2016/08/27

「歌う」か、「聴く」か。(リオ五輪&君が代)



萩野公介に始まり、内村航平、ウサイン・ボルト、卓球女子トリオ&水谷隼、タカマツ・ペア、陸上400mリレー、そして閉会式(色々解せない安倍マリオは別にして、8分間の東京PRはなかなか面白かった)……という感じで、17日間たっぷり楽しませてもらったリオ五輪。
(外国選手では、陸上400mのバンニーキルク、水泳・女子高飛び込みの中国選手「仁茜」に感嘆。特に今大会最年少の金メダリスト、15歳の仁茜の演技は凄かった)

で、スポーツの素晴らしさを改めて認識しつつ、大会期間中気になったのは、日本選手の大活躍のお陰で何度か聴かされた「長すぎる(遅すぎる)君が代」(以前は60秒以下だった「君が代」演奏を、リオ五輪では同じ楽譜で123秒に引き伸ばしているそうだ)……

JOCがこのテンポの遅い「君が代」を用いているのは2014年ソチ冬季大会からしいが(演奏は読売日本交響楽団)、当時獲得した金メダルはフィギュアスケート男子シングルの羽生結弦選手の1個だけ。「君が代」も一度しか流れなかったので特に問題になることもなかった。しかし今回は金メダル12個。
大会前の「国歌も歌えないような選手は日本代表ではない」という森喜朗(組織委会長)の強圧的な発言の影響もあり、「長すぎて歌いにくい君が代」がいやがうえにも目立ってしまう五輪になってしまった。(もともと限界値まで延ばされている雅楽を、さらに4割以上も無理矢理引き延ばしては、いくら肺活量が優れた運動選手でも歌いづらいのは当たり前。現に、体操の内村選手も「すごくゆっくり流れたので、ちょっと歌いづらかった」と言っていた)

では、何故それほど歌いにくい「長すぎる君が代」を作ってしまったのだろう……《「国旗掲揚時の統一感を出すため、演奏時間を6090秒に収めた国歌音源を提出すること」というIOC(国際オリンピック委員会)の指示を受け、より遅めに演奏し、現在のゆったりとした「君が代」が完成した》とJOCは説明しているようだが、ならば、60秒でも65秒でもよかったはず。範囲の上限近くまで遅くした理由が未だによく分からない。(単に「(国威発揚のため)できるだけ長く“君が代”を流したかった」だけかもしれない。あるいはスローにすれば「より荘厳になる」とでも思ったか?)

その後「テンポについては君が代の演奏上許される範囲で遅くしており、特に問題はない」というJOCの開き直りコメントがネット上に流れただけで、秘かに「問題あり(許される限度を超えている)」と思っているNHK及び各テレビ局は、選手の表彰台の姿や日の丸は映したものの肝心の『君が代演奏』(国歌斉唱中の場面)は意識的に避けていた感じ。また、私が知る限り、大会期間中に「長すぎる君が代」を話題にする局もなかった。(何らかの圧力で「長すぎる君が代」に触れるのは“ご法度”になったのかも?)

だから、競泳選手団の帰国会見で「君が代を競泳陣みんなで熱唱して気持ち良かった」という言葉が松田選手の口から発せられた時は、「あのクソ遅い君が代を?みんなで熱唱?!…うっそだろ!」と驚くと同時に、大会前の森喜朗の発言が何の抵抗もなく普通に受け入れられているのか……と尚更気分が悪くなってしまった。(みんなで「君が代」を歌う前に、代表選手は「オリンピック憲章」をよく読み、その精神を理解するのが先決では?)

そもそも「君が代」は、アメリカやフランスのように自国の優越を歌った勇ましい国歌とは異なり、《人の心を鎮め、その場の雰囲気を厳かにする》「祈りの歌」。
試合や競技に向かう心を鼓舞するために歌うような歌でもなければ、結婚式や祝賀会などの晴れがましく賑やかな席にも相応しくない。
むしろ人前で歌うことが憚られるような雅な旋律を持つ不思議な国歌であり、歌うにしても“みんなで熱唱”するような歌ではないはず。(例えば、結婚式で突然「君が代」が流れたり、誰かが歌ったりしたら、まず確実にシラケると思う)

