2026/08/13

雑感②


W杯が終わって。

724日の東京新聞に

W杯が終わった。長かった。スペインはさすがだった。スペインに“断交”を突き付けたはずのトランプがそのスペインの優勝ステージでうろついて邪魔だった。でも公式写真で削除処理されザマアミロ。インファンティーノも全部カネの米国的商業主義の象徴と化して気味悪かった。でも何よりノルウェーのハーランドを知れてよかった(ジャーナリスト・北丸雄二)》

というコラム記事が載っていたが、大会(特に最終日)の雰囲気を見事に要約してくれた気がした。

(今大会を通じて私が特に印象に残った選手はフランスのエムバベとノルウェーのハーランド。決勝戦は、もちろんスペインを応援。メッシはさておき、アルゼンチンのラフプレーは目に余る)

我が日本代表に関しては「着実にレベルアップしているが、世界のトップクラスとはまだまだ差がある」という印象。国民性と言ってしまえばそれまでだが、「団結力は世界一」などと胸を張っているうちは「優勝」なんて“夢のまた夢”。4年後、団結力+圧倒的な個の力が融合した日本代表を見たいと思う。

で、話は変わって……

私が初めてW杯を生でテレビ観戦したのは、日本代表が初めてW杯に出場したのは1998年フランス大会。以後、日本代表は7大会連続出場を果たし、私自身28年間で7度のW杯をテレビで楽しんできたわけだが、今回は素直に楽しむことができない雰囲気が(大会前から)漂っていた。まず指摘すべきはFIFAの露骨な拝金主義(放映権料やチケット代の高騰、試合進行に影響大のハーフタイムショー、商業目的のハイドレーションタイム等々)と政治への接近。

とりわけ“開いた口が塞がらない”くらい呆れたのは、FIFA202512月にノーベル賞の向こうを張って「平和賞」を新設し、あのトランプに授与したこと。そして平和賞を剥奪すべき事態になりながらも看過していることだ。(さらにトランプ政権の高官は戦争中のイランの代わりに優勝4回のイタリアを出場されるようFIFAに要請までした)

大会中にもレッドカードを受け一発退場となり自動的に次戦の出場停止が決まっていたアメリカ代表FWバログンが、FIFA会長インファンティーノへのトランプの電話により異例の「1年間の執行猶予」を適用し、バログンの出場停止処分を事実上棚上げするという信じられない出来事が起きた。

(それに対し、次期ドイツ代表監督となった我が敬愛する名将ユルゲン・クロップが出演中のTVを通じて「これは私たちのゲームであって、彼らのゲームではない。サッカーを何も知らない二人が、この件に関わるべきではない」と切り捨て、“さすが、クロップ!”と少し留飲を下げたが…)

正直、金の亡者インファンティーノが会長の座に君臨している限り、FIFAは露骨に拝金主義を継続・強化するだろうし、「いまやサッカーは、エアコンの効いたオフィスに居座っている、偉い人たちによって人質にされている」「このワールドカップは、そしてサッカーは一体誰のためのものなのか? ファンなのか? 選手なのか? それとも広告主なのか?」とクロップが憂え、危惧しているように、W杯自体を“売り”に出すかもしれない。もしそうなったら、私も当然、抗議の意思を示すため視聴ボイコットするはずで、心情的にも年齢的にも今回が最後のW杯になるかもなあ…と思った次第。

P.S.

大会期間中、友人から贈られた本『サッカーと愛国』(著者・清義明/イースト・プレス)を再読。改めてサッカーがいかにレイシズムと闘ってきたかが窺い知れる良書だと思った。

以下、その“良書”の結びの一節。元日本代表監督イビチャ・オシムのこんな言葉から始まる…

「サッカースタジアムは、そう、現代の教会のようなものかな。収入も生まれも、社会的地位も問われない。劇場とも違う。スタジアムになら誰でも行けるし、中に入ればみんな一緒だ。スタジアムは人々が生き延びるための支えなんだ。病んで傷ついた心の修理工場だな」

《サッカースタジアムは、メルティングポットである。カクテル光線のもとで戦うふたつのチームの旗のもとに、様々な人たちが集まる。富める者、貧しい者、強い者、弱い者、幸福な者、不幸な者、さらには善き者も悪しき者もすべてそこに集い、それが混沌としたまま、真っ向からぶつかり合う磁力作用の中にある。舞台は、国家や民族やコミュニティという、現代のセンシティブな問題である。何かが起きないはずがない。アフリカでサッカーが政治と密接に関連することを見てきた社会学者のダニエル・クンツラーは言う。

サッカーは人を団結させることもできるが、分断もできる。創造もできるが、破壊することもできる。(アナキストサッカーマニュアルより)

その原動力になっているのは、オシムが指摘するとおり、「病んで傷ついた心」なのであり、それはナショナリズムや民族主義に対抗する原理となることもできるし、逆に憎しみと排他的な感情を揺さぶることもできる。

政治やイデオロギーとスポーツを分けるべきだというのは正論であろう。だが、きっとそうはならない。ナショナリズムを解体する原理をもちながら、同時にそれを強化することもあるだろう。私はそれをスタジアムのカクテル光線のもとで、これからも体験していくになるだろう。》

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