2011/09/06

おどろきの、60%超え。


ご祝儀相場とはいえ予想以上のV字回復……“どじょう宰相”率いる内閣の支持率が60%を超えたそうです。

震災復興、原発、財政・経済、年金、子ども手当、基地問題、海を挟んで拉致・領土問題等々の課題・難題が一億の肩と未来に重く圧し掛かる日本……政治にも政治家にも疾うに嫌気は差しているが、失望のままでは何も変わらない。ならば“瀕死の政権を悪戯に追い詰めるより、とりあえず支持して、その瀬戸際の必死さを喫緊の課題のために活用した方が良い”という、国民の我慢強さ&したたかな賢さ、そして前向きな意思を権力に示す60%超え……そう考えるのは少し穿った見方でしょうか。

さて、その支持率の一番の要因「野田総理」……新聞・テレビを通じて見知る限り、風貌や言説に派手さがない分、安心感・安定感があり戦後最大の国難に立ち向かう新政権の顔としての印象は悪くない。
妄言・失言で世間を騒がすこともなさそうだし、言葉にも力と誠意を感じる。以前、“酒・たばこの増税は、税制を通じた『おやじ狩り』”と喝破したように、当意即妙でロジックも明快、話す内容も分かりやすい。
「泥臭く取り組む」という政治手法や政策の中身は定かではないが、物事を堅実に前へ進めてくれるのでは……と多くの人に思わせる“発信力”も中々のもの(前任の二人が酷すぎたというアドバンテージはあるけど)。

ただ、その実務を担う閣僚の顔ぶれは? 勝手な印象ながら……政界の星組(蓮舫行政刷新相)、イケメン寝業師(細野環境・原発相)、政界の大根歌舞伎役者(鹿野農水相)、喫煙者の敵(小宮山厚労相)、何を雄弁会(安住財務相)、親米・財界政経塾(玄葉外相)、秀才係長(古川国家戦略担当)、以下保守一同……といった風情で、“どじょう内閣”とメディアが呼ぶような泥臭さと大衆性は感じられない。ましてや、政権交代時に多くが期待した“新しい風”など、どこ吹く風……民主も自民も同じ釜の混ぜご飯、明確な対立軸のない二大政党の不毛な綱引きの予感が募るばかり……。

とはいえ、3.11以降、霞ヶ関の官僚たちがかつてない使命感に燃え“目の色を変えて国難に立ち向かっている”という話も聞くし、私も多くの方々の賢明さを見習って、シカトせず瀬戸際・民主の必死さの程度を見定めるくらいの“監視意欲”は持ち続けたいと思う。

と言った矢先の「たばこ1700円」、あ~、早くも“おやじ狩り”が始まった……やさしい笑顔でこの仕打ち、何なんだよ~、コミヤマ~ 
健康も大事だけど、人生の味も大事なんだぜ!オヤジには。

2011/09/03

劇的勝利の夜が明けて……ザックJAPAN VS 北朝鮮


W3次予選初戦、ロスタイム残り1分、吉田麻也の値千金のヘッド弾で勝利した我らが“ザックJAPAN”……いやあ、本当にハラハラさせられました。でも、攻めて攻めて必死に奪った勝ち点3、苦しみぬいて掴んだ勝利は成長のための最良の糧。絶好のスタートではないでしょうか。

しかし、サッカーは何が起こるか分からない(だから面白い!)。実力差は歴然、しかもホームゲームなのに、ゴールが遠い……改めてW杯予選の難しさ、アジアの戦いの厳しさを感じましたね。フィジカルと精神力が持ち味の北朝鮮の守りも堅かった(後半はバテバテに見えたけど)。特にGK……脚をケガしていたようだけど、何なんだろう、あの神がかり的なセーブは!?

さて、自分勝手な評価ですが、昨夜のマン・オブ・ザ・マッチは断トツで長谷部誠。文字通り「堅守速攻」、苦しい時間帯も前線を鼓舞するようにゴールへ向かって攻め続けた姿勢が素晴らしかった! さすが日本代表キャプテン、“心を整えて”試合に臨んだことがよく分かりました。

全体的には、不動の司令塔・本田圭祐を膝の故障で欠いた影響大で、両サイドの香川、岡崎の脅威も半減、イマイチ攻撃に迫力が感じられなかった。本田の代わりにトップ下に入った柏木は、緊張からか動きが鈍くプレーに自信がなさそうで、自ら放った3本のシュートも情けなかった。この日本代表で“チームを円滑に動かす楔”の役割を担うには明らかに力不足。事実、柏木が退き香川がトップ下に入ってから攻撃が活性化したように思う。交代で入った21歳・清武も良かった。やはり若い世代が躍動する姿は見ていて気持ちがいい。柏木もまだ23歳、経験を積んで大きく成長してほしいね。

ザック采配は、いつもながら感服の至り。後半から入った清武、ハーフナー・マイクが期待通りに持ち味を発揮し、分厚い北朝鮮DFの打開策として十分に機能したと思う。特に、セットプレーからの劇的ゴールを生む大きな要因となった194cmの長身FWハーフナーの投入は、今後の攻撃パターンに新しい引き出しを増やしたという点でも大収穫。もう、言うことありません。