というわけで、如何なる場でも「君が代」を歌うつもりのない私などは、《昔から「辛気くさい」「国歌としては短い」などの批判にさらされながら(戦争期は政治的プロパガンダに利用されながら)、良くも悪しくも近代日本の象徴として生き残ってきた「君が代」を、「歌う国歌」から「聴く国歌」に変えてはどうか》という『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)の著者・辻田真佐憲さんの提案に一票を投じたい気分にもなるが、2020年の東京にも引き継がれそうな“長すぎて歌いにくい”「君が代」は「聴く国歌」としてもちょっと耐え難いもの。
(「歌う国歌」から「聴く国歌」へという提案は《「歌う」という行為は、強制された時の屈辱感や抑圧感がとても強いが、「聴く」という行為は、一分程度であれば強制されてもそれほど強い抑圧感はもたらさないはず。実際、多くの日本人にとって「君が代」はすでに「聴く国歌」になっている》……という考えに基づいている)

大会前「どうして、みんな揃って国歌を歌わないのでしょうか」と斉唱を半ば強制しながら“歌わない(&歌えない)選手”を遠回しに非難した「君が代」大好きな失言王・森喜朗は、この国辱的な「長すぎる君が代」をどう思っているのだろう。黙認(?)しているのも不思議な話……
本当に非難すべきは国家を歌わない(日本代表)選手ではなく、国歌を私物化するごとく国民に意図も伝えず「長すぎて歌いにくい君が代」を勝手に作ったJOC(及び君が代を利用しようとする森喜朗のような政治家たち)だと思うのだが。

 

2016/08/16

8月上旬メモ②



86日(土)
広島平和記念日、原爆忌。リオ五輪開幕……平和記念式典とリオ五輪開会式(30分程度)をテレビで見たあと、池袋へ。
シネマ・ロサで映画『帰ってきたヒトラー』(監督デヴィット・ヴェント/製作国ドイツ)を観る。

1945年に自殺したはずのヒトラーが、2014年のベルリンにタイムワープし、その卓越した話術を活かしてテレビ番組のスターになる》というお話。(2012年、ドイツでベストセラーになった風刺小説『帰ってきたヒトラー』の映画化)
その荒唐無稽なストーリーに加え、所々に強烈なブラックジョークも散りばめられており、「傑作コメディ」(公式サイト)と謳われているが、現実と虚構が不気味に入り混じった内容はすこぶる刺激的で啓発的。
終始一貫してヒトラーの言動と昨今のヨーロッパにおける難民排斥の動きを意識的に結び付けて描かれており、在日コリアンに対するヘイトデモなど固有の民族差別問題を抱える日本人の一人としても、とても笑って見ていられるような映画ではない。
そして何より恐ろしいのは、最初はヒトラーを笑っていながら、知らず知らずに彼の話術に引き込まれ、「イエスか、ノーか」を迫るその言動の明快さに、どこか共感してしまう人々(&自分)がいること。

87日(月)
東京は今年一番の暑さ(37.7℃)……駐輪場もうだる様な暑さだったが(精算機の裏側にある温度計の針はなんと44℃!)、リオ五輪の真っ最中ということもあり利用者は少なめ。その分せわしく動き回ることもなく仕事的にはラクな一日だったが、やはり猛暑の中で働いた影響か、夜になってどっと疲れが出た。リオ五輪もそこそこに早目就寝。

88日(火)
午前10時半、建築家のIWAMAさん来訪。(わが家も築10年を越え、排水系統等に問題が出てきたため、その点検・確認をお願いした)
その時間、テレビでは丁度、日本VSコロンビア戦の真っ最中……Iさんも私も大のサッカー好き。屋内外の気になる所を確認していただいた後は、二人で缶ビール(ロング缶3本ずつ)を飲みながらワイワイ楽しくサッカー観戦。
結果は2:2の引分けだったが、藤春の衝撃的なオウンゴールで2点差がついた試合を、浅野と中島の見事な2発で追いつくというスリリング&エキサイティングな展開に、ほろ酔いな二人も大興奮。試合後の気分もまずまずだった。
サッカーのあとは久しぶりに映画談議……『恋人たち』を凌いで“本年度ベスト1!”とIWAMAさん大絶賛の『シン・ゴジラ』(脚本・編集・総監督/庵野秀明)は、ぜひ観に行かないと。
ちなみに、宣伝ポスターのキャッチコピーは、「現実対虚構」(ニッポンVSゴジラ)……う~ん、そそられる。

