2016/02/29

猫と暮らせば



空前の猫ブーム……だそうだ。

家族同様に10年以上世話しなければいけない大切な生き物のことを、流行りのゲームやファッションのように「ブーム」などと軽々しくいってほしくはないが(別に、命に流行り廃りがあるわけじゃなし)、どうやら、その「ブーム」の背景にはSNSの普及があるようで、《熱狂的な猫好きたちがSNSを通じて様々なコンテンツを発信し活動することが、結果的に猫ブームを牽引している》《“好きなときに好きなものを好きなだけ”といったSNS社会に生きる現代人にとって、猫の習性である自分勝手さ、気ままさ、自由奔放さが感覚的にマッチするのかもしれない》と分析する人も多い。

はて? そうだろうか。避妊、去勢、室内飼育が当たり前の今の社会は、言い換えれば人間の飼育上、住環境上の都合で猫の自由や生殖本能を奪わざるを得ない社会。猫はそれほど勝手気ままに生きているわけではない…と思う。

先日(18日)、新宿で観た『猫なんかよんでもこない』という映画の中でも(時代設定は20年前くらいか?)、外で元気に遊んでいたメス猫(チン)が、避妊した途端にオス猫や遊び仲間から見向きもされなくなって、飼い主である主人公の部屋にこもりっきりになってしまったシーンがあり胸が傷んだ。(逆に、「近所のボス猫にしたい」という主人公の勝手な思い入れで去勢しなかった黒猫は、めでたくボス猫になった後、喧嘩での傷から猫エイズに感染し死んでしまうのだが…)

完全室内飼育によって、大幅に猫の寿命は延びたが(平均寿命15歳。野良猫は34歳)、「長生きが幸せ」と言いきれないのは人間社会も同じ。
4年も前から猫と暮らしている身ながら、今も「お前が傍に居てくれて俺(たち)は嬉しいけれど、お前は楽しいだろうか、幸せだろうか。早死にしようが、どこかの路地で、仲間と一緒に遊んでいた方が自由で幸せだったのではないのか」と、よく思う。
もちろん、何の答えも返ってこないし、猫にとっての幸せなんていくら考えてもわかるわけがないのだけれど、そう思う度に愛着だけが深まっていく妙なパラドックス……多分、ヤツが死ぬまで、ずっとそんな矛盾した思いを繰り返しながら付き合っていくのだろう。(気楽に育てられるどころか、本当に切ないほど厄介な生き物だ)

映画(『猫なんかよんでもこない』)のラスト近く、部屋の中で病に伏していた黒猫(クロ)が突然起き上がって外に飛び出し、自分がボスとして牛耳っていた路地裏を、懐かしむようにゆっくりと歩き回っていた。そして満足気に部屋に戻ったクロは、すぐに横たわり、その日のうちに冷たくなった。

愛しい思いは、やがて深い悲しみを連れてくる。

だから、偶然の出会いでもない限り「猫なんか飼わない方がいいよ」と、世間の猫ブームに水を差したくもなるが、「ジャック(愛猫)とは、あの世でもいっしょ」くらいの気持ちでいる私が言っても詮無いこと。

……にしても、猫好きどころか、猫に興味すらなかった私が、なぜ、こんなにも愛着を抱いてしまったのだろう。と、今さらながらヤツとの出会いに、運命的なものを感じつつ、猫の魅力の不思議を思うのだが、そんな時、必ず読みたくなって開く本がある。

タイトルは『フランシス子へ』(講談社/20133月発行)……それは愛猫の死に際して語った吉本(隆明)さんの最後の肉声(をまとめたもの)。その一節にこんな言葉が書かれている。(ちなみに愛猫「フランシス子」の命名者は吉本さんではなく、娘さんとのこと)

猫っていうのは本当に不思議なもんです。
猫にしかない、独特の魅力があるんですね。
それは何かっていったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。

あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。

自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、ちょっとほかの動物ではたとえようがない気がします。

僕は「言葉」というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。

どうしてそんなことができるんだろう。
これはちょっとたまらんなあって。

もちろん気の合う猫、合わない猫がいるし、僕らの知らないところでは猫さんもちゃんと勝手気ままに猫流の遊びかたをしているんだろうけど、フランシス子とは自分の外側の、自分以外の誰かとここまで一致することがあるのかって思いましたね。

