バイトの日は早目に家を出て、勤務先駅前の「ドトール」で珈琲を飲みながら、1時間ほど読書するのが最近の習慣。いま読んでいるのは加藤典洋の『戦後入門』……
《日本ばかりが、いまだ「戦後」を終わらせられないのはなぜか。この国をなお呪縛する「対米従属」や「ねじれ」の問題は、どこに起源があり、どうすれば解消できるのか――。世界大戦の意味を喝破し、原子爆弾と無条件降伏の関係を明らかにすることで、敗戦国日本がかかえた矛盾の本質が浮き彫りになる。憲法9条の平和原則をさらに強化することにより、戦後問題を一挙に突破する行程を示す決定的論考。どこまでも広く深く考え抜き、平明に綴った本書は、これまでの思想の枠組みを破壊する、ことばの爆弾だ!》
という心そそる刺激的なメッセージが扉カバーに書かれているが、ウソ偽りなくその通り、まさに目からウロコの「ことばの爆弾」。
《もうこれまでのような、またいまも散見される、つまみぐいのような「戦後」についての語り方はやめたほうがよい》と語る著者が、《先の戦争でこてんぱんに負けた日本は、面白い。私は、この国には世界に平和構築を呼びかける大きな可能性が秘められていると思っています。そのことを、面白がろう。そしてその可能性の大きな穴を、のぞき込んでみよう》という気宇壮大な野心で挑んだ600頁以上に及ぶ大作だ。
仕事前の60分、頁にして20数頁。ページの端を折ったり、傍線を引きながら、「現実に、政治を動かす「力」であろうとする理念とは?その目指すべき方向性とは?」という本著の核心に向かって読み進め(時折「加藤先生」に難しい宿題を課せられているような気分で)、現在400頁を少し越えたあたり。最終章となる【第5部 ではどうすればよいのか――私の九条強化案】に突入……いよいよ、クライマックスが近づいてきた。
で、その章のはじめから、頭にグイグイくる言葉の連続。現在に続く日本の米国への「軍事基地の提供」が法的に担保されることになった「サンフランシスコ講和条約」(1951年9月8日調印、同日「日米安保条約締結」)、それに基づく日米行政協定の調印に関連して、こんな一文が書き連ねられている。(けっこう長くなりますが…)
《(前略)1949年以降、連合国側との講和が問題に上がってきたときには、その独立のあり方――完全な独立か、半分の独立か――をめぐる指標として、ポツダム宣言に規定された「占領軍の撤収」がどのように実現されるかが、争点として浮かび上がりました。そこでの対立は全面講和か、片面講和かという形をとります。主に革新勢力からなる全面講和派は、現下の東西冷戦のもとで、日本は「非武装・中立」を掲げて両陣営を架橋する存在となるべきで、そのためには国連に加入し、また、経済的自立を果たすためにも、全交戦国との全面講和をめざすのがよいと訴えました。ついては、「再軍備」および外国の軍隊への「基地提供」には、断固反対するというのが、彼らの主張になりました。
一方、片面講和派は、東西冷戦のもとで、「非武装・中立」路線は非現実的であり、日本としてはいち早く講和にこぎつけ、まず自由主義圏の国々と国交を回復した後においおい他の国とも講和するのがよいと訴えました。その方針で進む吉田茂を首班とする日本政府は、そのころまでには、「ソ連を除く片面講和の実現と平和条約締結後のアメリカ軍の駐留継続という方向」に意見を固めつつありました》
《こうした吉田内閣の方針は、ポツダム宣言受諾のときの日本側の理解と了解を大きく裏切るものでした。そのため、これへの反対は、二つの方向から起こることとなります。一つは、全面講和の主張の延長に現れる革新側からの反対です。その後、60年代初頭まで、反基地闘争が全国で展開されますが、それは、――後に反米ナショナリズムとまじりあう傾向が強まるにせよ――基本は、ここに示された全面講和の主張を基本に据えたものでした。
