おととい(1日)、佐野研二郎氏デザインの五輪エンブレムが白紙撤回された。
「断じて模倣ではない」と明言しつつも、ネット上で執拗に繰り返される凄まじいバッシングに耐えられなくなった佐野氏本人の提案取り下げの申し出と、「デザインの観点からは模倣ではないが、このデザインが模倣ではないとは残念ながら国民の理解を得ることは難しい」という永井一正氏(審査委員長)の見解を受け、最終決定に至ったようだ。
あまりスッキリしないが、仕方なし……
「盗作疑惑」を払拭するために大会組織委が開いた会見(28日)で、決定案以上に平凡な「原案」を見せられた時から、「これは、もっと、ヤバイことになるんじゃないの?」という予感がしていたが、案の定、すぐに類似(酷似?)デザインが見つかり、同時に審査資料用に提出した画像の無断転用まで発覚して万事休す。
「日本人としての誇りをもって作った」と言っていた佐野氏の誇りも奮闘むなしく地に堕ちてしまった感じだ。(何故、こんな「原案」がコンペで勝利したのか疑問だったが、エンブレムデザイン自体より、会場装飾や関連グッズ類への展開案が高く評価されたらしいことも会見で分かった)
「日本人としての誇りをもって作った」と言っていた佐野氏の誇りも奮闘むなしく地に堕ちてしまった感じだ。(何故、こんな「原案」がコンペで勝利したのか疑問だったが、エンブレムデザイン自体より、会場装飾や関連グッズ類への展開案が高く評価されたらしいことも会見で分かった)
正直、端から佐野氏のエンブレムデザインが良いとも思ってないし、「たった100万の対価」を含めてコンペのやり方も気に入らない……というか、そもそも「国威発揚と経済効果」が主たる目的のような「五輪招致」自体に反対だったので、これ以上この件に関わりたくもないが、私なりに思う所をまとめておきたい。
まず、「なぜ、メインのエンブレムデザイン案で選考されるべきコンペなのに、“展開案”が決め手になったのか」……
私も、その展開案(Tシャツなどのグッズ)を見た時、「そうなるのか、なるほどね~」と唸ったくらい、「再構成すると他の文字になるロゴ」というのは優れたアイデアで、これなら街中でも様々に形を変えつつ一目で五輪ロゴと分かるような統一した演出が可能になったはず。今さらながら、組織委・審査委のツボをキッチリ押さえたものだと感心している。
要するに、五輪招致の目的である「国威発揚(どこへ行っても、五輪一色)」と「経済効果(至る所で商売繁盛)」を踏まえ、その両方を最も満たすカタチで提案したのが佐野研二郎氏のデザインだったのではないだろうか。
博報堂時代は佐藤可士和のチームに属していたようなので、可士和さん同様、想像力と独創性で勝負するようなアーティストタイプではなく、経営戦略やマーケティング重視でコンセプト作りに長けたデザイナーなのだろう。(それが悲劇のもとになった。と言えなくもないが)
要するに、五輪招致の目的である「国威発揚(どこへ行っても、五輪一色)」と「経済効果(至る所で商売繁盛)」を踏まえ、その両方を最も満たすカタチで提案したのが佐野研二郎氏のデザインだったのではないだろうか。
博報堂時代は佐藤可士和のチームに属していたようなので、可士和さん同様、想像力と独創性で勝負するようなアーティストタイプではなく、経営戦略やマーケティング重視でコンセプト作りに長けたデザイナーなのだろう。(それが悲劇のもとになった。と言えなくもないが)
次に、「デザインの類似性について」……
「優れた芸術家は模倣するが、偉大な芸術家は盗む」というピカソの有名な言葉もあるように(もちろん「盗む」とはパクることではなく、「自分のモノにする」という意味)、絵画やデザインなどアートの分野に傾倒し詳しくなればなるほど、色々な作品からインスピレーションを受けることが多くなり、その分、まったく新しい完全オリジナルなものを作り出すのはほぼ不可能に近くなる。
グラフィック・デザインの世界も同じで、最初は誰でも優れたアイデアを収集し、多少アレンジを加えながら模倣していくもの。模倣もできない(優れたアイデアをチョイスできない)デザイナーは、多くの作品に触れながら技術とセンスを磨き、想像力と独創性を養うという努力を怠っていると見なされるだけ。当然、信頼もされず仕事もなくなる。
よく言われる「自由な発想」も、そうした日々の修練とインスピレーションの蓄積の上に築かれるもので、6歳以下の子どもでもないかぎり、何もない状態から生まれる自由な発想もオリジナルもありえない。画家もデザイナーも幾多の作品から受けたインスピレーションを基に、さらに別のアイデアとして組み立て自分のモノにする。それが膨大な情報とビジュアルに囲まれた私たちの世界のオリジナルと言うことになるのではないだろうか。
