久しぶりに映画の話。
9月はタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に始まり、中国の名匠ジャ・ジャンクーの新作『帰れない二人』、そして、往年のスター、バート・レイノルズの遺作となった『ラスト・ムービースター』で締め、10月は『ホテル・ムンバイ』でスタート…という感じ。
まず『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(監督:クエンティン・タランティーノ/製作:2018年、アメリカ・イギリス)から。
《レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットという2大スターを初共演させ、落ち目の俳優とそのスタントマンの2人の友情と絆を軸に、1969年ハリウッド黄金時代の光と闇を描いた作品》。必然、世間の話題はディカプリオとブラピの競演に集まっていたが、ストーリー的な陰の主役は、名匠ロマン・ポランスキーと結婚した後、狂信的なカルト信者たち(表向きはドラッグと乱交パーティに興じるただのヒッピー集団)によって惨殺された女優「シャロン・テート」。(映画の中の彼女は、ちょっとおバカな雰囲気も魅力的に感じる可愛らしい女優さん)
なので、観る者はブラピ&ディカプリオという現在のハリウッドを代表するスターの競演に目を奪われつつ、アメリカのヒッピー・カルチャー(LOVE & PEACE)衰退の起点ともなった、その歴史的かつ悲惨な夜へと導かれるわけだが、笑いと恐怖が背中合わせになったような微妙な緊迫感の中、最後に私(たち)が目にするものは切なくも心温まるタランティーノ流「おとぎ話」の妙。その極上の後味に酔いながら、見事なまでに貫かれた彼の“ハリウッド愛”に唸らされる傑作だった。
「ミセス・ロビンソン」(サイモン&ガーファンクル)、「ホテル・カリフォルニア」(イーグルス)、「ザ・サークル・ゲーム」(バフィー・セントメリー)、「カリフォルニア・ドリーミン」(ホセ・フェリシア―ノ)などなど、タランティーノ選曲による60年代の音楽もグッド!
続いて、激変する中国の現代社会を背景に、裏社会で生きる男女の17年にも及び愛の物語を描いた『帰れない二人』(監督:ジャ・ジャンクー/製作:2018年、日本・フランス・中国)。
中国ではマフィアやギャングが暗躍する裏社会のことを「黒社会」あるいは「江湖」と呼ぶらしいが、何故「江湖」の人物に焦点を当てたのか?と問う声に、ジャ・ジャンクーはこう答えている。
《1949年に共産主義が勝利した後、中国の“江湖”は徐々に消えていきました。『帰れない二人』の登場人物たちは70年代後半の改革開放後に台頭し、文化大革命の暴力の遺産を受け継ぎました。彼らは80年代の香港ギャング映画から道徳や規範を学びました。中国社会が大きく変化していく中で、お互いを助け合い生き延びるために、独自の人間関係の築き方を発展させていったのです。私は常に、愛も憎しみも恐れない“江湖”のラブストーリーに興味がありました。この映画で描いている2001年~18年の間に、人々の伝統的な価値観や暮らし方は、跡形もないほど変化しました。しかし、“江湖”の人々は独自の価値観や行動規範、掟を守り抜きました。それがとても興味深く、魅力的だと思ったのです。》
『青の稲妻』然り、『長江哀歌』然り、ジャ・ジャンクーは、いつも、新旧の世界の関係を描く……加えて言えば、新しい世界の生き方に馴染む事の出来ない(あるいは上昇志向の波に乗れずに捨て去られる)人々を描く。その姿勢は本作でも変わらない。逞しく潔い主人公チャオ(チャオ・タオ)と、かつての栄光を喪い堕ちてゆく恋人のビン……愛と自我に引き裂かれながら、時の移ろいの中に取り残されていく男と女。その頑な魂の有り様が、世界と自分のつながりを断ちきらせるかのように観る者の孤独に触れてくる。
その束の間、茫漠とした思いの中で味わう広大な景色、映像の豊かさ・美しさ。何故こんなにも、ジャ・ジャンクーの作品は懐かしさと寂しさを掻き立てるのだろう?チャオとビン、ふたつの魂の強い圧を受けながら、その答えを探す映画の旅は、観終った後も続いているようだ。(その余韻の深さこそ、ジャ・ジャンクーの魅力)
以上。次回は『ラスト・ムービースター』と『ホテル・ムンバイ』(の予定)。
P.S.
「あいちトリエンナーレ事件」……少女像展示に対する批判から、「御真影を焼いた」というワケの分からない批判に方向が変わってきた感じ。(にしても「御真影」って……「大日本帝国復活」でしょうか?)
「あいちトリエンナーレ事件」……少女像展示に対する批判から、「御真影を焼いた」というワケの分からない批判に方向が変わってきた感じ。(にしても「御真影」って……「大日本帝国復活」でしょうか?)
昨日(8日)も、ネトウヨ、レイシストを引き連れた“名古屋の迷惑おやじ”河村たかし市長が「日本国民に問う!陛下への侮辱を許すのか!」というプラカードを手に会場前で“抗議の座り込み”を行ったようだ。(その時間、たった7分!! どうせやるなら気合いを入れてやれよ!と叱咤したくなるほどの情けなさ。もう笑うほかなし)
で、“そもそも”だが……「天皇の写真を焼いたのは誰か」を、抗議する側の人たちは分かっているのか?という疑問。(問題になった作品の発端である、1986年に起きた「美術家・大浦信行さんと天皇コラージュ事件」を知らないと話にならない)
上記アドレスの記事にあるように、当時、大浦さんは昭和天皇の写真をコラージュした作品を富山県立近代美術館に出品したわけだが、それに対し右翼団体などが美術館や県教育委員会に猛抗議…怖気づいた美術館側が右翼団体に屈する形で作品を撤去、図録も焼却処分にしたという経緯があり、その後、同美術館と同じ行いとして天皇の写真を燃やす行為を別の作家が映像に記録して突きつけたというわけ。その前提を知らずにイデオロギー丸出しで議論をしても全く意味がない。(要するに、昭和天皇の写真を焼いたあの作品は、天皇の写真をコラージュした作品を検閲の上、非公開とし、後に図録も焼却した富山県に対しての批判であって、天皇制への批判ではない。そこを端折って市行政のトップまでが「天皇を侮辱=日本を侮辱するものだ」とデマで煽り、それをネトウヨが真に受けるという“バカの連鎖”の方が、補助金不交付と共に問題視されるべきこと。もちろん、天皇の写真を「御真影」などと呼んで神聖視するのもナンセンス極まりない)
というわけで、こんなトンチンカンな人間を、心ならずも市行政のトップに据えてしまった名古屋市民が気の毒でならないが、日本国憲法を行動原理にする大村知事の「論理」と、未だに大日本帝国憲法を引き摺っている河村市長の「非論理」の争いになっているあたりは、とても面白いところ。
あちこちで見られる今の日本の政治的対立の構造を、分かりやすく可視化してくれたという意味では、「南京虐殺」を否定する歴史修正主義者としても有名な河村市長にも感謝すべきか?…と思う。(本音は、「今すぐリコール!」だけど)
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