空前の猫ブーム……だそうだ。
家族同様に10年以上世話しなければいけない大切な生き物のことを、流行りのゲームやファッションのように「ブーム」などと軽々しくいってほしくはないが(別に、命に流行り廃りがあるわけじゃなし)、どうやら、その「ブーム」の背景にはSNSの普及があるようで、《熱狂的な猫好きたちがSNSを通じて様々なコンテンツを発信し活動することが、結果的に猫ブームを牽引している》《“好きなときに好きなものを好きなだけ”といったSNS社会に生きる現代人にとって、猫の習性である自分勝手さ、気ままさ、自由奔放さが感覚的にマッチするのかもしれない》と分析する人も多い。
はて? そうだろうか。避妊、去勢、室内飼育が当たり前の今の社会は、言い換えれば人間の飼育上、住環境上の都合で猫の自由や生殖本能を奪わざるを得ない社会。猫はそれほど勝手気ままに生きているわけではない…と思う。
先日(18日)、新宿で観た『猫なんかよんでもこない』という映画の中でも(時代設定は20年前くらいか?)、外で元気に遊んでいたメス猫(チン)が、避妊した途端にオス猫や遊び仲間から見向きもされなくなって、飼い主である主人公の部屋にこもりっきりになってしまったシーンがあり胸が傷んだ。(逆に、「近所のボス猫にしたい」という主人公の勝手な思い入れで去勢しなかった黒猫は、めでたくボス猫になった後、喧嘩での傷から猫エイズに感染し死んでしまうのだが…)
完全室内飼育によって、大幅に猫の寿命は延びたが(平均寿命15歳。野良猫は3、4歳)、「長生きが幸せ」と言いきれないのは人間社会も同じ。
4年も前から猫と暮らしている身ながら、今も「お前が傍に居てくれて俺(たち)は嬉しいけれど、お前は楽しいだろうか、幸せだろうか。早死にしようが、どこかの路地で、仲間と一緒に遊んでいた方が自由で幸せだったのではないのか」と、よく思う。
もちろん、何の答えも返ってこないし、猫にとっての幸せなんていくら考えてもわかるわけがないのだけれど、そう思う度に愛着だけが深まっていく妙なパラドックス……多分、ヤツが死ぬまで、ずっとそんな矛盾した思いを繰り返しながら付き合っていくのだろう。(気楽に育てられるどころか、本当に切ないほど厄介な生き物だ)
映画(『猫なんかよんでもこない』)のラスト近く、部屋の中で病に伏していた黒猫(クロ)が突然起き上がって外に飛び出し、自分がボスとして牛耳っていた路地裏を、懐かしむようにゆっくりと歩き回っていた。そして満足気に部屋に戻ったクロは、すぐに横たわり、その日のうちに冷たくなった。
愛しい思いは、やがて深い悲しみを連れてくる。
だから、偶然の出会いでもない限り「猫なんか飼わない方がいいよ」と、世間の猫ブームに水を差したくもなるが、「ジャック(愛猫)とは、あの世でもいっしょ」くらいの気持ちでいる私が言っても詮無いこと。
……にしても、猫好きどころか、猫に興味すらなかった私が、なぜ、こんなにも愛着を抱いてしまったのだろう。と、今さらながらヤツとの出会いに、運命的なものを感じつつ、猫の魅力の不思議を思うのだが、そんな時、必ず読みたくなって開く本がある。
タイトルは『フランシス子へ』(講談社/2013年3月発行)……それは愛猫の死に際して語った吉本(隆明)さんの最後の肉声(をまとめたもの)。その一節にこんな言葉が書かれている。(ちなみに愛猫「フランシス子」の命名者は吉本さんではなく、娘さんとのこと)
猫っていうのは本当に不思議なもんです。
猫にしかない、独特の魅力があるんですね。
それは何かっていったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。
あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。
自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、ちょっとほかの動物ではたとえようがない気がします。
僕は「言葉」というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。
どうしてそんなことができるんだろう。
これはちょっとたまらんなあって。
もちろん気の合う猫、合わない猫がいるし、僕らの知らないところでは猫さんもちゃんと勝手気ままに猫流の遊びかたをしているんだろうけど、フランシス子とは自分の外側の、自分以外の誰かとここまで一致することがあるのかって思いましたね。
うつしそのもの。
自分のほかに自分がいる。
……やはり、猫は人生の不思議。吉本さんが言うように、自分の「うつし」なら尚更、どちらが先に逝こうと、あの世まで付き合うほかないのかもしれない。