酒の酔いが回った午後は、畳の上でぐっすり昼寝。夜はリオ五輪のハイライトを見ながら就寝。

8月上旬メモ①



84日(木)
前夜、『怒り新党』のコーナー「写真家・富岡畦草の次世代に託したい定点写真」に心そそられ(富岡さんは御年90歳。定点写真のパイオニアと呼ばれている方。その若々しさにも驚いた)、深夜まで見入っていたせいか少し寝不足気味。渋谷で映画を観るつもりだったが、出かけるのが億劫になり、駅前のTSUTAYA(のDVD)で我慢、ドキュメンタリー映画『ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年』(監督・阪本順治)をチョイス。
そのDVDの前に、NHK「スタジオパークからこんにちは」内で、ゲストの石橋蓮司主演のドラマ「ふろたき大将 故郷に帰る」を観る。

「ヒロシマ8.6ドラマ」とサブタイトルがついているので、かなりシリアスなドラマかと思いきや、さにあらず。「原爆」を扱いながらも、孤独な老人とオレオレ詐欺の青年(&彼の恋人)の出会いと交流が半ばコミカルに描かれるポップなドラマ。後半、映画好きを喜ばせてくれるセリフ&シチュエーションもあり、石橋蓮司の魅力がじんわり染みてくる佳作だった。
(このドラマは、原爆投下の9年後に広島で制作された児童劇映画『ふろたき大将』の続編とのこと。その主人公の原爆孤児・宮田徳三を演じたのが、当時12歳の「石橋蓮」少年……60年の時を経て、蓮司さんが再び徳三を演じた)

映画『ジョーのあした』は、自分が抱いていたイメージどおりの「辰吉丈一郎」……父・粂二(くめじ)に男手ひとつで育てられた辰吉の、「生まれ変わっても、もう一度自分に生まれたい。父ちゃんの子で生まれたい」と語る姿から、映画は始まる。

全盛期、自らパンチの雨に晒されることを望むかのように、ノーガードで顔を突き出して戦う一種自虐的な彼の“喧嘩ボクシング”は、愛情に飢えた幼い子どものようで痛々しく、あまり好きではなかったが、今も現役にこだわりながら自分の生き方を冷静に見つめ語るその姿は、心の壁を打ち砕いた男の優しさと静かな闘志を漂わせ、グッと人間的な魅力を増した感じ。46歳……再びリングに立つ日が来るのだろうか。

85日(金)
仕事(バイト)の前に、駅前のドトールで小1時間読書。『日本会議の研究』(著者・菅野完/扶柔社新書)を読み終えた。その「むすび」の一文が胸に重くのしかかる。

《この間、彼らは、どんな左翼・リベラル陣営よりも頻繁にデモを行い、勉強会を開催し、陳情活動を行い、署名集めをしてきた。彼らこそ、市民運動が嘲笑の対象とさえなった80年代以降の日本において、めげずに、愚直に、市民運動の王道を歩んできた人々だ。その地道な市民運動が今、「改憲」という結実を迎えようとしている。彼らが奉じる改憲プランは、「緊急事態法」しかり「家族保護条項」しかり、おおよそ民主的とも近代的とも呼べる代物ではない。むしろ本音には「明治憲法復元」を隠した、古色蒼然たるものだ。しかし彼らの手法は間違いなく、民主的だ。
私には、日本の現状は、民主主義にしっぺ返しを食らわされているように見える。
やったって意味がない。そんなのは子供のやることだ、学生じゃあるまいし……と、日本の社会が寄ってたかってさんざんバカにし、嘲笑し、足蹴にしてきた、デモ・陳情・署名・抗議集会・勉強会といった「民主的な市民運動」をやり続けていたのは、極めて非民主的な思想を持つ人々だったのだ。そして大方の「民主的な市民運動」に対する認識に反し、その運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力となった。このままいけば「民主的な市民運動」は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉。これは悲喜劇ではないか!》

