2015/08/12

「茨木のり子」と『この国の空』



昔よく読んでいた茨木のり子の詩を、おととい(10日)久しぶりに朗読で聞いた。
『この国の空』という映画のエンドロール中に……詩の声は女優・二階堂ふみ。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

青春の一時期、詩作に傾倒していた私にとって、「わたしが一番きれいだったとき」は、長く心にとどめていた詩の一つ。
戦争の影が漂う何処か淋しげな匂いに導かれながらも“フランスのルオー爺さんのように ね”という最後の一行に、幾多の悲しみと不条理を振り払う、凛とした軽やかな決意のようなものを感じて、幾度も読み返すほど強く惹かれた作品だった。

その忘れられない詩が、ストップモーションの残像(終戦前夜、夜雨に顔を濡らす主人公のクローズアップ)に重なるようにスクリーンに流れた。
戦中と戦後を貫く女の眼差しに添う「里子は、私の戦争はこれから始まるのだと思った」という字幕の後に。

……文句なし。いい映画だった。

舞台は太平洋戦争末期、昭和20年の東京・杉並(善福寺)。戦争で若い男たちがほとんどいなくなった町で、隣り合わせた二つの日本家屋を「愛を知らないまま死ぬかもしれない」一人の女が行き来する物語。
主人公は役所勤めをしながら母と暮らす19歳の娘・里子、隣家には妻子を疎開させた中年男・市毛(長谷川博己)が一人。やがて、空襲で家族を失い、焼け出された伯母が母娘の家に転がり込む。食事をめぐって争う母と伯母、着物と食糧を交換するため郊外に出かける母と娘。
そんな戦時下の日常と非日常の空間演出も素晴らしかった。

昭和の美しい言葉が行き交う路地に咲くたくさんの向日葵。雲一つない青空の下、母と娘が大声で軍歌を歌う河川敷。時折、静止画のように夜空に連なる爆撃機。汗だくの男と女が神社のベンチで頬張るおにぎり。そして不意に、社の樹木の下で解き放たれる「性」……
敗戦間近、じりじりと煮詰まる日々の中で、すぐ近くに感じる「死」よりも、リアルな「生と性」が前面にあることを、じっくりと目覚める女の官能に委ねて描いた異色かつ出色の戦争映画。
「茨木のり子」の詩とともに、長く心に残る一本になると思う。(とりわけ「二階堂ふみ」の演技と圧倒的な存在感!「戦争が私の心に火をつけた」という予告編の中のコピーも良かった)

脚本・監督は、『さよなら歌舞伎町』『大鹿村騒動記』『Wの悲劇』などを手がけた名脚本家「荒井晴彦」(18年ぶりのメガホン)。

0 件のコメント:

コメントを投稿