2014/04/27

吉祥寺で、ジャ・ジャンクー&「いせや」



週の頭から取り掛かっていた直クラの仕事(新規事業案内リーフ制作)も一段落。一昨日(25日)は、暖かい日差しの中、ジャ・ジャンクー( 樟柯)監督作品『青の稲妻』(2002年製作)を観に吉祥寺バウスシアターへ出かけた。(バウスシアターでは「クロージング特集」と称し、ヴェネチアでグランプリを獲った『長江哀歌』など、中国の鬼才ジャ・ジャンクーの6作品を日替わりで組換え、52日まで上映している)

上映開始は午後1時、観客は10人程度。旬の作品ではないので、平日昼間の映画館を賑わす中高年の姿もなく、私以外は、映画マニアっぽい若者ばかり。まあ、ジャ・ジャンクーの名前に心当たりがなければ、わざわざ10年以上前の中国映画を観たいと思う人もいないか……と、一人勝手に頷き、総数50席の狭い小屋で“中国ヌーヴェルヴァーグ”と評された作品に見入った。

物語の舞台は中国山西省第2の都市・大同(世界遺産の崗石窟を有する観光都市)。主人公は、年上のダンサーに恋する19才のシャオジイと、彼の親友で受験生の恋人(ユェンユェン)を持つ同い年のビンビン(二人とも無職の青年)。大きな転換期を迎えた中国の地方都市に生きる若者たちの姿を描いた切ない青春映画だ。

映画を通して初めて見る大同の街は、観光地として栄えているせいか、思いのほか自由で開放的な雰囲気に満ちているように感じられる。だが、そこに住む人の多くは職を持っていない。
カメラが捉える泥道の路地裏、殺風景な空き地、そして繁華街の雑踏にも明るい光がおよばず、ビリヤード場や酒場に集まる人々の姿から無気力な空気感が漂うのはそのせいだろう。
あてもなく街を彷徨う二人の主人公の表情が印象的だ(特にビンビン)……中国のWTO加盟、法輪功の信者による天安門広場での焼身自殺、海南島での米軍機と中国機の衝突事故、紡績工場の元社員による社員宿舎爆破、北京でのオリンピック開催決定など、ひっきりなしにテレビが伝える中国の急激な変貌に興奮することも憂えることもなく、無表情で立会い、経済的・国際的変化と無縁な自分の孤独を舐めるようにひたすら煙草を燻らす。(社会のジレンマ、あるいは行くあてもない道の象徴だろうか、禁煙7ヵ月の私の胸がモヤモヤするくらい、紫煙がたなびくシーンが多い)

感情の表出を忘れたかのように喜と楽を閉ざした二人の顔は、虚ろな日々の戸惑いか。
貧しく刹那的な今と、幻想の未来の豊かさに捉われ、出口のない道に迷い込んだ若者の孤独。そのもどかしいほど不器用な青春に心を寄せた時、私の頭の中にセリフにならないビンビンの声が聞こえた気がした。
「大学に進学するユェンユェンは自由経済化の上昇志向の波にのって生きていくのだろう。だが、軍隊にすら入れないオレは、恋人に求められたキスに応えることもできず、この沈滞した青春にどんな刻印を残せばいいのだろう」……と。

そして、ぎこちなくも絶望的な青春ストーリーが招く、あまりに唐突で脱力的なエンディング……犯した罪(銀行強盗未遂)の重さも計れず、手錠をかけられたまま、「何でもいいから、好きな歌を歌ってみろ」という警官の命令に従い、なぜか明るく歌う「任逍遥」(台湾の人気歌手リッチー・レンの大ヒット曲、タイトルの意味は「漂泊の日々」)の哀しさ。
私は不意に「明るさは滅びの姿であろうか」という『右大臣実朝』(太宰治)の一節を思い浮かべ、茫漠とした感傷の中を漂っていた。

♪悲しむ定めでもいい   悔いる定めでもいい  道を知らさぬ天を恨むばかり
 苦しむ定めでもいい   つらい定めでもいい  彼女の微笑みを眺めていたい
 酔うもよし         眠るもよし        心の憂さを忘れてしまおう
 正しい道であろうとも  誤りであろうとも     風に任せて天地を彷徨うのだ

