2月20日(日)
北京五輪閉幕。
習近平とバッハのツーショットなど見たくもなかったが、「チャン・イーモウ演出」につられて、つい見入ってしまった開会式(いい意味で中国らしくない幻想的で美しい式典。聖火リレーの最終走者にウイグル族の女性を起用するという、あざとい政治的演出もあったが、高い技術力を世界に印象づけることができ、イメージ戦略的には成功だったように思う)。
そして、ロシアによるウクライナ侵攻の懸念が高まる中、見る気も失せた閉会式……
期間中、いくつかの競技も見たが、その中で印象に残ったのはスノーボード(「国」じゃなく、自由な「個」が高く宙を舞っている感じがとても気持ち良かった)とフィギュアスケート。平野歩夢と羽生結弦の技量&センスはちょっと次元が違う気がした。 (羽生くん、礼儀正しいのは良いとして、国旗やオリンピック旗にそこまで丁寧に頭を下げなくても…とは思うけど)
2月22日(火)
猫の日。今年は2022年ということで、「スーパー猫の日」と言うらしく、朝から地上波も衛星も猫・猫・猫(特にBSテレ東は朝から晩まで“猫づくし”)……もちろん、猫好きとして悪い気分にはならないが、「ネコノミクス(経済効果2兆円?)」などと持ち上げられ、ブーム化する(させられる)現状はかなり異様。流行り廃りで飼われたり捨てられたりするのでは、猫も犬もたまったものではない。現に「猫ブーム」といわれる今でさえ、年間約20,000頭もの猫が殺処分されているわけで……(もしブームに乗って「飼いたい」と思うならペットショップなど行かずに、保護猫を!)
ちなみに我が家の「ジャック」も元・保護猫。本人(本猫)が望んだわけでもないのに知らない家に連れてこられ、ハンガーストライキ状態の時もあったが、今では毎朝6時近くになると枕元に来て「ニャーニャー」餌を催促する日々。
時折、ホントに猫なのか?的な仕草で笑わせてくれたり、テーブルの上のティーポットを落としてびっくりしたり怒られたり、「いい仔だね~」と岩合さん口調のジジイに撫でられたりしながら、ゴロゴロ・スヤスヤ「猫ブーム」など素知らぬ顔で生きている。
2月23日(水)
確定申告のため、東村山にある「青色申告会」の事務所へ。今年も支払う税金はゼロ。当然、還付金もゼロ。
2月25日(金)
とうとう戦争が始まった……「ロシア、ウクライナ侵攻」
ロシアの侵攻については「旧ソ連時代の意識のままに“帝国復活”をめざして」とか「ウクライナのNATO加盟を阻止したいがため」とか様々な論評があり、正確なところは私にはわからないが、どんな理由を掲げようが「侵略」であることに変わりはないし、何より戦争は絶対悪。命じたプーチンが度し難いほど愚かな政治指導者であることは言うまでもないが(まして核兵器使用を仄めかすなど、狂っている!としか言いようが…)、プーチンの侵攻を止められないどころか、逆に煽り続けたバイデン及び米メディアも「愚か者」の誹りを免れるものではない、と思う。
さらに言えば、ここぞとばかりにいきり立って「今のままでは日本がウクライナになる」「9条で日本が守れるか」「核武装をするべきだ」などと、アホ!としか思えないような世界認識と国防論で危機を煽る日本の政治家や評論家及び彼らを重用するメディアは、それに輪をかけたような恥ずべき愚か者。というほかない。
ロシアの撤退と戦争の早期終結を願いつつ、再度、吉本さんの言葉を噛みしめたいと思う。
《(前略)しかし、文明や科学が発達していく一方で、人間の愚かしさもまた、とめどなく大きくなっていると言っていいかもしれません。
そのいい例が、各国で競うように開発している核兵器です。すでに、アメリカもロシアも相当な数の核兵器を持っています。中国やフランスも、ある程度の数を保有しており、インドとパキスタンも争っています。さらに、北朝鮮は核保有を宣言しました。僕に言わせれば、これはばかな競争です。これは、もしかすると、ひょんな拍子に人間の歴史をふっ飛ばしてしまう事態が起きないとも言えません。可能性はあると思います。
人間の寿命や文明の発達、感覚を鋭敏にするための装置の機能向上は、僕らの考える領域でもないし、僕らがどうとかできるものではありません。でも、核兵器競争みたいなことだけはよせと言いたい。もちろん、日本もそんなものはつくらず、平和だけを積極的に主張するという態勢をとれということです。建設的な利口さはそれしかありません。
僕らが口をはさむ事柄でもないのですが、それぞれの国の指導的な人たちは、そういうばかな競争をしないで、どんどん廃棄する競争をすればいい。それにはまず、核兵器をたくさん持っているところから捨てていけば、ほかは右にならえをしていくのです。持っている国が悪いのですから、初めに持っている国が捨てない限りは、いつまでたってもなくならないでしょう。
しかし、いまの核拡散防止条約というのは、そういう仕組みになっていません。核兵器を減らせばいいという規定だけがあって、アメリカやロシアの核を捨てて少なくしろという規定はないのです。だから捨てないのです。それどころか、みんなが真似をする。日本にも真似しようというやつがいるくらいで、冗談じゃありません。それこそ本当に人類のばかさ加減を一番表しているものです。
日本には不戦条項が憲法にあるのだから、積極的に、遠慮なしに主張したらいいと思います。もちろん、そういうことは僕らの領分ではなくて、政治家がやるべきことで、国際的にもやるべきことですが、あまりやっているようにみえません。
「ひょっとしたら全滅だ」というところに競い合っていこうとしているのを、日本が真似することはないし、また、そんなものをいいと言う必要はないのです。核兵器を持つことについては、どちらの国が悪い、どちらの陣営がイイではなくて、全部悪いんだというのが正しいと思います》『真贋』(講談社/2007年)P26-27より。
どうしていまの日本人は、戦争放棄といういい憲法を持っているのにもかかわらず、核拡散防止条約をちょっと変えてもらいたいと言うことすら躊躇しているのか。日本人はもともとおとなしいということはもちろんあると思いますが、内心は、日本が世界で孤立するのが怖いのだと思うのです。それが、いまの世代の人に感じる一番の弱点だと思います。それは何の弱点かというと、逆説的な言い方をすれば、戦争を体験しなかった人の弱点だと思います。
国家は建前上何らの理由も立たないことに反対してよその国を圧迫することや、脅かすことはできないということは自明のことだと僕らは思っていますが、戦争体験のない、いまの若い人たちはそういうことを理解できないのだと思います。僕らの世代は戦中、戦後のある時期、飢えて、なけなしの衣類や家財道具とお米とを交換して細々と食いつないだという経験がありますから、何が起ころうともあまり怖くないのです。こういう主張をしても、たとえどんなことがあろうと、僕を干乾しにすることはできない、という強い確信があると言いますか、何をしてでも食べていけるという自信があるからかもしれません。
まず戦争というものをなくすために何ができるか、もう少し真剣に考えてみるべきだと思います。》『真贋』P99-100より