2013/01/16

遠い日の記憶


それは、確か18歳の夏。

黒のジーンズ&Tシャツ、黒メガネに下駄という不穏ないでたちで、当時、赤坂にあった映画製作プロダクション「創造社」をアポなしで訪ねた私は、ドア越しに応対してくれた30前後の男性(名前は忘れたが、Mさんということで)にいきなり「次に作る映画の製作スタッフに加えて欲しくてお願いに来ました」と申し出た。

いま思えば「バカか、お前は」と自分を罵るほかない無謀かつ失礼な話だが、日常と非日常が日々街中に混在していたような時代、何故か彼は私の妙な勢いに興味を持ったらしく「多少時間はとれるので、とりあえず中で伺いましょう」と、黒いソファが数点置かれている応接室(といっても部屋らしい部屋は、その一室だけ)に招き入れてくれた。

そこでも図々しく、勧められもしないのに一番居心地の良さそうなソファの真ん中に腰を下ろした私に、Mさんは困惑気味に「その席は、ちょっとマズイなあ」と一言……どうやらそこは誰も座ってはいけない“監督さん”の定席。なのに礼儀知らずの私は「座る場所に拘るなんて権力と闘う人らしくないですね」と、生意気なことを呟いて大儀そうに席を移動(ホント、ムカつくガキだ!)、それでも彼は優しく微笑んで、かれこれ2時間近く好きな作品の話を交えながら「映画を武器に権力と闘いたい、社会を変えたい」などと青臭い熱弁をふるう無礼な若者の話に熱心に耳を傾けてくれた。(その間、応接室に立ち寄った今は亡き俳優の渡辺文雄さん、小山明子さんに「スタッフ希望の方です」と紹介されながら)

で、物静かに見えたMさんも見かけによらず熱い人らしく「キミの話は面白いなあ」と楽しげに目を合わせ、「ゴッホの自画像を観た瞬間、激しい衝撃を受け自分の人生が変わった」などと同世代の友人のように自分の体験を語り、最後に「今度、沖縄を舞台にした映画を撮るから、それに参加できるよう監督に頼んでみます」と約束してくれた。

もちろん私は、喜び勇んで「創造社」を後にしたのだが、後日Mさんから「かなり力を入れて監督にお願いしたけど、既にスタッフが決定していて全く空きがないそうです。申し訳ない」という連絡があり、Mさんの取り計らいに感謝の言葉を返しながら若き日の無謀なチャレンジは終幕を迎えた。(流れる月日と共に、映画製作への拙い夢も道も消滅)

以来、その“監督”の映画を観たのは、スタッフとして参加するはずだった『夏の妹』と『戦場のメリー・クリスマス』だけ。(それ以前は、『青春残酷物語』、『日本春歌考』、『儀式』など……まさにアヴァンギャルド。鮮烈だったなあ)
『朝まで生テレビ』にコメンテーターとして出るようになってからは、その存在にすらほとんど興味を失ってしまった。

でも、私にとっては今も忘れられない「創造社」の設立者であり、日本のヌーベルバーグの旗手として時代の先端を果敢に駆け抜けた映画監督「大島渚」……長い闘病生活の果ての死去に際し、静かにそのご冥福を祈りたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