うつしそのもの。
自分のほかに自分がいる。

……やはり、猫は人生の不思議。吉本さんが言うように、自分の「うつし」なら尚更、どちらが先に逝こうと、あの世まで付き合うほかないのかもしれない。

 

2016/02/18

「ことばの爆弾」(『戦後入門』読書メモ)



バイトの日は早目に家を出て、勤務先駅前の「ドトール」で珈琲を飲みながら、1時間ほど読書するのが最近の習慣。いま読んでいるのは加藤典洋の『戦後入門』……

《日本ばかりが、いまだ「戦後」を終わらせられないのはなぜか。この国をなお呪縛する「対米従属」や「ねじれ」の問題は、どこに起源があり、どうすれば解消できるのか――。世界大戦の意味を喝破し、原子爆弾と無条件降伏の関係を明らかにすることで、敗戦国日本がかかえた矛盾の本質が浮き彫りになる。憲法9条の平和原則をさらに強化することにより、戦後問題を一挙に突破する行程を示す決定的論考。どこまでも広く深く考え抜き、平明に綴った本書は、これまでの思想の枠組みを破壊する、ことばの爆弾だ!》

という心そそる刺激的なメッセージが扉カバーに書かれているが、ウソ偽りなくその通り、まさに目からウロコの「ことばの爆弾」。
《もうこれまでのような、またいまも散見される、つまみぐいのような「戦後」についての語り方はやめたほうがよい》と語る著者が、《先の戦争でこてんぱんに負けた日本は、面白い。私は、この国には世界に平和構築を呼びかける大きな可能性が秘められていると思っています。そのことを、面白がろう。そしてその可能性の大きな穴を、のぞき込んでみよう》という気宇壮大な野心で挑んだ600頁以上に及ぶ大作だ。

仕事前の60分、頁にして20数頁。ページの端を折ったり、傍線を引きながら、「現実に、政治を動かす「力」であろうとする理念とは?その目指すべき方向性とは?」という本著の核心に向かって読み進め(時折「加藤先生」に難しい宿題を課せられているような気分で)、現在400頁を少し越えたあたり。最終章となる【第5部 ではどうすればよいのか――私の九条強化案】に突入……いよいよ、クライマックスが近づいてきた。

で、その章のはじめから、頭にグイグイくる言葉の連続。現在に続く日本の米国への「軍事基地の提供」が法的に担保されることになった「サンフランシスコ講和条約」(195198日調印、同日「日米安保条約締結」)、それに基づく日米行政協定の調印に関連して、こんな一文が書き連ねられている。(けっこう長くなりますが…)

《(前略)1949年以降、連合国側との講和が問題に上がってきたときには、その独立のあり方――完全な独立か、半分の独立か――をめぐる指標として、ポツダム宣言に規定された「占領軍の撤収」がどのように実現されるかが、争点として浮かび上がりました。そこでの対立は全面講和か、片面講和かという形をとります。主に革新勢力からなる全面講和派は、現下の東西冷戦のもとで、日本は「非武装・中立」を掲げて両陣営を架橋する存在となるべきで、そのためには国連に加入し、また、経済的自立を果たすためにも、全交戦国との全面講和をめざすのがよいと訴えました。ついては、「再軍備」および外国の軍隊への「基地提供」には、断固反対するというのが、彼らの主張になりました。
一方、片面講和派は、東西冷戦のもとで、「非武装・中立」路線は非現実的であり、日本としてはいち早く講和にこぎつけ、まず自由主義圏の国々と国交を回復した後においおい他の国とも講和するのがよいと訴えました。その方針で進む吉田茂を首班とする日本政府は、そのころまでには、「ソ連を除く片面講和の実現と平和条約締結後のアメリカ軍の駐留継続という方向」に意見を固めつつありました》

