2018/11/30

韓国3人旅②


2日目(11/13)
5時起床、6時半ホテルロビーに集合。すぐにバスに乗り込み、百済の都「扶余(プヨ)」へ。

途中、ドライブインで朝食。寒い朝だったが、アツアツの「スンドゥブチゲ(豆腐鍋)」を食べ、体ポカポカ。(少し残念な話だが、この「スンドゥブ」が、旅行中に食べたものの中で一番美味しいものになった)

で、扶余に着く前に、ちょっとだけ百済観光の予習……
百済は、高句麗、新羅と並ぶ古代朝鮮の国家(王国)のひとつで、紀元前18年から660年の滅亡まで約700年間31人の王が在位。建国当初は漢江(ハンガン。今のソウル)の中下流に位置する小国だったが、次第に周辺の小国を併合して成長。漢江流域に慰礼城を築いて都を置いたが、その後、国の中興のために熊津(ウンジン。現在の公州)、泗沘(シヒ。現在の扶余)へと都を遷した。(建国から、紀元後475年に高句麗に首都のソウルを奪われて熊津に遷都するまでの時代を「漢城時代」、公州に都を定めた475年からの時期を「熊津時代」、538年に聖王が泗沘に遷都してからの時期を「泗沘時代」と呼ぶ)
泗沘時代には新羅と手を組み、漢城時代の土地を奪還するが、最終的に新羅は百済を裏切り、その土地を百済から奪ってしまい、聖王は新羅との戦いで戦死。その後、武王の時代には高句麗と結託して新羅に攻め込むが、最後の王となる31代義慈王の時代、新羅は唐(中国)と同盟を結び、660年に百済、668年には高句麗を滅ぼす。そうして朝鮮半島は、統一新羅時代(668~900年)へと向かう……

というわけで、滅亡までの間、外国とも積極的に交流を図りながら、高句麗、新羅とともに韓国の古代文化の発展の中核的な役割を果たし、東アジアにおける文化交流を担った百済。その最期の都「扶余」での最初の見学地、百済後期を代表する寺院址「定林寺址」へ。

定林寺は、泗沘遷都後に建立されたとされる仏教寺院。今では、だだっ広い敷地内に五層の石塔と百済滅亡後の高麗時代に造られたという本尊像「定林寺址石仏坐像」(見ていて飽きがこないというか…実に穏やかな佇まい)が残っているだけだが、百済時代には塔、金堂、中門講堂などがあったとか。(石仏に見入っていたら、ツアーに同行している女性カメラマンの李(イ)さんに「韓国のお参りの仕方を教えるからやってみて」と促され、一人、その像の前に跪き、手を伸ばしてひれ伏す羽目に……)




「定林寺址」見学後(見学時間約50分)、次の目的地「宮南池(クンナムジ)」へ。

宮南池は、武王(第30代王)の時代の634年に、王の別邸に造られた韓国最古の人工池(蓮の花が水面を覆い、周囲には柳が植えられるなど、日本の造園技術にも影響を与えたとされる池)を復元したもの。百済末期、王たちはこの池の中央の東屋で酒宴を繰り広げていたそうだが、周りの柳も枯れ、蓮池に花も咲かないこの時期、観光客もまばらで少し寒々とした雰囲気。東屋に向かう橋を渡ってみても、その華やかな宴の面影を感じとることはできなかった。
ちなみに「武王」は、(私は観ていないが)日本でも人気を集めた韓国ドラマ「薯童謠(ソドンヨ)」の主人公・薯童のこと。「宮南池」は、「薯童(ソドン)公園」の名で市民に親しまれているそうだ。




30分ほどの散策後、私たちのバスは扶余を離れ約120キロ先、世界遺産の街「水原(スウォン)」へ。
そこでの見学はただ1ヵ所。世界文化遺産「水原華城(スウォンファソン)」のみだが、その前にまずは腹ごしらえ。昼飯時なのに私たち以外の客がいない少し寂れた店で「サムパブ定食」をいただく。