 
で、映画の後は、いつものように「いせや」で一杯。この日のハイボールはちょっぴり辛かった。

では皆さん、楽しいゴールデンウイークを。

2014/04/19

一冊丸ごとオシムの言葉

W杯まで、あと二か月を切ったところで、久しぶりにサッカー絡みの話でも…

昨日、村上春樹の新作短編集『女のいない男たち』(春樹っぽくないタイトルだけど)が出たというので、散歩がてら駅前のTSUTAYAへ。
現在的に『里山資本主義』(藻谷浩介/NHK広島取材班)、『昭和の犬』(姫野カオルコ)など、読みかけの本も幾つかあるが、とりあえず最優先で読もうと決めて購入。そのついでにスポーツ雑誌でも立ち読みしようとコーナーを覗いたら、いきなり、平積みになったムック本の表紙を飾るオシムさんの厳しい顔が目に飛び込んできた。

Number PLUS『イビチャ・オシム 日本サッカーに告ぐ2014』(1000円)……即、買わなきゃ!と手に取り、レジにとんぼ返り。そのまま急ぎ足で家に帰り、里山も昭和も春樹も忘れて読み耽ってしまった。

巻頭は、最新ロングインタビュー「野心を持って、驚きを作り出せ」……日本から遠く離れた地にいても、常に日本サッカーの現状を気にかけ、注視し続けてくれているのがよく分かる。
日本代表に関しては、ここまでのプロセスを「全般的に悪くない」「昨年秋のヨーロッパ遠征でも、オランダとベルギー相手に自分たちが決してアウトサイダーでないことを証明した。これ以上何を望むというのか」と評価したうえで、新戦力として「速くて機動力があり、勇気をもって戦いを挑んでいける」若手(斉藤、大迫、工藤など)の台頭を期待している。一方、Jリーグで得点を重ねている大久保の代表入りについては「大久保はたしかにある時期、日本で最高のストライカーだった。だがそのころから、もっと高いレベルで何ができるか疑問だった。実際、ヨーロッパで彼は実績を残してはいない。得点王を獲得できたのもJリーグだからではないのか。その点で彼は抜け目なく、日本のチームや選手たちのことをよく分かっている。では国際試合で、岡崎と一緒にプレーしたら、いったいどれだけできるのか……」と懐疑的だ。やはりチームの成長のための「変化」をもたらす“サプライズ枠”に入れるべきは、若手の選手(斉藤、塩谷、工藤、原口、南野など)であり、Jリーグで活躍中のベテランFWDFではないということだろうか。(大久保だけじゃなく、中沢も闘莉王も“行く気満々”のようだが、今のパフォーマンスでは……)

また、代表の攻撃面での核となる海外組の4人(香川、本田、岡崎、長友)については、こんなコメント。まず香川には「現在の香川を、イングランドのパフォーマンスで評価してはならない。というのもプレミアの試合は、他のどこよりも厳しいからだ。彼の問題はフィジカルとボディ・コンタクトだ。それにさえ慣れれば、香川には小さなスペースでもプレーができる高いスキルがある。速くて正確な判断力と、他の誰も及ばない卓越した想像力がある。もっと長い目で彼を見るべきだ」と、メディアとファンの懸念を鎮めつつエールを送り、イタリアのプレースピードに適応しかねていた本田には「日本代表において本田が、コレクティブな面(組織的なプレイの面)で進歩を見せたように、イタリアの速さにもやがて慣れていくだろう。もしできないのであれば、彼はそれまでの選手ということだが、私は決して心配していない」と、彼の強い野心と不断の努力、そしてどんな相手も恐れず戦いを挑む勇気に厚い信頼を置いている。

崎に関しても「彼はゴール前で危険だ。右サイドに限らず左でも中央でも、3人目のセンター・フォワードとしてもプレーができるだろう。それだけアグレッシブで、相手ディフェンスを悩ませる存在だ。スピードがあり戦いでも負けない」と高く評価。
同様に長友にも「彼は何でもできる主婦のようなものだ(笑)。ピッチでも縦横に走り回る。相手は彼の運動量について行けず、最後は脚を壊してしまう。その積極性は賞賛に値する。サイドで常にひとり多い状況が生まれるのは、日本の大きな武器で相手は対処が難しい。スピードがあるうえに、予測がつきにくいからだ。それに彼は両脚のシュートも持っているし、パスの能力も高い。戦術的にも常にサイドを塞ぎ、相手にクロスを上げさせない。本当に進歩した。たぶんその進歩の度合いは、長谷部よりも大きいだろう。根本的な運動量が違う。インテルでプレーしているのは偶然などではない」と賛辞を惜しまない。

