新元号が「令和」に決まった。もともと天皇制がなければ元号もないわけで、「令和」という言葉の良し悪しを論じる前に(「令」という字はイヤだけど)、メディアも国民も「天皇制」について考える、あるいは話し合う機会にするべきでは?……と思うが、今や天皇制も元号制度も完全に不問にふされた感じで、議論にすらならない。それを「象徴天皇制が国民に浸透した証」と言う人もいるが、単に多くの日本人が考えることを避けている(サボっている)だけのような気がする。(しかも、婉曲な“人権宣言”と同時に明仁天皇が発した「象徴天皇とは何か?」という切実な問いかけをも無視する形で)
だから「改元」(&天皇制)は今もこれからも、簡単に時の政治権力に利用され(安倍が長々と煩いくらいに自己宣伝)、日頃くだらない事で騒いでいるメディアも官邸の広報機関になったみたいにお祝いモード一色……
大勢の人が新元号の「号外」に群がり(新宿駅南口)、我先にと奪い合う姿にはバカバカしさを通り越して、空恐ろしささえ覚えてしまった。(「令和」には、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているそうだが、早くも文化の末路が見えた感じ)
というわけで、特に元号を拒否しているわけでもないのに、何だか妙に寂しく気分が晴れない一日。国を挙げてのバカ騒ぎに付き合うのもイヤで、「令和」に決まった頃は、駅前のサブウェイで岡崎京子の『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』(平凡社)を読みながら、ぼんやりと、こんな一節に心を揺らしていた。
《百億万年前はきっとここは海の底だ。つまらなそうだね、こんな話。もうお終いにするけど、つまりこういうこと。風景や歴史や世界のほうがぼくらよりずっと忘れっぽいということ。
百年後のこの場所には君もぼくももういない。ぼくたちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?》
百年後のこの場所には君もぼくももういない。ぼくたちは世界に忘れ去られているんだ。それって納得できる?》
4月3日(水)
令和、令和と、飽きもせずに「改元狂騒曲」が続く中、気分転換を兼ねてツレと一緒にTジョイへ。オスカー(作品賞)受賞作『グリーンブック』(監督:ピーター・ファレリー/製作国:アメリカ、2018年)を観てきた。
人種差別をテーマにしながらも、多くの人が“「ほっこり」した気持ちになった”と評価するだけあって、主人公二人の交流に焦点を当てたヒューマンドラマとして上々の出来栄え。誰もが楽しめそうな後味の良い映画だったが、人種差別及び性的マイノリティを描いた映画を観て、「ほっこり」なんかしていて良いものだろうか?という素朴な疑問が湧いてきたのも事実。
ちなみに、車中での二人の会話シーンで妙に気になった「フライドチキン」だが、もともとは奴隷の人たちが作り上げた料理で、その文化を白人が横から奪い取った典型としてアメリカでは広く認識されているらしい。なるほど、だから「黒人なのにフライドチキンを食べたことがないのか?」という台詞なわけだ。
4月5日(金)
『神宮希林 わたしの神様』(監督:伏原健之/配給:東海テレビ放送、2014年)を録画鑑賞。
昨年9月に亡くなった女優・樹木希林が、20年に一度の式年遷宮の年である2013年に、人生で初めてのお伊勢参りに向かった旅をとらえたドキュメンタリー。
タイトル通り、伊勢神宮を樹木希林が案内する作品か……と思いきや、主役は「伊勢神宮」ではなく、やはり樹木希林。(東海テレビと樹木希林のカップリングによるドキュメンタリーは何本か観たが、いつも楽しく魅力的)
希林さんの人生観・生活観、日本人の宗教観など、独特のトーンで語られていく様を観ながら、改めて素晴らしい表現者だなあ…と思った。
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