「サムパブ」は、甘味と若干の辛味のあるタレに漬けこんで焼いた牛肉をサンチュやシソの葉の上に乗せ(好みでニンニクスライス&味噌を加えて)、それを包んで食べると言う料理だが、労多くして功少なし。肉は固いし、タレで手は汚れるし、「肉と野菜が一緒に摂れてヘルシーだね」と言う以外、ほめる言葉が出てこない。(「サムパブ」という料理自体が口に合わないのではなく、この店の「サムパブ」がイマイチ)
添え物のチヂミも見るからに油っぽいし……と、やや気分がダウンしたが、改めて思えば「3泊4日29,800円」の格安ツアー。食事が合計4回付いているだけでも御の字。食材の質や味に文句を言えるような立場じゃない。(でもなあ…)

というわけで「サムパブ」の余韻を喉の辺りに残しつつの世界文化遺産見学となった。

水原の街の中心部に高く聳える水原華城は、朝鮮王朝後期の1794年、第22代王・正祖(チョンジョ)が、37万人の労力と2年9ヶ月の月日をかけて建てた歴史的建造物(1997年に世界文化遺産に登録)。広大な敷地(総面積130ha)の中には、華城行宮(ファソンヘングン)を中心に全長5.7キロにおよぶ城郭と4つの城門(東の蒼龍門、南の八達門、西の華西門、北の長安門)、砲台、兵士の休憩所、訓練所などデザインと形の異なる50の建築物があるとのこと。
故に、城郭を一周するだけで3~4時間かかるらしく、見学時間30分ほどの私たちが観たのは、ほんの一部。青色の旗がなびく城郭の斜め下方、市内を一望できる高台からの眺めは素晴らしかった。




「水原」を離れ約1時間、バスは再びソウルの街に。

夕方から夜にかけてのソウル観光&ショッピングということで、バスが最初に停まったのは、ベンツ、BMWなど高級車が駐車場に並ぶ建物(ホテル併設型カジノ店)の前。その華やかなエントランスから中に入り約40分の「カジノ体験」……のはずだったが、ゲームのやり方が分からないし、レクチャーしてくれる人もいないし(元々ヤル気もなかったが)、無料のジュースを飲み、ツレと駄弁りながら、ルーレットに興じる人たちを眺めていただけ。その「体験」の感想はただ一言、「カジノなんて、日本にはいらない」
(内外の富裕層が集まっているのかと思ったが、見た目も地味で普通の労働者っぽい人がほとんど。どのテーブルも余裕でゲームを楽しんでいるような風情はなく、どこか異様な空気が漂っていたが、それもそのはず。「バカラ」というトランプゲームでは1回に50万円以上も賭ける人がいて、1分足らずの勝負で数百万の金が動くとか??……あな恐ろしや、すぐにでも「カジノ法」を廃止すべし!)

カジノの次は、免税店でのショッピング。何も買うつもりはなかったが、試食して美味かった高級韓国のりを土産用に購入。その後、街中の大きな居酒屋風の店で「海鮮チゲ」を食べ、ホテルに着いたのは20時頃。少し部屋で休んでから、ツレとホテル近くの路地裏散歩……
ホテル前の道路を横切り、細い路地に足を踏み入れ1、2分。すると、狭い道の両側に、古い韓屋を改造したカフェやレストラン、焼肉の煙が立ち上る大衆酒場や露店居酒屋が立ち並び、閑散とした表通りからは想像もできないほどの熱い賑わい。すれ違う若者たちの楽しげで活気あふれる眼差し(特に女性たちの眼の力)、路上に響く男たちの言葉の激しさに、ようやく、ソウルに来たという実感が湧いてきた。








2018/11/27

韓国3人旅①


11月12日から15日まで、3泊4日の韓国(ソウル+百済)ツアー。(同行者はツレと義姉)


1日目
11時過ぎのジンエアーに乗り、仁川国際空港に着いたのは14時半頃。着後、ツアーバスに乗り1時間ほどでソウル市内へ。(ツアー客は総勢25名。男性は私を含めて4人、予想通り圧倒的に中高年女性が多かった)