(中略)もう一つは、保守陣営のなかに、吉田の従米姿勢への反発から起こってくる反対です。55年に吉田を除外するかたちで保守合同が成立し、自民党が生まれると、自主外交、憲法改正が党是に掲げられ、自民党内部の鳩山・岸による政治的アプローチが試みられます。それはともに政治的な対米自立をめざすもので、鳩山は自主外交による日ソ国交回復によって、岸は日米安保条約を平等で双務的な条約に近づけることで、それぞれ、目的の達成をめざしました。
しかし、それは「戦前と戦後のつながり」に足場をおいたナショナリズムに立脚する反対の動きである点、先の全面講和の主張の流れを汲む反基地闘争とは異なっています。吉田の対米協調・従属路線に対し、基地反対闘争が、「日本国民が講和を通じて全面的に世界の諸国民と自由で誠実な関係を結ぶ」国際主義、国連中心主義につながる平和主義を理論的支柱としたのとは異なり、自民党内部の反吉田派は――石橋湛山などを数少ない例外として――、吉田の姿勢を軟弱で対米従属の度がすぎると、ほぼ国家主義、ナショナリズムに立って、これに反対したのです。私の考えでは、ここに対米従属路線への反対における最大の分岐点がありました。
ナショナリズムか、インターナショナリズムか。これが、じつは大きな意味をもっていたのです。
大事なことは、当時、全面講和派の主張が、きわめて困難ではあるにしても、必ずしも不可能でないと受けとめられていたことです。》
ナショナリズムか、インターナショナリズムか。これが、じつは大きな意味をもっていたのです。
大事なことは、当時、全面講和派の主張が、きわめて困難ではあるにしても、必ずしも不可能でないと受けとめられていたことです。》
という鋭い視点と深い考察から、著者は「対米独立に際しては、ナショナリズムに立脚するのでは脈がない」と明快に言い放ち、“私の考え”の方向性をこう指し示す。
《――それは(ナショナリズムは)反米に結びつき、戦後国際秩序からの離反をもたらし、国際社会での孤立を結果し、現状変更のために第三次世界大戦による日本の挑戦と、再度の国家破滅にしか私たちを導きません――、インターナショナリズム(国際主義)に徹すること、そして、そのための(対米独立のための)方途として、米国に代わる国際社会との主要窓口=連携先として国連を選ぶ、国連中心主義を採用するという点にあります。
いわずもがなのことをつけ加えれば、この方向設定の一つの力点は、これが、米国と敵対関係に入ることなしに米国から独立し、互いに平等な友好関係に移行する唯一無二の方法だということにあります。けっして、反米に陥らないこと、米国との友好関係を堅持しながら、中国、韓国、ロシアとも健全な友好、信頼関係を築き、長く将来にわたって持続可能な経済的な安定と安全保障をめざすこと、最終的に北朝鮮とも安定的な国交関係に入り、第二次世界大戦後の「全面講和」を達成することが、念頭におかれています。》
《そう考えるとき、私たちの手にあるカードとして、憲法九条が、このインターナショナリズムの最重要の存在であることが見えてきます。それは、1945年8月の第二次世界大戦の終結が開いたひとときの窓として、国連の理想と連動しながら、戦後の国際秩序の「夢」と結びついた、日本が現在も有する唯一の戦後国際秩序の核心とのあいだの紐帯だからです。》
そうか……私も薄々は気づいていたが、最早「保守」「リベラル」という括り方に、政治的にも信条的にもほとんど意味はない。とりわけ「第9条」をめぐる理念的バックボーン(及び政治的対立軸)としては、「ナショナリズム」か、「インターナショナリズム」か、という問いかけに改めてシフトせざるをえないということ。(もちろん、私は「第9条」を守り、活かすために「インターナショナルリズム」を志向したい)
さて、残り200頁余り。どんな「ことばの爆弾」が炸裂するのだろう。
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