それに引きかえ、日本の弱点である守備陣については「攻撃にはそれだけの武器があるのに、守備がさほどでもないのがかえすがえすも残念だ。だが、ないものを探しても仕方がない。既存の選手たちで何とかしていくべきだ」とシビアかつ冷静な目を向け、「今日ではディフェンダーといえどもプレーが求められる。守るだけでなく、勇気をもってボールをコントロールすることを」「あらゆる技術的な進歩を追求していくべきだ」と助言しながら、つまらないミスによる失点や、攻撃のリズムまで切断する緩慢なプレーが目立つディフェンス陣(特に川島と吉田か?)を厳しく叱咤している。

ただそれでも、インタビューの最後では、「グループCの中では、どこが最も強いと思いますか?」という問いに「私は日本に少しアドバンテージがあると思う。日本人のメンタリティだ」と答えるオシム……「優越感を抱きながら生き続けるのは簡単ではない」と独特の言い回しで、FIFAランキング上位の対戦国(特にコートジボアール)が抱く「日本が自分たちにかなうはずがない」という傲慢さこそ日本が歓迎すべきことだと説く。そして何とも心強い言葉で締めくくってくれた。

(本田や長友同様)「野心を持てと私も言いたい」「日本というチームを知らぬものはもはや誰もいないし、何人かの選手は高い評価も得ている。野心に溢れ、可能性を秘めた選手が数多くいることは、今では世界に知られている」「日本には若くて優れた選手がたくさんいる。だからこそ信じて戦うべきだ」
何だかこっちまで武者震いしそうなメッセージだが、オシムさんがこう言うのだから、ファンである私(たち)が日本代表の躍進を信じないわけにはいかない。まずは、512日の代表メンバー発表に注目したい。

で、今日の〆に、このムックで一番印象に残った記事「日本と日本人を救った力(3.11から1年)」と題されたメッセージの一部をご紹介。その中でオシムは「なでしこジャパン」のW杯優勝に関連してこう述べている。

《日本で本物の生活を送り、自己表現ができる本物の人生を歩んでいるのは、仕事と金に囚われすぎて疲弊し、自分を表現する余裕も機会も見失った男たちではなく、実は女性のほうであった》《なでしこがそれを証明した。精神的に望ましい環境さえ得られれば、何でもできる。忍耐強く努力して、厳しい状況の中でも、ストレスやプレッシャーを男子よりもよくコントロールできる。なでしこの勝利は、日本社会に対する女性の勝利でもあった》《他方でそれは、男子にも望ましい勝利だった。女子にあれだけのことができたのだから、どうして男子にできないのかという認識が、人々の間に生まれたからだ。もしかすると男子は、女子に対して、すでにある種のコンプレックスを抱いていたのかもしれない。無意識のうちに女子は何でもできると感じ、ならば男子は、そこまで真剣にやる必要はないと。だが、男子がコンプレックスを抱く間に、女子は現実にワールドカップ優勝を果たした。それはストレスやプレッシャー、生きることの難しさなど、日本が抱えるすべての問題に対する勝利であり、それこそ彼女たちが、日本人に与えた勇気の実態でもあった》

では、また来週。

2014/04/13

葉桜の季節の映画話②



気温の上昇とともに、運気も上昇……と言うわけでもないが、仕事がポツリポツリと入ってきた。(今週は、直クライアントのユニフォーム用キャッチフレーズ&ロゴ・デザイン制作。来週は某省庁の企画競争でポスター等広報ツールのデザイン案提出)
修行3年目を迎えた、ウチの駆け出しスタイリストも無休(無給?)で頑張っているようだし(最近、メンズ・ファッション誌に「有望若手スタイリスト」として写真入りで紹介されたらしい……「食えるようになるのだろうか?」と心配していたが、ちょっと安心)、オヤジも少し気を入れて頑張らないと。

