見つかり、そこに殺された人のものだと思われる「真珠のボタン」が張り付いていた。カメラはそれをしっかりとらえ、チリの美しい自然の中で流されてきた多くの血を観る者に思い起こさせながら、その二つの歴史的蛮行を繋ぎ紐解き、誰しも殺戮の被害者、あるいは加害者になりうることを示唆する。

海が語る記憶……それは、独断的な思考によって愚行を繰り返す人類への警告であり、その愚かさを忘れず、己のものとして乗り越えようとする人たちへの期待を紡ぐもの。

映画の中で引用されている「考えるという行為は、すべてのものに適応するという水の能力に似ている。人間の思考の原理は水と同じだ。あらかじめ、あらゆるものに適応できるようできているのだ」というテオドール・シュベンク(ドイツの流体力学者)の言葉どおり、いつの時代にあっても、どんな軋轢の中で生きていようとも、思考の柔軟性を持ち続けよ。と映像を通して語っているように思えた。

力作にして、初めて観る詩的かつ哲学的ドキュメンタリー映画。今後、大好きなチリワインを呑むたびにこの映画を思い出すに違いない。南米を代表するドキュメンタリー作家「パトリシア・グスマン」の優しい声の語りとともに。

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