※ショッピングカード5%OFFの日で、駐輪場は大混雑。暑さも手伝い、キレる男が2、3人……やれやれ。

2016/08/03

雑感(都知事選ほか)



今朝の「あさイチ」(言っちゃえ場 10代×ジドリ×はじめての選挙)を見ていたら、女子高校生がこんなことを言っていた。

「投票所の中は、お葬式みたい」……(う~ん、確かに似ているかも)

さて、大方の予想通り、小池百合子圧勝、鳥越俊太郎完敗で終わった都知事選……(こちらは開票後がお葬式みたい)

クリントンVSトランプのアメリカ大統領選は、嫌われ者同士による「史上最悪の闘い」と呼ばれているが、投票したい候補者もなく、誰が勝っても喜べそうになかった今回の都知事選も個人的には似たようなもの。(その最悪の選択は小池百合子だったが)

で、巷は「初の女性都知事誕生」に期待感が高まっているようだが、“女性目線”から遠く離れた所にヤバい目があるような政治家に、都民(特に女性たち)は何を期待しているのだろう。
(「百合子グリーン」とかいう、あの野菜畑のような群れはナニ? チョー気色悪かった)

小池百合子の過去の言動・行動をみると(「戦後教育は自虐的」と何度も発言したり、“発達障害は親の愛情不足が原因”などという非科学的で差別的な「親学」に傾倒したり…)、都民が彼女に期待する「教育・子育て」への取り組みなどは、むしろ最も危惧すべきところではないだろうか。
いずれ安倍政権とつるんで教育現場への圧力を強めるだろうし、“子ども目線・現場目線”とはほど遠い「詰め込み保育」も大問題、保育士の待遇改善にも消極的(「給与は上げないけど、空き家をシェアハウスに転用するから、そこに住めば生活が楽になるでしょ」的な発想がそもそも侮蔑的で差別的)……

と、グリーンどころか色々ブラックな小池百合子だが、彼女の独走を許した野党統一候補も思いのほか残念すぎた。

「聞く耳を持っている」「都民の声をしっかり聞く(その声を政策に生かす)」と言っていた人間が、出馬会見から1週間経ち、2週間が過ぎても、一向に自分の政策として、都民の声、とりわけ弱者の声を代弁しない(できない)のでは、はなから勝負になるはずがない。
「憲法・平和」も大事だが、私を含めて都民が求めているのは自分たちの生活に根ざした血肉の通った政策であり、その代弁者としての魂がこもった力強い言葉のはず。(今さら言っても仕方ないが、バーニー・サンダースの政策論や演説を少しは見習ってほしかった)
それが全くないばかりか、政策を競うべき討論の場から逃げ回り、病み上がり発言がどうだとか、醜聞記事がどうだとか、都民の生活と無関係な揚げ足取りにムキになって反応していては、都民からそっぽを向かれるのも当たり前。高齢・健康面の不安を増長させた「街頭演説」の少なさ・温さも致命的だったと思う。

おかげで、最近は「日本会議」の思うままに政治も選挙も流れている(イヤ~な)感じが漂うばかり……と思っていたら「防衛大臣・稲田朋美」。(分かりやすいぜ、安倍政権!)

タイミング良く(?)、ちょうど昨日『日本会議 戦前回帰への情念』(山崎雅弘著/集英社文庫)を読み終えたのだが、その本の中に「日本会議」の機関誌「日本の息吹」からのこんな抜粋記事が載っていた。

《現在の安倍晋三政権の下に行われていることは、単にアベノミクスによる「肉体」につながる経済の改善ではなく、安全保障や教育といった日本人の「精神」の健全化なのである。この健全化に対して、戦後精神に侵されて、精神の病が「病膏盲に入った」段階にある世代の人々が反対を唱えているが、これはもう病が重篤な患者の断末魔の呻きに過ぎない。(中略)戦後精神に侵された世代は、もうそろそろ歴史の舞台から退場していくから、日本が本来の日本に取り戻されるのは、もはや時間の問題なのである》(20158月号)