《こうした吉田内閣の方針は、ポツダム宣言受諾のときの日本側の理解と了解を大きく裏切るものでした。そのため、これへの反対は、二つの方向から起こることとなります。一つは、全面講和の主張の延長に現れる革新側からの反対です。その後、60年代初頭まで、反基地闘争が全国で展開されますが、それは、――後に反米ナショナリズムとまじりあう傾向が強まるにせよ――基本は、ここに示された全面講和の主張を基本に据えたものでした。
(中略)もう一つは、保守陣営のなかに、吉田の従米姿勢への反発から起こってくる反対です。55年に吉田を除外するかたちで保守合同が成立し、自民党が生まれると、自主外交、憲法改正が党是に掲げられ、自民党内部の鳩山・岸による政治的アプローチが試みられます。それはともに政治的な対米自立をめざすもので、鳩山は自主外交による日ソ国交回復によって、岸は日米安保条約を平等で双務的な条約に近づけることで、それぞれ、目的の達成をめざしました。
しかし、それは「戦前と戦後のつながり」に足場をおいたナショナリズムに立脚する反対の動きである点、先の全面講和の主張の流れを汲む反基地闘争とは異なっています。吉田の対米協調・従属路線に対し、基地反対闘争が、「日本国民が講和を通じて全面的に世界の諸国民と自由で誠実な関係を結ぶ」国際主義、国連中心主義につながる平和主義を理論的支柱としたのとは異なり、自民党内部の反吉田派は――石橋湛山などを数少ない例外として――、吉田の姿勢を軟弱で対米従属の度がすぎると、ほぼ国家主義、ナショナリズムに立って、これに反対したのです。私の考えでは、ここに対米従属路線への反対における最大の分岐点がありました。
ナショナリズムか、インターナショナリズムか。これが、じつは大きな意味をもっていたのです。
大事なことは、当時、全面講和派の主張が、きわめて困難ではあるにしても、必ずしも不可能でないと受けとめられていたことです。》

という鋭い視点と深い考察から、著者は「対米独立に際しては、ナショナリズムに立脚するのでは脈がない」と明快に言い放ち、“私の考え”の方向性をこう指し示す。

《――それは(ナショナリズムは)反米に結びつき、戦後国際秩序からの離反をもたらし、国際社会での孤立を結果し、現状変更のために第三次世界大戦による日本の挑戦と、再度の国家破滅にしか私たちを導きません――、インターナショナリズム(国際主義)に徹すること、そして、そのための(対米独立のための)方途として、米国に代わる国際社会との主要窓口=連携先として国連を選ぶ、国連中心主義を採用するという点にあります。
いわずもがなのことをつけ加えれば、この方向設定の一つの力点は、これが、米国と敵対関係に入ることなしに米国から独立し、互いに平等な友好関係に移行する唯一無二の方法だということにあります。けっして、反米に陥らないこと、米国との友好関係を堅持しながら、中国、韓国、ロシアとも健全な友好、信頼関係を築き、長く将来にわたって持続可能な経済的な安定と安全保障をめざすこと、最終的に北朝鮮とも安定的な国交関係に入り、第二次世界大戦後の「全面講和」を達成することが、念頭におかれています。》

《そう考えるとき、私たちの手にあるカードとして、憲法九条が、このインターナショナリズムの最重要の存在であることが見えてきます。それは、19458月の第二次世界大戦の終結が開いたひとときの窓として、国連の理想と連動しながら、戦後の国際秩序の「夢」と結びついた、日本が現在も有する唯一の戦後国際秩序の核心とのあいだの紐帯だからです。》

そうか……私も薄々は気づいていたが、最早「保守」「リベラル」という括り方に、政治的にも信条的にもほとんど意味はない。とりわけ「第9条」をめぐる理念的バックボーン(及び政治的対立軸)としては、「ナショナリズム」か、「インターナショナリズム」か、という問いかけに改めてシフトせざるをえないということ。(もちろん、私は「第9条」を守り、活かすために「インターナショナルリズム」を志向したい)

さて、残り200頁余り。どんな「ことばの爆弾」が炸裂するのだろう。

2016/02/13

《淡路島・明石》旅の記


先週の水・木・金は23日の小旅行。丁度2年前の「台湾4人旅」のメンバーに女子2人を加えた総勢6名で「淡路島・明石」に行ってきた。
3年前に友人Y君絡みの仕事で訪れた明石に、もう一度行ってみたい……という私の願望から生まれた企画だが、それをベースに同行の2人がひと味加えてくれて、今回の「神話&グルメの旅」に至った次第。宿・レンタカーの手配、行程などは仕切り上手な“敏腕”経営コンサルタントY君にお任せ)