車窓からソウルの街を眺めると、まず目に飛び込んでくるのは看板広告・案内板・店舗の窓などにデカデカと書かれたハングル文字。一瞬、不思議な記号の中にいるような気分になるが、メチャメチャ幅の広い道路を無数の車が凄い勢いで行き交う様や小さなエリアに密集して立ち並ぶ高層マンション(こちらでは「アパート」と呼ぶ)の姿など、東京とさして変わらない風景が眼前に広がり、外国に来た感じがしない。(郊外に小さな山が幾つか見えたが、街には緑も少なく、PM2.5の影響だろうか遠くの空が霞んでいた)

最初の見学場所は「北村韓屋村(プクチョンハノクマウル)」。
北村(ブクチョン)は、世界遺産になっている『昌徳宮(チャンドックン)』と『景福宮(ギョンボックン)』という王宮の間にある街並みのことで、韓屋(ハノク)と呼ばれる伝統的な作りの民家が多く残る場所。現在は一般の人が生活する住居地域だが、朝鮮王朝時代は王族や高級官僚たちの住居街だったそうだ。
近年は、「冬ソナ」をはじめドラマのロケ地としても知られ、多くの韓流ファンからも注目を集めているとのこと。見学時間は約20分と少し短め。坂道と外国人観光客の多さ、そして豪華なチマチョゴリ(を着た女性たちの姿)だけが印象に残った。




次に向かったのは、ソウルの中心部を流れる人工河川「清渓川(チョンゲチョン)」。
人工といっても、もともとは人の手で造られたものではなく、約40年前までソウル中心部の西から東に流れていた立派な川だったが(全長約8キロ)、李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代から市民の生活排水を流す川でもあり下水の臭いや洪水などの問題が常にあり、何度も工事を繰り返したものの改善されず1978年に暗渠化。その後、ソウル市民の復元を求める声の高まりの中、2002年4月のソウル市長選で「復元」を公約に掲げた李明博〈イ・ミョンバク〉が当選したことを機に復元事業が始まり、2005年に世界的な注目を集めた大工事の末、復元したそうだ。(ここも20分ほどの見学・散策……“ソウル市民の憩いの場”らしいが、この日は私たちを除いて人影もまばらで、どこか寒々とした印象。噴水もオブジェも水の流れも“作り物っぽさ”満載で、観光スポットとしての面白味は薄く感じた)


その後、ツアーバスは“韓国のアメ横”と称される「南大門市場(ナンデムンシジャン)」へ向かい、降りるとすぐに夕食タイム。
市場に向かう人波を縫いながら、ガイドの申さん(自称、昔は「吉永小百合」、今は「岸本加代子」似の50代の元気な女性)の案内で入った所は、ちょっとノスタルジックな「大衆食堂」……韓国語(ハングル)・日本語併記のメニューを見ながら3人が頼んだのは「石焼ビビンバ」「餅いり餃子鍋」「海鮮チヂミ」&ビール。3品とも価格通りに(1品あたり7000~10000ウォン。10000ウォン=約1000円)至って普通の味で、特に“美味い!”と感嘆するものはなかったが、キムチやナムルなど小皿に盛られたおかず(パンチャン)はすべて無料で“おかわり自由”。その気前良さが実に嬉しく、十分に満たされた気分に。食後は、20分ほど市場を散策しながら時折カメラでパチリ、パチリ…。










ライトアップされた「南大門」をバックに記念撮影した後、バスに乗り込み、向かった先はソウルの夜景を一望できるという「北岳スカイウェイ」。

途中、交通渋滞に巻き込まれ、申さんから「韓国では毎日のように市民デモがあり、その影響で車が渋滞する事が多い」とのアナウンスあり(韓国の人たちにとってデモは日常的な光景であり、それによる渋滞もごく自然に受け止めている様子)。さすが、学生・市民の手で軍事政権を倒して民主化を勝ちとった国。
政権の欺瞞性に気づきながら、それを追及せず、抗うこともしない自らのだらしなさを棚に上げ、「野党がだらしないから(政権を追い込めない)」と、その責任をすべて野党に押しつけることで、政権及び与党の支持率維持(&上昇)に加担している日本の世論やマスコミとは大違い。旅の束の間、隣国の民主主義と市民のパワーがとても羨ましく思えた。

