思いのほか長引いた風邪も癒え、30日(木)は久しぶりに「ポレポレ東中野」へ。
大阪・貝塚市東町(昔は「嶋村」という地名)で江戸時代から7代に渡り「屠畜」を生業にしてきた一家を追ったドキュメンタリー『ある精肉店のはなし』(監督:纐纈あや)を観てきた。
作品の舞台となる「北出精肉店」は、生産直販(牛を飼い、牛を解体し、その肉を販売する)という全国的にも珍しい形態をとる家族経営の精肉店。先代の静雄さん亡きあと、その長男・新司さん、次男・昭さん、長女・澄子さんの三兄弟と、新司さんの妻・静子さんの手によって支えられている。
映画は、その精肉店の牛舎から出された1頭の牛が、昭さんに曳かれて住宅街を闊歩するシーンから始まる。牛の行く先は市営の屠畜場……そこで待機していた新司さんが牛を導き、広いコンクリートの床に立たせて数秒後、画面に家族の緊張が走り、牛の額に突起のついたハンマーが振り下ろされる。ガクンと膝を折って倒れた牛の眉間から脊髄に向けて、素早くワイヤーが通され神経を破壊、気絶した牛はもう痛みを感じない。心臓が動いているうちに頸動脈を切り体中の血を流しきる。あっと言う間の生の終わりと新しい価値への再生。その先は、新司さんがたった一本の包丁で皮を剥ぎ、肉を切り分け、立派な「枝肉」となるまで、家族総出の解体作業が見事なチームワークで流れるように手際よく進行する。(もちろん、皮も内臓も丁寧に処理され、一切無駄なものがでない)
屠畜に要する時間は約1時間。映像的には15分程度だったと思うが、そこまでの流れで私は完全にスクリーンの虜。初めて目にした「屠畜」の生々しさが脳裏から薄れるくらい、芸術的で巧みな職人技に魅せられ、圧倒され、職能への敬意の念とともにその伝承の歴史に対する興味が沸々と湧き、「北出精肉店」の人々から目を離せなくなってしまった。
と同時に、私たちに成り代わって「屠畜」という精神的にも肉体的にも厳しい作業を行ってくれている人たちがいるからこそ、私たちは美味しい肉を食べることができる。「いただきます」は、文字通り「いのちをいただく」ことであり、命は命によって生かされている。そんな当たり前のことを、改めて頭と目と胃袋で気づかせてもらった気がした。
そしてカメラは家族や地域の日常を追いながら時間軸をさかのぼり、《ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの世の悪夢のうちにも、なほ誇りうる人間の血は涸れずにあった》という「水平社宣言」の一文を捉え、今も根強く続く差別と被差別の歴史を観る者の胸に知らしめる。
新司さんも昭さんも高校時代に「水平社宣言」を読んで部落解放運動に参加。以来「差別をする側の意識を変えるためには、自分たちの体質を変えていくことが一番大事」と考え、新司さんは本業の中で見据えた命の大切さとその本質を「食文化」を通じて多くの人に訴求するとともに、講演会等で「屠畜」という職業への誇りを語りながら人権教育にも力を入れる。昭さんは、自ら皮をなめし“だんじり太鼓”をつくり地域の「祭り文化」に貢献する傍ら、府内の小中学校での体験学習にも出向き子供たちの「太鼓作り」を指導している。それは「解放運動」というより新たな文化の創造――。優しく穏やかな新司さんのたたずまいが印象的だ。
その後、映画は地域の年中行事を仮装や踊りで思いっきり楽しむ「北出家」の明るい笑顔を描写しつつ、その奥にある「自分たちの仕事を隠さず、ちゃんと胸を張って、村のことを考えて差別をなくす」という一家の真意も捉えて、最後の「屠畜」へ。
2012年3月、102年続いた屠場が、「獣の魂」に祈りを捧げる北出家の人々に見守られながらその歴史に幕を下ろした。
こうして108分の映像が終わり、何故か熱い胸に残ったものは、「食卓の向こう側」で生きている人々への尊敬と感謝の思い。
帰りがけも、素晴らしい映画と家族に出会えた嬉しさのせいか、傘を握った手は冷たさを感じず……そして不思議なことに屠畜の生々しい場面を凝視したにも関わらず食欲増進。久しく食べてないサーロイン・ステーキが無性に食べたくなった。
で、昨日の『ごちそうさん』(NHK朝ドラ)を観て“ステーキ欲”はさらに急上昇。丁度、仕事のギャラも入ったし、今日の晩メシは迷わずワイン&ステーキに決めた。
※ちなみに、屠殺シーンや部落問題をタブー視する「テレビ局の掟」があるらしく、この映画がテレビで紹介されることはないようだ。(特に、アホな会長が就任した某局では無理だろうなあ)
0 件のコメント:
コメントを投稿