1日目(23日):羽田→伊丹→三宮→淡路島
羽田発11時、伊丹着1210分(ツレが貯めたマイルのお陰で飛行機代が浮いた)。空港リムジンバスで三宮へ。三ノ宮から1445分発の高速バスに乗り(新神戸から乗車したY君夫妻と車内で合流)、明石海峡大橋を渡って淡路島・洲本バスセンターに着いたのは1615分。次の便で来るO君夫妻を待つため待機した。(待合室の椅子で寝ている猫を発見。撫でると気持ちよさそうに少し顔をもたげたが、目は瞑ったまま。ウチのジャックに爪の垢を煎じて飲ませたいくらい、泰然自若、まったく動じる気配がない)

1645分、O君到着。全員揃いレンタカーで「洲本城」(築城は1526年)へ(大手門まで車であがれた)。日も暮れかかっていたが、歴史を感じる高い石垣に目を奪われながら本丸天守台を目指し、5分ほどで到着……さすが水軍の城として築かれた城。城下のみならず、海上を一望できる天守台からの眺めが素晴らしい。だが、日本最古と言われる鉄筋コンクリート製の模擬天守がイマイチ。「石垣はいいんだけどね~…」と話しながら坂道を下りた。






再び車に乗り込み、1時間ほどで今日の宿、淡路島最古の旅館「やぶ萬」に到着(既に18時半)。大急ぎで風呂に入り、宿自慢の「淡路島3年とらふぐ」(お気軽コース)の“てっさ”が並ぶ食卓に就いた。まずは、ビールで乾杯。続いて、てっさ・てっちりを食べながら、地酒、ひれ酒、ひれ酒、ひれ酒……と、呑んで、駄弁って、ほぼ2時間。
で、一旦散会し、再び一部屋に集まって、Y君持参の日本酒を呑みながら2次会。かれこれ2時間近く、お互いの近況やスポーツ、芸能、時事問題など四方山話で楽しく旧交を温め、気さくで話し上手で時々ドジな法学者のO君が「ヤルタ会談」の舞台裏について話し終えたところでお開き。


2日目(24日):淡路島(うずしおクルーズ、道の駅うずしお、おのころ島神社、伊弉諾神宮)→明石
7時起床。9時に宿をたち、車で5分「福良港」へ。1010分出港の「咸臨丸」に乗り込む(定員500名、けっこうな大型船)。寒い風に震える中、「咸臨丸」はカモメを従えながらゆっくり進み、約20分で大鳴門橋の下、太平洋と瀬戸内海の潮がぶつかる地点に到着。次々に渦が発生する中を大きな円を描くように走行し、迫力の大パノラマが展開……皆、寒さも厭わず船べりに集まり、語らいながら壮大な景色に見入った。
こうして、1時間ほどの楽しいクルーズが終了(下船後、6人で記念撮影)。道の駅「うずしお」に向かった。

道の駅での目的はお土産とランチ。淡路島の名産「玉ねぎ」を買い(棚に居並ぶ商品は、煎餅、スイーツ、スープ、ドレッシング、レトルトカレー、ラーメン等々、とにかく強烈な“玉ねぎ押し”)、昼食を済まし(全国ご当地バーガーグランプリ第1位の「オニオンビーフバーガー」を食す)、「おのころ島(自凝島)神社」へ。

神社のランドマークになっている巨大な鳥居(日本三大鳥居の一つとか)をくぐり、石段を上がって正殿に着くと右手に神社の説明と歌碑あり。ここに祀られているのは、イザナギ、イザナミの2尊。『古事記・日本書紀』の国生み神話によると、この2尊が、天の浮橋の上に立って天の瓊矛(アマノヌホコ)で青海原をかきまわし、その矛先からしたたり落ちた潮が凝り固ってできたのがこの自凝島。イザナギ、イザナミは島に降りて、淡路島をはじめ日本の国土を生んだとされている……が、神社自体は日本神話誕生の地とは思えないほど地味でひっそりとした佇まい。バカでかい鳥居だけが異様に目立っていた。