で、北岳から見たソウルの夜景だが……都会のイルミネーションに慣れきっている人間からみれば、ごく普通の街の輝き。同行者たちも「この寒さの中で夜景を見せられても、あまり嬉しくないよね~」という感じで、これまたお年寄りご一行様にとっては魅力に欠ける場所。5分かけて展望台に上り、僅か23分で観賞を終え、冷気に体を震わせながらバスの中へと急いだ。


20時過ぎ「イビスアンバサダーホテル仁寺洞(インサドン)」着。22時過ぎ就寝。




2018/11/11

11月初旬メモ

11月2日(土)「寺山修司展」鑑賞
朝9時半に家を出て、副都心線に乗り池袋・渋谷経由で(みなとみらい線)元町・中華街駅へ。
地上5階の6番出口(アメリカ山公園内)から、ゆっくり歩いて20分(途中「港の見える丘公園」で横浜ベイブリッジを望み、園内の「バラ」を眺めつつ)。大佛次郎記念館の横「霧笛橋」を渡ったところに「神奈川近代文学館」があった。





文学館入口へ続くスロープの脇には円柱が並んで立っており、一本目に「失いし」という言葉が書かれていた。その次の柱には「言葉がみんな」、さらに三本目には「生きるとき」。そうして柱を辿り、言葉を繋げていくと短歌になる。

失いし 言葉がみんな 生きるとき 夕焼けており 種子も破片も

初期歌篇『十五才』の一首だが、「定型という枷が僕に言語の自由をもたらした」と語った若き日の寺山の心象を表す言葉によって、訪れた人の想像力を掻き立てながら展示室へと誘うという仕掛けが何とも“らしく”思え、少しニンマリしながら館内へ。

寺山の秘書兼マネージャーを務めた田中未知氏が長年収集・管理してきた資料を中心に構成された展示室は、俳人、歌人、詩人、小説家、脚本家、作詞家、劇団主宰、映画監督、競馬評論家等々、1960年代から80年代初頭のカルチャーヒーローとして、多彩な顔を持つ「寺山修司」にふさわしく、部屋全体が彼の脳内世界といった感じの空間。
有名な一首「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」など、天井からも紙に書かれた言葉が垂れ下がり、時折、吹き流しのように観客が歩く微かな風に揺れていた。
(短歌、小説、シナリオ等のほか、展示物の中には、大学時代の友人で脚本家の山田太一からのハガキ、自ら作詞しミリオンセラーになった「時には母のない子のように」のシングルレコード、競馬観戦のために愛用した双眼鏡なども…)






そうして1時間ほど寺山の世界に心地よく浸った後はランチを兼ねて“横浜散歩”。文学館を出て「港の見える丘公園」を抜け、外国人墓地脇の坂を下ったあたりが元町エリア……ということで、元町商店街をそぞろ歩きしながら中華街へ。「鳳林」で石焼XO醤焼きそばを食べ、「華正樓」で土産の大月餅(黒餡)を買い、いきなり降られた雨に濡れながら帰路に就いた。

11月5日(月)
隣駅のTジョイでマイケル・ムーアの話題作『華氏119』を鑑賞。

映画の中で、アメリカ国民は基本リベラル左派であるとムーアが語っていたのが印象的。LGBT、移民、中絶、大麻、国民医療保険等の単一論点(シングルイシュー)では6割以上がリベラルな立場をとるそうだ。ではなぜ議会、大統領、最高裁は保守派なのか? 
ムーアには、リベラリズムが「リベラルエリート」という新たな支配層を生んでしまったという危機意識があるようで、そうしたリベラルエリートたちの欺瞞(誤魔化しの政策)や利益優先の行動がトランプの道を開いたと、現大統領を斬った刀で民主党のエスタブリッシュメント(主にビル・クリントン、ヒラリー・クリントンに代表される中道派)やトランプを見くびっていた大手メディアを痛烈に批判していた。
(現在、民主党内部は、トランプが人種、民族性、ジェンダーなどについて保守的・反動的な発言を繰り返すことへの反発として党内左派が活気づいているが、ムーア自身もバーニー・サンダースへの共感が強いようだ)

