先日、生物学者・福岡伸一さんのこんな言葉を目にした。
《…つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ》
《その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。
いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない》(4/6朝日新聞デジタルより)
言うならば「新型コロナウイルス」は、みんなが忘れかけた頃にふらっと家に帰ってくる「フーテンの寅さん」のようなもので、(感染から身を守る必要はあっても)戦うべき相手ではないということ。世界中で感染爆発が起こり、死者が続出する現状は、何とも辛く、悲しく、不自由なことこの上ないが、「ウイルスと共生する新しい生活」にお互いが慣れていくしかないのだと思う。
さて、外出自粛の日々が続く中、急遽加入した「ネットフリックス(Netflix)」で映画やドラマを楽しむ時間が増えた。(もちろん、朝のTVやネットでのニュースチェックは欠かせず、“ムカムカうんざり”の時間も増えたが…)
映画はすでに『サニー 永遠の仲間たち』(2011年)、『大統領の理髪師』(2004年)、『新感染 ファイナルエクスプレス』(2017年)の韓国映画3本&マット・デイモン主演の「ジェイソン・ボーン」シリーズ3本と『コンテイジョン』(2011年)の計7本。(すべて面白かったが、特にオススメは「サニー」!)
ドラマは主演・小林薫の「深夜食堂」をシリーズ1の頭から観だして、すでに26話目(この時期、こういう奥深い人情ドラマが染みる)……観ているうちに定番の「豚汁」をはじめ、「あさりの酒蒸し」「バターライス」などが食べたくなって、晩メシで“実践”することも。
(「豚汁」はツレの十八番。今までは豚小間で作っていたが、「深夜食堂」を観て豚バラに。ぐーんとコクが増した感じ。「酒蒸し」は刻んだニンニクを入れて蒸すのがコツ。炊き立ての白飯に小さじ1杯ぐらいのバターを乗せ、醤油を少し垂らして食べる「バターライス」も、旨し!)
という具合に、「外出自粛」をできるだけ前向きに捉え、時折友人たちとメールや電話で情報交換を行い、普段通りに政権・政策を批判しながら、今ある生活をできるだけ楽しむようにしているのだが、世間には「こんな緊急時に政府を批判するな」(いつなら批判すべきなの?)、「責任の追及、糾弾はウイルスが終息してからにしろ」(追及も糾弾もリアルタイムじゃなければ意味ないと思うが?)、「安倍さんも小池さんも頑張ってるんだから…」(「頑張ってるから」といって、間違った方向の努力を肯定しても良いわけ?)などと、70年以上も民主主義体制を採用してきた国の主権者とは思えないような言葉を大っぴらに発信する人たちも多いようで(糸井重里、山下達郎、スガシカオ、太田光、テリー伊藤など)……
「責めるな。じぶんのことをしろ」などと公然と呟けば、「あなたも私たちにかまっていないで、どうぞ自分のことをしてください」と速攻で返されるのは容易に推察できること。名コピーライター・糸井重里が「自家撞着」という言葉を忘れるはずもないだろうに…やはり駿馬も老いるか……と、がっかりすると同時に、少し淋しくも思った。
(「批判するな」を「責めるな」に置き換えているのも彼一流のレトリックだろうが、「あざとさ」だけが浮き立つ感じ)
(「批判するな」を「責めるな」に置き換えているのも彼一流のレトリックだろうが、「あざとさ」だけが浮き立つ感じ)
というわけで、太宰治『御伽草子・浦島さん』の一節。(「浦島さん」と「亀」の掛け合い)
浦島は苦笑して、「身勝手な奴だ。」と呟く。亀は聞きとがめて、
「なあんだ、若旦那。自家撞着してゐますぜ。さつきご自分で批評がきらひだなんておつしやつてた癖に、ご自分では、私の事を浅慮だの無謀だの、こんどは身勝手だの、さかんに批評してやがるぢやないか。若旦那こそ身勝手だ。私には私の生きる流儀があるんですからね。ちつとは、みとめて下さいよ。」と見事に逆襲した。
「なあんだ、若旦那。自家撞着してゐますぜ。さつきご自分で批評がきらひだなんておつしやつてた癖に、ご自分では、私の事を浅慮だの無謀だの、こんどは身勝手だの、さかんに批評してやがるぢやないか。若旦那こそ身勝手だ。私には私の生きる流儀があるんですからね。ちつとは、みとめて下さいよ。」と見事に逆襲した。
要するに、〈個別の批判内容〉を批判するのではなく、〈批判すること〉自体を批判すると、糸井さんのみならず誰もが自家撞着に陥るということ。「心をひとつに」とか「国民(日本全体)が一丸となって」とか、同調圧力が強まりやすいこの時期、特に気を付けないと。
P.S.
最近、「コロナウイルス」関連で、特に印象深かったのは、京都大学・ウイルス再生研の宮沢孝幸先生の「ウイルスの性質を周知することで、感染機会の80%削減を目指し、経済活動の崩壊を防ぐ」という主張。北大の西浦教授や白鷗大学の岡田先生が言う「接触機会80%減」ではなく、「感染機会80%減」……「この日本で接触機会80%減なんて、どう考えても無理じゃない?」と思っていた矢先、宮沢先生の一連のツイート及び解説動画(なぜか、今は非公開になっているが)を見て“目からうろこ”。とても優れた提案だと思った。
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