さて本題、先週の木曜(3日)に新宿ピカデリーで観た映画『あなたを抱きしめる日まで』(原題は『PHILOMENA』)。


まず、内容以前に、タイトル(邦題)に異議あり。作品のテーマも内容も伝わらないし、印象にも残らない。
第一、チケットを買う際「『あなたを抱きしめる日まで』、シニアで」って、なんか恥ずかしいわ!
原題に合わせて『フィロミナの罪』とか『フィロミナの長い旅』とかなら、イメージも湧きやすいし、後々まで胸に残るだろうに、マーケティング上の理由かどうか知らないが、なぜ、わざわざ、ありふれた恋愛ドラマのようなタイトルをつけるのだろう。変に原題をいじらず、素直に考えてくれればいいのに……

と、いきなりケチをつけてしまったが、作品自体は文句なしの素晴らしさ。とにかく、チャーミングでイノセントな“イギリスおばちゃん”を笑わせながら見せてくれた名女優ジュディ・デンチの演技&存在感に脱帽の一作。彼女が画面にいるだけで映画の品格とクオリティが格段にアップするのだから、流石と言うほかない。
もちろん、脚本も見事(モチーフは「カトリックの黒歴史」…1950年代、アイルランドの修道院で行われていた人身売買)。罪の意識を抱えつつ、50年前に無理矢理引き裂かれた我が子を探す主人公フィロミナの旅と、「息子の行方」の真実を求めて彼女に寄り添うジャーナリスト「マーティン」(スティーヴ・クーガン)の心の旅を、フィロミナのセリフと仕草が醸し出す絶妙のユーモアで包みながら、社会問題に鋭く切り込むストーリー展開の妙。圧巻のラストに向けてズンズンと重く加速するドラマの緊迫感は、まるで極上のサスペンス映画を観ているような迫力だ。

そして、息子の消息に関する驚きの真実が明らかになり、かつて母子を引き裂いた非道なシスターに向けて放った、フィロミナの一言の気高さ……

エンドロールが流れる中、私は、体中から余計な力が一気に抜けていくような、心地よい余韻に浸っていた。

以上、タイトルの微妙な恥ずかしさに惑わされてはいけない。凄い女優が演じた、しなやかな魂の物語、ここにあり。

2014/04/09

桜の季節の映画話①



「人間にはすべての行為が許されている。でも、それは何も許されていないということと同義なのだよ」と、意味不明なことをしかつめらしく語る友人に薦められて、ドストエフスキーの大長編『カラマーゾフの兄弟』を読んだのは、19才の頃だったと思う。(後で気づいたが、その友人の言葉は、無神論者である次男イヴァンのセリフ「神がいなければ、すべてが許される」が“ネタ元”だった)

今となっては物語のあらすじもよく覚えていないが、ロシアの広大な大地のイメージと小説のスケール、そして、全編に漂う強烈なニヒリズムに圧倒され、自分の存在すら不可解かつ無意味に思えるほど、激しく心が揺れたことは強く記憶に残っている。
そんな昔を思い出しながら、渋谷アップリンクで観た映画『ドストエフスキーと愛に生きる』……原題は『THE WOMAN WITH THE FIVE ELEHANTS』(五頭の象と生きる女)。

40年にわたって、ロシア文学のドイツ語翻訳に心血を注いだ女性、スヴェトラーナ・ガイヤーさん(撮影時84歳、201087歳でこの世を去った)の数奇な半生を追ったドキュメンタリーだ。(彼女が呼ぶ“五頭の象”とは、ドストエフスキーの長編5作「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「白痴」「未成年」「悪霊」のこと)

1923年、ウクライナのキエフで生まれた彼女は、スターリン政権下の1930年代に多感な少女時代を過ごした。1937年、父親はいわゆる“大粛清”によって逮捕、1年半の獄中生活を経て奇跡的に解放されるが、1939年、獄中で受けた拷問の後遺症によって亡くなる。「人民の敵」とされた家族に将来の望みはなく、15歳のスヴェトラーナに、母親は“将来のために”と外国語の習得を勧め、彼女は敵性語であるドイツ語を学ぶ。そして、独ソ戦勃発からまもなくウクライナはドイツナチスの占領下に……期せずしてスヴェトラーナの語学的能力はすぐにゲシュタポの目に留まり、ドイツ軍の軍人の下で働くことになる。その後、ドイツ軍がスターリングラードでの戦いに敗れキエフを撤退、ソ連軍のウクライナ侵攻が予測される中、スヴェトラーナはドイツ軍への戦争協力の追及を恐れる母とともにウクライナを去ることを決意し、ドイツ・ドルトムントへ。

