2月13日(金)
隣駅にあるTジョイで『クライム101』(監督:バート・レイトン/製作2026年、アメリカ・イギリス合作)を鑑賞。
一切の痕跡を残さず、また誰も傷つけることなく、高価な宝石を鮮やかに盗み取る事を己の美学とする主人公デーヴィスと彼を追う壮年の刑事ルー(地道な捜査で犯人を追う真摯な姿勢。それゆえに組織の中では邪魔者扱い)、そしてふとしたきかっけで事件に関わる事になる保険会社の女性シャロン(女性蔑視の上司によりキャリアの道を閉ざされている)の物語を軸に描かれるクライム・サスペンス。
私の好きな作家ドン・ウィンズロウ作品の映画化ということで「さて、どんなものか?」と半ば疑いながら観たのだが、そんな疑念は無用の良作(私流に勝手に解釈すると「三者三様、それぞれの人生が職業倫理の“一線”を超える物語」といった感じ)、特にラストは「そう来たか…イイね~!」と思わずニンマリする心地よさ。これほど後味の良いサスペンスもあまり見ないよなあ……と、仄かな解放感に包まれながら帰路に就いた。(余談だが…怪しいブローカー役で出演したニック・ノルティの老いた姿に、改めて月日の流れの速さを感じた)
2月16日(月)
憲法改正「賛成」67%、高市内閣「支持」72%(産経・FNN合同世論調査)……
300万の命を失って、戦争に負けて、ようやく立てた平和の誓い(第二次世界大戦における日本の唯一の成果…と言ってもいい「日本国憲法 第2章 戦争の放棄」)。そんなに簡単に手放しちゃっていいわけ?と言うか、「国家権力から国民を守るはずの憲法を、政権の都合のよいように変えることを支持する国民」って一体何なの?
と、改めてその67%に問いたい気分の朝だった。(内閣支持72%に問う言葉は今のところ見つからない。単に自我が弱くて、強い側に付きたい人間が多いだけかもしれないし…)
2月21日(土)
亡き母の「墓じまい」の為(遠方で行くのが大変、墓まで歩くのが大変、さらに近隣地域で“熊”出没情報も……というわけで、長兄が私の同意を得た後、自身の住まい近くの寺に「移設」を決めた)、あきる野市にある「秋川霊園」へ。
(午後1時、五日市線「武蔵増戸」駅で愚息&その妻アユちゃんと待ち合わせ。駅近くの「大勝軒」で昼食をとり、午後2時頃、現地で兄夫婦&息子のTAKESI君と合流)
小さな山の頂上にある墓の周りは綺麗に整えられ、「花粉症?」の坊さんと片付けの方がにこやかに迎えてくれた。「儀式」は15分程度で終了。(私も「おふくろ、場所が移っても会いに行くから心配しないでいいよ」と手を合わせた)
その後は、「社務所」で“一族”揃っての歓談。お互いの息子同士が意気投合している姿に、80歳を越えた兄も嬉しそうに微笑んでいた。
(後日、TAKESI君の要望で、愚息とライン交換……普段“血のつながり”など、ほとんど意識もせずに過ごしているが、こういう光景は何気に嬉しく、また気恥しくもある不思議な気分だった)
2月22日(日)~28日(土)
ネットフリックスで韓ドラを見たり、映画を観たり、図書館で借りた本を読んだり…の日々(仕事、日本語ボランティアは通常通り)。
最近の韓ドラのイチ押しは、(私もまあまあ好きな)人気女優パク・シネ主演のちょっとスリリングなコメディ『Missホンは潜入捜査中』。(パク・シネは、相場操作疑惑がある証券会社に20歳の新入社員として偽装就職し、潜入捜査を行う35歳の証券監督官を演じる)
映画のオススメは、綾野剛主演の『でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男』(監督:三池崇史/2025年製作)。(綾野剛は相変わらず上手いし、負のオーラ漂う柴崎コウはマジ怖いし……で、最後どうなる?という実際にあった事件の映画化)
以下、本文より。
《その年の秋、ある夕暮れ時。オーディオにCDを入れると、この歌をかけた。最初に二重窓をすべて閉めてから、最大限までボリュームを上げた。どの部屋にも陰ができないように、灯りという灯りをすべてつけた。すると家は港を旅立つ船のように、非現実的な空間になった。よく滑るように靴下をはくと、フィギュアスケートの選手のように床を滑りながら踊りはじめた。どんなダンスでもない、ただ自然と滑り出すダンス。敢えて名前をつけるなら、ぴょんぴょん、ぴょこぴょこダンス?子どもがはしゃいで私と一緒に飛び跳ね、私と一緒に床を滑った。互いの背中を押して、遠くまで滑った。「レットイットビー!」のくだりになるたびに、すーっと床を走る気分と言ったら!
曲に合わせて声の限りに歌いながらたまに泣いたりしたけれど、母親が泣いているのか笑っているのかわからないほどこの状況に興奮した子どもは、その場でジャンプを続けた。(中略)
華やかなシンセサイザーの間奏が入るたびに、狂ったようにくるくるとその場で回りながら目を閉じた。その一つ一つの音が光のようだと、生の光のようだと感じた。閉じた目に押し寄せてくる光、祝福、喜び、そのすべてだと。そう思いながら涙をふいて、またふいて、しまいにはわんわん声を上げて泣いた。あんなに大きな泣き声も、跡形もなく飲み込んでしまう音楽の中で。
(中略)
歌はいつ果てるともなく、繰り返し私に言い続けた。それこそ脳を洗い流して、私を洗脳した。
答えはあるはず。悲しみはないはず。あるがままに。ただ、そのまま、あるがままに。
「あるがままに」のほかに、どんな言葉が当時の私を救えただろうか。答えを聞かせるのではなく、答えはあるはずだという未来形。悲しむなと言うのではなく、悲しみはないはずだという未来形。なんの偽りもない歌詞。そうやって、私の体にのみで刻み込まれたような歌。》
このエッセイ集を読みながら改めて思ったが、ハン・ガンの文章は繊細なのに逞しく、そして瑞々しく美しい。
(まるで時代を過る無数の靴底に踏まれて泥まみれになった精神が、真っ白い砂や風が吹き流す言葉に洗い清められるように)
「陽光ならばいい」という後半の一節の結びも優しく胸に響いた。
《十年ほど前に書いた短編小説で、死ぬ前に三時間与えられるとしたら、太陽の光を浴びる時間に使いたいと書いたことがあった。今もその気持ちに変わりはない。その三時間のあいだ、陽光の中に全身を浸すのだ。ただし、愛するあなたと一緒に。私のいない長い時間を生きてゆくのであろう、あなたの手を握って。》



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