《安倍内閣という志を同じくする内閣が健全な今こそ、憲法改正の最善のチャンスだ。私たちは、政治よりもずっと先んじて新しい地平を切り拓かなければならない。(中略)憲法改正を実現するには、多くの国民の理解を得なければならないが、高校生やお母さん方にも分かるように、なぜ憲法改正が必要なのか、ということを啓蒙していきたい》(20155月号 櫻井よし子「基調提言」)

敵は本気。どうやら私たちは重大な歴史の分岐点に立たされているようだ。

2016/07/30

少年文庫の夏



空高く入道雲。アスファルトに陽炎が揺れ、街路樹からジイジイと蝉の声が聞こえる。

気がつけば、とっくに夏休み。駐輪場でも子供たちの姿が目につくようになってきた。

さて先日、隣駅のシネコンでクドカン脚本・監督の『TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ』を観たのだが(地獄でロック!映画はメチャメチャ面白かった)、その道すがら駅ビル内の「ジュンク堂」をプラプラ……何気に覗いた児童文学コーナーで、遠い日の夏休みを思い出す懐かしい本を発見。表紙の絵を見ただけで心が躍り、ほとんど反射的に買ってしまった。(子どもの頃の夏休みと言えば、プールとアニメと少年文学が定番だった)

本のタイトルは『飛ぶ教室』(岩波少年文庫)

裏表紙に《ボクサー志望のマッツ、貧しくも秀才のマルティン、おくびょうなウーリ、詩人ジョニー、クールなセバスティアーン。個性ゆたかな少年たちそれぞれの悩み、悲しみ、そしてあこがれ。寄宿学校に涙と笑いのクリスマスがやってきます》と、本の簡単な紹介があり、「小学45年以上」と記されている。作者の名前とその中に書かれていたある言葉以外、ストーリーも登場人物もすっかり忘れてしまったが、私が読んだのも小6~中2の頃だったと思う。

で、期せずして50余年の時を経ての再読となったわけだが、「これほど素晴らしい本だったのか!?」と、今さらながら5人の少年たち(&良き大人たち)の“知恵と勇気の物語”に心を奪われ、何度も胸を打たれっぱなしの数時間……短くも大切な夢のような出来事の中に、子どもたちの柔らかな心に寄り添う言葉と、大人たちの堅い心を溶かす言葉がぎっしり詰まった名作だった。(「少年文庫」とはいえ、子どもだけに読ませておくのはもったいない!)

作者はドイツの国民的作家エーリヒ・ケストナー(18891974)。ケストナーがこれを書いたのは1933年。この年のはじめ、ドイツはナチス政権の手に落ちた。


訳者の池田香代子さん(「あべしね」ツイートで有名な翻訳家)は「あとがき」でこう書いている。
《ナチスにとって、ケストナーは好ましくない作家だったので、図書館の棚からケストナーの本が引っ込められたりしました(自由にものが言えなくなる時代は、こんなふうに始まるのですね。わたしたちもおぼえておきましょう)。それでもなにくそと、ひと夏かけて書きあげられたのが、この作品です。この先どうなるのか、ケストナーは不安でいっぱいだったと思います。そんな時だったからこそ、ケストナーは腕によりをかけて、とびきりのクリスマスプレゼントを当時のドイツの子どもたちに贈りたかったのだと思います》

《ケストナーは、クロイツカム先生の口を借りて、「平和を乱すことがなされたら、それをした者だけでなく、止めなかった者にも責任はある」と言っています。戦後、ナチスに協力した人だけでなく、なにもしないで黙っていた多くの人びとにも責任があるのではないか、ということが言われました。クロイツカム先生の言葉と重なりますが、でもそれは、事が起こってしまったあとの反省です。ケストナーは、ナチスの時代が始まったとき、そういうことがもうわかっていたから、沈黙する時代にむけて、命がけの警鐘を鳴らしたわけです。ケストナーってすごいな、と思います》

昔、好きだった言葉「かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!」(賢さのない勇気は、乱暴にすぎない。勇気のない賢さは、冗談にすぎない)も、この本の長い「まえがき」の一文だった。

その一文はこう続く。

「世界の歴史には、かしこくない人びとが勇気をもち、かしこい人びとが臆病だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。勇気のある人びとがかしこく、かしこい人びとが勇気をもつようになってはじめて、人類も進歩したなと実感されるのだろう」