今回、多大な労力と時間を費やして類似デザインを探しまくり、「泥棒デザイナー」などと悪辣な言葉で佐野氏を罵った人たちも「似ている・似ていない」ではなく、「ちゃんと、その人のモノになっているか・いないか」を基準に、熟慮の上で追及の判断をしてほしいと思う。
グラフィック・デザインの世界も同じで、最初は誰でも優れたアイデアを収集し、多少アレンジを加えながら模倣していくもの。模倣もできない(優れたアイデアをチョイスできない)デザイナーは、多くの作品に触れながら技術とセンスを磨き、想像力と独創性を養うという努力を怠っていると見なされるだけ。当然、信頼もされず仕事もなくなる。
よく言われる「自由な発想」も、そうした日々の修練とインスピレーションの蓄積の上に築かれるもので、6歳以下の子どもでもないかぎり、何もない状態から生まれる自由な発想もオリジナルもありえない。画家もデザイナーも幾多の作品から受けたインスピレーションを基に、さらに別のアイデアとして組み立て自分のモノにする。それが膨大な情報とビジュアルに囲まれた私たちの世界のオリジナルと言うことになるのではないだろうか。
今回、多大な労力と時間を費やして類似デザインを探しまくり、「泥棒デザイナー」などと悪辣な言葉で佐野氏を罵った人たちも「似ている・似ていない」ではなく、「ちゃんと、その人のモノになっているか・いないか」を基準に、熟慮の上で追及の判断をしてほしいと思う。
で、エンブレムの件に戻して言うと、1日の会見で見せられた「原案」は、どう見ても活字デザインの巨匠ヤン・チヒョルトの展覧会ポスターのデザインとそっくり。
佐野氏もその展覧会を観に行ったそうだし、模倣する意図はなくでもインスピレーションを受けたのは明らかではないだろうか。(「記憶にない」などと言うから、余計に勘ぐられる)
ただ、「ポスターの丸はドットで、エンブレムは日の丸」という意味が違うだけのデザインを、「模倣じゃない」と言い切るのはかなり無理な気がしても、佐野氏に悪意があったとも思えない。
彼の言葉を聞くと、一貫して「根本の意味が違えば、デザインが似ていても、模倣ではない」と確信しているような節がある。こればかりは、彼が培った資質と感覚と世界観の問題で何とも言えないし、コンセプト作りに長けたデザイナーも良いのか悪いのか?……といった感じ。(デザイナーの友人たちは、どう思うのだろう)
佐野氏もその展覧会を観に行ったそうだし、模倣する意図はなくでもインスピレーションを受けたのは明らかではないだろうか。(「記憶にない」などと言うから、余計に勘ぐられる)
ただ、「ポスターの丸はドットで、エンブレムは日の丸」という意味が違うだけのデザインを、「模倣じゃない」と言い切るのはかなり無理な気がしても、佐野氏に悪意があったとも思えない。
彼の言葉を聞くと、一貫して「根本の意味が違えば、デザインが似ていても、模倣ではない」と確信しているような節がある。こればかりは、彼が培った資質と感覚と世界観の問題で何とも言えないし、コンセプト作りに長けたデザイナーも良いのか悪いのか?……といった感じ。(デザイナーの友人たちは、どう思うのだろう)
最後に、「エンブレムデザインの再公募」……
大体、役所のコンペは、参加者に少なくない費用と過剰な手間をかけさせながら、応募作品は返却しない、結果及び評価に関する質問・問合せには応じない、もちろん選考過程も選考理由も知らせない……というムカつくモノで、その無慈悲さ・理不尽さは業界の常識。(それでも、参加者が後を絶たないのは、どこもかしこも仕事が無くて困ってるから)
そんな悪しき慣習と状況が今回の「公募」と「オープン化」(どの程度オープンにするのか分からないが、最終選考の様子くらいネット中継すべし)によって、多少でも変わるのなら制作に携わる人間としては喜ばしいコト。とにかく次は、「経済効果が期待できるデザイン」などという変な色気を正面に出さないで、「エンブレムデザイン」の良し悪しを最優先して決めてほしい。
そんな悪しき慣習と状況が今回の「公募」と「オープン化」(どの程度オープンにするのか分からないが、最終選考の様子くらいネット中継すべし)によって、多少でも変わるのなら制作に携わる人間としては喜ばしいコト。とにかく次は、「経済効果が期待できるデザイン」などという変な色気を正面に出さないで、「エンブレムデザイン」の良し悪しを最優先して決めてほしい。
※今夜は久しぶりの代表戦(対カンボジア)。前線4人(多分、先発は岡崎、本田、武藤、香川)のコンビネーションと、SB長友の走りとクロスに注目したい。もちろん、勝つのは当たり前!
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