で、続いて行った淡路島の象徴的なパワースポット「伊弉諾(イザナギ)神宮」(古事記・日本書記の神代巻に創祀の記載がある最古の神社)……背筋がピンと伸びるような厳かな風に包まれるのでは?と思いきや、表門のすぐ横に自民党の参議院議員「山谷えり子」の立て看板。入って正面の拝殿の横には「1000万賛同署名 憲法改正の実現を」と書かれた“のぼり”がはためいていて、一気に興醒め。
極右政治団体「神道政治連盟」を要し、天皇が親政も行う「祭政一致」を主たる目的に「憲法改正」(大日本帝国憲法の復活)を目指す悪名高い(?)神社本庁の別表神社ということで、ちょっとイヤな予感はしていたが、ここまで露骨に政治臭を漂わせているとは思わなかった。
当然、参拝する気もなくなり、境内にどっしりと生える樹齢900年のクスノキ(夫婦大楠)を眺めただけで拝観終了。(神社本庁とは別の理由で「改憲論者」のO君は「なにを改正したいのかが問題だよね」とつぶやき、Y君は「憲法改正をうたう神社で参拝なんかできるかよ」と言いながら、三者三様の気分で神社をあとにした)






その後、車は洲本バスセンターへ(ここでレンタカーを返却)。1540分発の高速バスに乗り込み、明石へ。(「高速舞子」で下車し、JRに乗換え2駅で明石)

着いたのは午後5時過ぎ。その日の宿「グリーンヒルホテル明石」に一端入り、午後6時ロビーに集合。明石をよく知るY君の話に耳を傾けながら(ほとんど自分が行った飲み屋の話)ゆっくり町を眺め歩き、今宵の店『いそざかな 一とく』の暖簾をくぐった。

店に入るや否や、Y君が小上がり席に座っている方に「先生」と声をかけられ笑顔で軽く挨拶。明石に本社がある自動車部品メーカーの社長さんだった。
2階に用意された席に付くと、すぐに、その社長から赤・白2本のワインが差し入れられ、再びY君が階段途中まで下りお礼のあいさつ。(以前、インタビュー取材でお世話になった私もY君に促され「その節は…」と挨拶。厨房から顔を覗かせた板長さんにも「あの時の味が忘れられなくて」と一言)
その後は、板長の「おまかせ」にオーッと小さく歓声を上げつつ、飲んで飲んで 飲まれて飲んで……3年前に食べ損ねた「鯛めし」も味わい大満足の夜だった。(O君が「風邪をひきそうかも?」ということで2次会なし。ホテルに帰って即寝)

3日目(25日):明石→神戸
5時半頃目が覚め、7時半、朝食。9時過ぎ、ホテルに荷物を預け、明石城跡のある明石公園を30分ほど散策(とにかく広いが、模擬天守が無ければ普通の市民公園といった感じ)……その足で山陽電車に乗り一駅目の「人丸」で下車。徒歩2、3分で「明石天文科学館」に着いた。(玄関前の路上に子午線標識あり)
まず、エレベータで14階の展望室に上がり、明石海峡大橋・淡路島の島影などを眺めて4階「日時計広場」へ。自分の影で時刻が分かる「人間日時計」を試し、カメラに収めた。
3階は旧い時計や「子午儀」「三球儀」などが展示されているギャラリー&資料室。2階はプラネタリウム(時間の関係で入らず)、1階ロビーの水槽の中では、向井千秋さんと一緒に宇宙旅行をした「宇宙メダカ」の子孫たちが泳いでいた。11時半過ぎに見学を終え、外に出て天文科学館をバックに記念撮影。(近くの駐車場の方にシャッターを頼んだ)






その後、再び電車で明石に戻り“明石の台所”「魚の棚商店街」をそぞろ歩いて15、6分……商店街の出口付近の店で、O君が買った明石焼きを6人で軽くつまんでからホテルに。預けていた荷物を受け取り、すぐにJRで「三宮」に向かった。
三宮での目的はただひとつ「神戸ビーフランチ」。(店はY君が予約してくれた「鉄板ダイニング法貴」)
神戸牛も美味かったが、気心知れた仲間との楽しい旅の終わりに飲むビールの味も、また格別……
店を出た後、Y君夫妻はそのまま旅行継続(神戸に泊まり、翌日は2人で姫路城)のため、「じゃあ、また」と片手を振りながらお別れ。O君夫妻と私たちはJRで新神戸へ。

夜まで神戸散策のO君たちとも「また、一緒に行こうね」「うん、次は外国かなあ」と言葉を交わしながら駅で別れ、16時少し前の「のぞみ」に乗り帰路に就いた。


2016/02/02

海と水の記憶(『真珠のボタン』を観て)



