2015/10/07

町でデモ隊にあった。(&吉本さん再読)



先週の日曜(4日)、地元の町でデモ隊に遭遇した。

30人ぐらいだろうか、ほとんどが地域の中高年の人たちだと思う。

「原発反対」「子どもを守れ」「原発反対」「空を守れ」……

あまり意味があるとも、切実とも思えない単調な叫び声が、秋の空にこだましていた。

どういう思いなのだろうか……

(正直、私も福島第一以降“原発は怖いもの”だと再認識しているが、論理じゃなく「恐怖」で「原発問題」を捉えることはできないと思うし、大勢の人といっしょに「原発反対!」と声を上げて叫ぶほどの切実な思いも根拠もない。また、反原発デモでも、なんでも、「恐怖心」を煽り、それをベースに組織化を図るような運動・活動は「保守・リベラル」に関わらず端からダメだと思っているので、当分「原発」を巡って体も心も動くことはない。だから、「安保法制反対」と「原発反対」がセットになっているデモなどを見ると、SEALDsの人たちなどは「リベラル」ということで一括りにしているようだが、「それは、別の問題じゃないの!?」と、首を傾げたくなる……安易な同調も排除も、彼らが主張する「民主主義」の薄っぺらさを示すことにならないか?と)

……隊列から少し離れて歩道を歩いていた女性が、「読んでみてください」と、私にビラを手渡そうとしてきたが、読まずとも中身は知れたもの。ぼんやり空を見ていたせいもあるが、デモにシンパシーを示すつもりもないので、受け取ることなく、黙ってその場を通り過ぎた。

その夜、本棚から吉本(隆明)さんの『反原発異論』を取り出して再読。

「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」(『思想としての3.1120116月刊所収)と記された一節の中にこんな言葉があった。

《原子力はそれを最終的には戦争に使うために貯蔵することも、また多面的な利用もできるし経済的な利を得るために開発することも、見方を変えればいくつもの目的があるわけですが、もっとも根本的には、人間はとうとう自分の皮膚を通過するものを使うようになったということですね。人間ばかりでなく生物の皮膚や骨を構成する組織を簡単に透過する素粒子や放射線を見出して、物質を細かく解体するまで文明や科学が進んで、そういうものを使わざるを得ないところまできてしまったことが根本の問題だと思います。それが最初でかつ最後の問題であることを自覚し、確認する必要があると思います。武器に使うにしても、発電や病気の発見や治療に使うにしても、生き物の組織を平然と通り過ぎる素粒子を使うところまで来たことをよくよく知った方がいい。そのことを覚悟して、それを利用する方法、その危険を防ぎ禁止する方法をとことんまで考えることを人間に要求するように文明そのものがなってしまった。素粒子を見つけ出して使い始めた限り、人間はあらゆる知恵を駆使して徹底的に解明してゆかないと大変な事態を招く時代になってしまった。原子力は危険を伴いますが、その危険をできる限り防ぐ方法を考え進めないと、人間や人類は本当にアウトですね。俺をどうしてくれるんだと素粒子側から反問されて答えられなければ困るわけで、何とかして答えるようにしなければならない。心細く言えば、人間は終わりが近づいているくらい悲観的なものですが、でもここまで来たら悲観しても収まりがつくものではないわけで、この道を行くしかないのですね。》

いま読んでも、とても「原理的」で、慎重かつ丁寧に原子力を見ているように感じられるが、「反原発」を叫ぶ「リベラル」な人たちからは今も「原発推進派」として吉本さんの一連の発言は毛嫌い(無視or憎悪の的?)されているようだ。

そこがよく分からない……

吉本さんは、「恐怖感」や「経済的な利益」で原発を議論するのではなく、あくまで「文明論・技術論」をもとに議論を尽くすべき。と主張し、「人類が辿ってきた道を、後戻りはできない」という文脈で「反原発」を批判したわけで、「原発を積極的に推進すべし」などと語ったことはないはず。

福島第一の事故以降、急速に高まった「反原発」の声を恐れて、多くの科学者と技術者が口をつぐんでしまい、未だに自由に発言・発信しえないこの日本の現状こそ、吉本さんは最も危惧していたのではないだろうか。
(先日、辺見庸さんのブログを、友人に紹介されて読んだが、辺見さんも今の日本の「リベラル派」や「民主主義」の状況を、吉本さん同様のスタンスで危惧しているように思う……辺見さんの言葉はかなり乱暴だが)

私も吉本さんが残した言葉を手掛かりに、「元個人(げんこじん)」として、敬愛する仲間たちと語り合いながら、「原発」を含め様々な問題を考えていきたいと思う。


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