ドラマ『新聞記者』
1月13日にNetflixで世界配信が開始され、国内はもちろん、台湾・香港を始め海外でも少なからぬ反響を呼んだドラマ『新聞記者』(脚本・監督:藤井道人)。
もちろん、主人公役の米倉涼子、事件のキーマンで総理夫人付きの官僚を演じた綾野剛(今や日本映画界を代表する俳優の一人と言ってもよいのでは?)をはじめ、役者陣の演技も素晴らしかった。(ユースケ、田中哲治、吉岡秀隆、田口トモロヲ、でんでん……みんなに拍手!)
ただ惜しむらくは、観る者を引きつけるスピード感やスリリングさはイマイチな印象、韓国ドラマのヒット作のように次のエピソードが待ち遠しくなるようなインパクト、爆発力は秘めておらず、恐らく続編もなく一過性の花火で終わる可能性大。(テーマ的にこれで終わるのは、少しもったいない気がするけど)
海外的にも〈ドラマ後半は、日本が国民の無関心によって不正の沼に陥っている国だと明確に示している。より良い政治を求めるなら、一人ひとりが個人として声を上げなければならない、このドラマはそう言っている。〉と、5つ星中3つ星(要するに、普通)を付けた英・ガーディアン紙の評価が一般的だろうし、「日本はこんなにひどい国なのか」「なぜ、大きなデモが起きないの?」的なネガティブな感想・疑問はあっても、それ以上のポジティブな反応は期待できないように思う。
ところで「組織の中では言いたいことも言えないリアルな日本人の姿」(言い換えると「立場主義」)は、世界の人たちにどのように映ったのだろうか……。
60代最後の年。といって格別な思いも、これといった具体的な目標もないのだが、かなり前から、人生の節目として「若い頃によく読んだ太宰の小説を今一度、読み返してみるか…」とは思っていた。
で、数日前、古い文庫本やCDを収めている階段棚から『パンドラの匣』をチョイス。 その中の『正義と微笑』を読み始めた。
日記の形式で書かれたこの小説の主人公は資産家の息子で16歳の芹川進。彼には、帝大の英文科に4年前に入ったものの未だ卒業せず、毎晩、徹夜で小説を書いている兄がいる。進はそんな兄を「兄さんは頭が悪くて落第したのではなく、正義の心から落第したのだ」と敬愛しており、彼に教えてもらったマタイ伝(六章・第十六節)の中の言葉に刺激を受け、日記の開始にあたり「微笑もて正義を為せ!」というモットーを掲げる。
というのが、物語のイントロ。そこからつらつらと読み進めると、進が尊敬する中学教師の言葉として、太宰流「学問のすすめ」と言ってもよい箇所にぶつかった。
《勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!》※カルチベート=「耕す」「〈才能など〉をみがく、高める、洗練する」
さすが太宰!と手を打ちたくなる含蓄に富んだ一節。今さら「真にカルチベートされた人間になる」のは無理としても、せめて「自分を耕し続ける」一年にしなきゃなあ…と、思う。