で、映画の中でマイケル・ムーアが最もシンパシーを抱き「反トランプ」の象徴として肯定的に描いていたのは、今年2月に起きたフロリダ州高校銃乱射事件の生還者となった高校生たちが始めた草の根銃規制運動と民主党の保守性に呆れて立ち上がった革新系活動家たちの姿。

ムーア監督曰く「いま求められているのは、希望を語ることではなく、行動する事」。銃規制運動の象徴的存在となったエマ・ゴンザレスの怒りと悲しみに満ちたスピーチが強く胸に響いた。

※明日(12日)から3泊4日の韓国旅行(ソウル+百済)。オプションで「自由の橋」「統一展望台」にも行く予定。



2018/11/02

「心機一転!」の11月に…したいなあ。




天童荒太の小説『ペインレス』に出てくる「体の痛みを失った青年(切られても、刺されても、打たれても、何ら痛みを感じない男)」も、生命の危機を察知できないという意味で甚だ厄介な存在だと思うが、日々痛みを感じる体を持っているというのも、それはそれで困ったものだと思う。

何の話かというと、10月頭に「頸椎症」と診断された私の首・肩・腕の件。駅前のペインクリニックに通い始めて早1ヶ月になる。(そういえば、『ペインレス』の主人公・野宮万浬もペインクリニックの医師だった)

現在、治療(週2回→1回の硬膜外ブロック注射、その間に神経根ブロック注射1回)により発症当初の激しい痛みは感じなくなったものの、未だ右肩から腕にかけて薄い鉛板が入っているような重だるさは消えず、鈍い痛みに襲われることも度々。(ショルダーバックを下げて遠出したり、右手で重い物を持ったりすると痛みが増すこともあり、ちょっとした買物や料理にも余計な気を遣わざるを得ない…という少し煩わしい日々を送っていた)

その“鈍い痛み”と嵩む治療費(1回のブロック注射で約5000円)のせいで、ここ数週間は気分的にもスッキリせず、持ち前?の好奇心も、人並み?の思考力も低下気味。
TVドラマ(「リーガルV」「僕とシッポと神楽坂」「フェイクニュース」「大恋愛」「今日から俺は」等)や「サンドイッチマン」のコント動画、「せやろがいおじさん」の新作等で気を紛らわす程度で、映画も本もとんとご無沙汰……何事にも集中力を保つのが難しく、ブログもだいぶ滞ってしまった。
(シャルル・アズナブールの死。「全員野球」ならぬ全員“ライト”の第4次安倍改造内閣。昔の仲間11名との「貝掛温泉」お泊り飲み会。安田純平さんの解放。ポール・マッカートニーのニュー・アルバム『エジプト・ステーション』。9月中に読んだ小説『宝島』、『彼女は頭が悪いから』、『ぼくがきみを殺すまで』の感想など、書き留めたいことは多々あったが)

というわけで、あまりパッとしない10月だったが、ここ3、4日はブロック注射効果の現れだろうか、肩・腕の具合も良く、少しずつ以前の体に戻ってきた感じ。

必然、気分向上。行動意欲も湧いてきて、一昨日(31日)は新宿で映画2本をハシゴ(「シネマート新宿」で『1987、ある闘いの真実』を観た後、「Ks cinema」に直行し『まぼろしの市街戦』を鑑賞)……お陰で帰りの電車内で肩と腕に軽い痛みが出てしまったが、極上の作品をダブルで観た満足感からか、「なんくるないさー」と前向きな気持ちにもなれた。(その日は夕食後に、シネフィルWOWOWで至高の名作『スモーク』まで観ることができ、超ひさしぶりの“映画三昧”)

あの美智子妃も苦しまれているらしい「頸椎症」とは長期戦になりそうだが(原因がハッキリしているので、焦らず、気長に付き合うだけ)、11月は「34日の韓国旅行」(ツレと義姉との3人旅)など、楽しみな予定も控えており、何とか「心機一転!」といきたいところ。

で、明日は、神奈川近代文学館で開催中の特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」を観に行くつもり。(ブログもボチボチやっていきます)