ドルトムントでは、東部出身者向けの捕虜収容所の実習生として働いていたが、ドイツ人の篤志家の助力で異例のフンボルト奨学金を得ると同時に、母親共々外国人在留パスポートが交付され、二人はドイツ南西部のフライブルクへ移る。戦後、フライブルク大学でドイツ学と比較言語学を学び、その地でクリストムント・ガイヤーと結婚するも10数年後に離婚。翻訳と教職で生計を立てながら二人の子どもを育て、1992年にドストエフスキーの5大巨編の翻訳を開始。以来、それをライフワークとして生き続けた。

映画は、ドイツの小都市の郊外で、自分の審美眼にかなった調度品に囲まれて静かに暮らすスヴェトラーナの日常をスケッチし、ナレーションと彼女自身の回想で、その人生を綴る。
クライマックスとなるのは、65年ぶりのキエフ帰還……孫娘と訪れた故郷ウクライナ、キエフへの旅が、ロードムービーさながら、暗鬱なトーンで詩情豊かに描かれていく。
その旅程で、スヴェトラーナは「少女時代に飲んだ井戸の水を、死ぬまでにもう一度飲みたい」と言う。それが、ただ一つの願いだと。しかし、故郷の人々に尋ね歩いても井戸は見つからず、異邦人を見るような冷ややかな視線を背に、その足でスターリン時代に死んだ父の墓に向かう。


「私には負い目がある」と映画の冒頭で語った「故郷喪失者」の計り知れない孤独と寂寥感……その姿、そして思考の深さを物語る知的な表情に見入りながら、私はふと、彼女が“誰かに似ている”と思った。が、「誰だろう?」と考える間もなく気が付いた。そうだ、オシムさんだ。
もちろん、元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムは男性だが、豊かな才能と感性を持つ人に過酷な人生がもたらした精神の奥行、戦争や紛争の記憶が深い皺となって刻まれている顏、そして深く美しい箴言の数々を紡ぎだす無償の魂の在処は、確かに似ている。(それぞれの生涯の仕事、サッカーと文学への深い愛情も同じ)

そんなことを思いながら観ていると、カメラはウクライナの中学校(高校?)へ……名翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの話を聞きに教室に集まった子どもたちに、彼女は『豊かなエレミア』というロシア童謡の一節《エレミアが魚を捕まえると、魚は彼に話しかけた。彼は言葉を理解し、魚の助言で冒険の旅に出る。その結果、皇帝の娘の心を射止め、彼自身が皇帝になる》を紹介しながら、こう呼びかける。
「きっと貴方たちも、人生の中で、いつか言葉を話しかける魚に出会うはず。その言葉は、必ず理解できます。自然や科学の法則は関係ありません。だから勇気を出して、内なる声に従うこと。たとえそれが、世の中を支配している多くの者たちの声に逆らうことになったとしても」

私はその言葉を聞きながら、何故か、201111月に、プータン国王が福島の小学校で子供たちに語った「心の中に棲む龍の話」を思い出していた。

ということで、一人の女性の厳しい人生と深く静かな言語の世界に触れる作品。ぜひ、ご覧あれ。(今年も、ドキュメンタリーの当たり年かも!?)

以下、映画の中で語られるスヴェトラーナ・ガイヤーの美しい言葉たち。

ドストエフスキーの文章は宝探しのよう。
二度、三度と読んで
初めて見つかるような宝石が、
目立たない場所に隠されているから。
すでに訳したことがあっても、訳しきれない。
それこそが、おそらく最高の価値を持った
文章である証拠です。

翻訳は常に全体から生まれるものです。
全体を見て、愛さなければ、
一つ一つを理解出来ない。
文章の全体を、自分の中に取り込む。
ドイツ語では“内面化する”と言います。
文章を自分の内側に取り込んで、
心と一体化するのです。

人はなぜ翻訳するのか?
きっと逃れ去ってゆくものへの
憧れかもしれない。
手の届かぬオリジナルを…
究極の本質を求めること
途方もない言葉ね
「憧れ」
何て素敵な言葉かしら。

※映画撮影中、息子ヨハネスが交通事故の後遺症により死去。その3年後、スヴェトラーナ・ガイヤーは87年の生涯を閉じた。