『飛ぶ教室』から80余年。いまの私たちは進歩の道を歩けているのだろうか。

 

2016/07/24

東京は、暑くも、熱くもない。



ここ10日ばかり、本業もバイトもそこそこ忙しく(ポスター制作コンペが2点、バイトも飛び石で入っていた)、その合間に呑み会があったり、隙間で映画を観たり、私なりに密度の濃い日々を送っていたが、久しぶりの土日休み。

近場で映画かアートでも……と思い、昨日は、練馬区立美術館(電車で10分の中村橋から歩いて3分)で開催中の「しりあがり寿の現代美術 回・転・展」に行ってきた。
(昔は抱腹絶倒ギャグマンガ「流星課長」で大笑い、3.11後は「あの日からのマンガ」で震災後の日本と日本人の姿を見せられ考えさせられ、今は風刺4コマ「地球防衛家のヒトビト」で日々楽しませてもらっている漫画家のシュールで笑えるアート展)

「回・転・展」と名付けるだけあって、ヤカン、静物画、歴史(マンガ&オブジェ)、日常品(ティッシュペーパー、CDケース、荷造りヒモ、下着、写真等々)、20分映像「回転道場」などなど……とにかく色々なものが回っていたが、私が顔(耳)を寄せて見入った(聴き入った)のは「回転体は行進するダルマの夢を視る」と題された、歌いながら回転するたくさんのダルマ。

オレは強いぞ すごいんだぞー ヨッホヨッホホ そりゃいくぞー♪

しりあがり寿氏曰く「まぁこれはね、ダルマは強がっているわけです。偉そうな歌うたいながらどこを目指すでもなく自分の周りしか見てないような。こういう人たちいるよね」とのこと。
(その代表格は、安倍晋三と共和党のトランプだろうか)

しばし、その不気味な歌声が、呪文のように繰り返し頭の中で鳴っていた。

美術館を出たあとは「中村橋」駅前を軽く散策し、14時頃帰宅。
郵便受けに福岡の友人HIRANO君からの便りがあった。(さすが親愛なるわが友。参院選の際、東京で暮らす息子のJUMA君に「三宅洋平」への投票依頼をしてくれていたようだ)

そのハガキの出だしの言葉は、《暑いですね。東京は都知事選でもっと暑いのではないですか?》

……連日真夏日の福岡で過ごす彼には申し訳ないが、ここ数日、東京は30度を下回る日が続きさほど暑くもない。遠方から気にかけてくれている「都知事選」も盛り上がっているのは各陣営と支持者だけ。私の周りはむしろ寒いくらいで、ちっとも熱くない。

先日、仕事の打合せを兼ねてお茶した盟友かつ親友のMIYUKIさんやUEちゃんも「誰に入れようか?」と頭を悩ましているようだし、バイト仲間との呑み会の席でも「どうしようかなあ~」の声ばかり。(その中で何となく名前が挙がったのは「マック赤坂」と「鳥越俊太郎」の二人)

一体、この“寒さ”はどうしたことか?と思うが、答えは簡単。「自公に一矢を報いたい」と思っている人の多くが、野党統一候補にあまり魅力を感じていないからではないだろうか。
私的にも、知名度が高くリベラルな思考の持ち主とはいえ、どうしても76歳という年齢が引っ掛かる。加えて、「住んでよし、働いてよし、環境によし」という人柄の良さとセンスの古さが同居しているようなスローガンも平和すぎてリアリティを感じないし、You Tubeで何度か聴いた街頭演説も琴線に触れることはなかった。

かといって、自公推薦の元岩手県知事・増田寛也や(亡き叔父の大親友の息子さんだけど…)、
「日本会議」直結の政治家・小池百合子に東京の未来を託すなどという選択はありえない。
色々な意味でシンパシーを感じるマック赤坂は落選確実だろうし、やはり鳥越俊太郎に一票を投じるしかないか……と、すっきりしないアタマで来週の日曜のことを考えていた昼下がり。

今夜は、9時からNHKスペシャル、10時半から日テレ「そして、誰もいなくなった」、1050分からBSプレミアム「伝説の武道館ライブ 忌野清志郎」と、珍しく観たい番組が目白押し。
ひとまず「都知事選」は忘れて、テレビに集中します。