2011/08/25

「L’amour(愛)」という名の音楽会


別にファンというわけではないのだが、身内から只券を貰ったので『美輪明宏』の音楽会に出かけた。会場は西武新宿線小平駅近くの“ルネ・こだいら”。着いたのは開演30分前、でも既にホールは老若女女の圧倒的な熱気で飽和状態……入り混じるシャネルやら何やらの匂いに若干クラクラ感を覚え、アラカンの男一人“やはり場違いであったか”とごちていたが、席はかなり前の方で視聴意欲↑。
定刻15分過ぎ、いよいよ絢爛豪華な美輪ワールドの開幕……と思いきや、眼前には昭和30年代の東京・銀座とおぼしき、パステル調の装飾に彩られたノスタルジックな街並みが広がっておりました。

で、1曲目は60年安保を象徴する珠玉の歌謡曲『アカシアの雨がやむとき』。少年期に心震わせた歌の予期せぬセレクトに、思わずオォーッと小さく叫んでしまったが、やはりこの曲は“サッチン”こと西田佐知子様に歌われてこそのもの。虚しく広い空に散った夢も涙も救い上げ、そっと孤独な心に帰すような声の切なさ・優しさ、その姿の美しさ・儚さが時代の風景と重なり、遠い日の淡い憧れの記憶として残っている私には、失礼ながら美輪さんの“アカシアの雨”は、花が土に倒れ伏す嵐のようで、まったく心を打たない……だが、2曲目は違った。こんなに決然とした『今日でお別れ』は初めて聴いた気がする。さすが美輪明宏、別れの曲さえポジティブな方向に持っていくのだなあと妙に感心してしまった。

その後も、歌→昭和の話&毒舌→歌→銀巴里の話&毒舌→歌→愛の説諭……と、傲慢不遜・石原慎太郎と原爆投下国アメリカを嫌悪する“無償の愛の伝道者”による二部構成(昭和歌謡&シャンソン)の音楽会は大した驚きも感動もなく続き、エンディングは英語と仏語による『愛の讃歌』。
スピリチュアリスト・江原啓之曰く、この歌の時は“エディット・ピアフが降りてくるのが見える”そうで……はあ~?と半ば嘲笑しつつ拝聴したのだが、何かに憑かれたかのようにこれまでの歌とは、声のハリ・伸び、そして気迫が明らかに違った。これは、本当に降りてきたのかも!?と思わず息を呑む今日一番のステージでした。(まあ、ラストくらいバシッと〆てくれないとね~)

で、閉演後の感想ですが……エディット・ピアフは少し居たけど、『ヨイトマケの唄』で鮮烈にデビューした《丸山明宏》は居なかった!かな。
音楽会の微かな余韻も、帰りがけに立ち寄った地元の“王将”で飲んだビールの泡と一緒に消えちゃったし……。恐らく、再びステージを観に行くような縁はないだろうなあ。

2011/08/17

『ツリー・オブ・ライフ』を観た。


今年のカンヌ映画祭パルムドール受賞&ブラッド・ピットとショーン・ペンのW主演。そして生命の連鎖をイメージさせる美しい語感のタイトル……そんな魅力的なプロフィールをもつ作品にも拘らず、レビュー評価があまりに低い(でも、新聞広告のコピーは“絶賛の嵐”)。なんで?と気になっておりましたが……。

なるほど、多くの観客が納得するような分かりやすい“愛と感動のドラマ”はない。「存在」の不可思議さを生命と宇宙の相関に探る果てしない意識の旅と、神を心に抱き“どのように生きるべきか”を問いかける叙情的な映像があるだけだ。だからストーリーラインがはっきりしない。断片的に家族の生活が描かれていくので観る側の視座が定まらず、登場人物の心の内が語られても感情移入が容易にできない。さらに、冒頭のナレーションから一気に数十億年の時間を飛び越えて、生命の起源・宇宙の根源に迫ろうかというイメージ映像の連続的長さは、いきなり宗教的観念の世界へ導かれたような不可解さと居心地の悪さを伴う。
これでは2大スターによる“父と子のヒューマンストーリー”の速やかな展開&感動的結末を期待した人たちが「観る映画を間違えた!」と後悔の念を抱くのも“ごもっともな話”と理解できなくもない……が、その不満と憤りは、この難解な作品に対してではなく、配役の魅力を最大のウリに、家族の確執と和解のドラマを思わせるキャッチコピーを大量に露出させ、“誰もが笑って泣ける映画”のように、シネコン主体の大集客を目論んだ配給会社に向けられるべきものではないだろうか。(もちろん、観る側にも不実なプロパガンダに乗らない心の準備と、「騙されてもいいじゃん!」くらいの大らかさがあっていいとは思うけど)

私自身は、心惹かれる美しいシーンも多々あり、イメージ映像の連射で朦朧となった意識を何とか律しながら、監督テレンス・マリックの自伝的叙事詩、その哀感を帯びた映像が醸し出す不思議なリアリズムの世界、そして何よりもブラッド・ピットの素晴らしい演技を楽しむことができたので良し(映画を見る前は父と子の役は逆じゃない?と思ったけど、父ブラピはイヤになるほど当り!)
ただ、この映画が意図したであろう“個人の物語と宇宙の営みの間に、どんな関係があるのか”という神秘的・哲学的な問いかけは、旧約聖書から引用される数々の言葉とともに、漠としてスクリーン上を漂うのみ。常に神(=創造的意志)の存在を思考・行動の規範に据える一神教の風土への違和感も手伝い、信ずる神を持たず世俗に生きる私の胸に迫ることはなかった。