先週の水曜(27日)、ドキュメンタリー映画『真珠のボタン』(監督:パトリシア・グルマン/製作国:フランス、チリ、スペイン)を観に、渋谷「アップリンク」へ。

年に3、4回は行く「アップリンク」だが1階の“FACTORY”で観るのは初めて。アップリンクXほど小さくもないし(座席数58席)、列ごとに割と高い段差がついていてスクリーンが見やすく、椅子の座り心地もまあまあ良い。(ホームシアターに毛が生えた程度の映画小屋といった感じの「X」も嫌いじゃないが、中高年的に腰が辛い)
観客は30人程度(平日昼間のアップリンクにしては、かなり多い)。水曜のせいか女性客の姿が目立ち、男は私を含めて5、6人。上映開始は1320分、予告編の後、本編が始まった……

冒頭、ボタンが入った氷の塊がスクリーンに映し出される。(数分間じっくりと)

そのあと、静かな波の音とゆらぎ音のような深みのある優しい声が流れ(ナレーションも監督パトリシア・グスマン)、まるでプラネタリウムを観ているような感覚に捉われながら、全長4300キロという長い国土が太平洋に臨んでいるチリの歴史へ誘われる。

氷山、宇宙、ビッグバン……チリの海と水の起原を示唆する壮大なイメージ映像に、ふと眠気を覚えつつ「これは、本当にドキュメンタリー映画なのか? 単なる宗教チックなヒーリング映像ではないのか?」という疑念に襲われるが、頭に響くグスマンの声が静かにそれを振り払い、驚くべき壮絶な歴史が語られていく。

無数の島や岩礁、フィヨルドが存在する世界最大の群島と海洋線が広がるチリ南部の西パタゴニア。そこには、かつて水と星を生命の象徴として崇めた先住民・インディヘナ(「インディオ」は、その蔑称)が住んでいた。
「水の言葉」を持つ海洋民の彼らは、星と交信し、海を家族として穏やかに生きていたが、その海の彼方からやってきた植民者の迫害(大量虐殺など)によって、絶滅の危機に瀕する。(18世紀に8000人が暮らしていたこの地の住人は20人に激減しているそうだ)

そして19世紀前半、パタゴニアに探検でやってきたイギリスの船が4人の先住民を《「野蛮人」を「文明化」する》という目的のため拉致。イギリスに連れて行くための「代金」として、その中の一人の家族に、「真珠のボタン」を渡したという。その男は「ジェミー・ボタン」と名付けられた。それがタイトル「真珠のボタン」の意味……何というおぞましい話だろう。

だが、その悲惨さに戦慄するのはまだ早かった。

続いて語られたのは、チリの「9.11」……1973911日、当時の陸軍総司令官アウグスト・ピノチェトによる軍事クーデターによって、アジェンデの民主政権が倒された。その後、米国CIAが加担したピノチェト独裁政権下で、アジェンデ政権時の大臣や支持者ら1400人が拷問や虐待を受けたのち殺害され(あるいは生きたまま)海に捨てられたという。(証言者によると、死体を重石代わりの鉄道レールに縛りつけて、ヘリコプターや船で海に捨てたそうだ)
実際、海からは腐食したレールが見つかり、そこに殺された人のものだと思われる「真珠のボタン」が張り付いていた。カメラはそれをしっかりとらえ、チリの美しい自然の中で流されてきた多くの血を観る者に思い起こさせながら、その二つの歴史的蛮行を繋ぎ紐解き、誰しも殺戮の被害者、あるいは加害者になりうることを示唆する。

海が語る記憶……それは、独断的な思考によって愚行を繰り返す人類への警告であり、その愚かさを忘れず、己のものとして乗り越えようとする人たちへの期待を紡ぐもの。

映画の中で引用されている「考えるという行為は、すべてのものに適応するという水の能力に似ている。人間の思考の原理は水と同じだ。あらかじめ、あらゆるものに適応できるようできているのだ」というテオドール・シュベンク(ドイツの流体力学者)の言葉どおり、いつの時代にあっても、どんな軋轢の中で生きていようとも、思考の柔軟性を持ち続けよ。と映像を通して語っているように思えた。

力作にして、初めて観る詩的かつ哲学的ドキュメンタリー映画。今後、大好きなチリワインを呑むたびにこの映画を思い出すに違いない。南米を代表するドキュメンタリー作家「パトリシア・グスマン」の優しい声の語りとともに。