2026/03/04

2月中のあれこれ②


213(金)

隣駅にあるTジョイで『クライム101』(監督:バート・レイトン/製作2026年、アメリカ・イギリス合作)を鑑賞。

一切の痕跡を残さず、また誰も傷つけることなく、高価な宝石を鮮やかに盗み取る事を己の美学とする主人公デーヴィスと彼を追う壮年の刑事ルー(地道な捜査で犯人を追う真摯な姿勢。それゆえに組織の中では邪魔者扱い)、そしてふとしたきかっけで事件に関わる事になる保険会社の女性シャロン(女性蔑視の上司によりキャリアの道を閉ざされている)の物語を軸に描かれるクライム・サスペンス。

私の好きな作家ドン・ウィンズロウ作品の映画化ということで「さて、どんなものか?」と半ば疑いながら観たのだが、そんな疑念は無用の良作(私流に勝手に解釈すると「三者三様、それぞれの人生が職業倫理の“一線”を超える物語」といった感じ)、特にラストは「そう来たか…イイね~!」と思わずニンマリする心地よさ。これほど後味の良いサスペンスもあまり見ないよなあ……と、仄かな解放感に包まれながら帰路に就いた。(余談だが…怪しいブローカー役で出演したニック・ノルティの老いた姿に、改めて月日の流れの速さを感じた)

216(月)

憲法改正「賛成」67%、高市内閣「支持」72%(産経・FNN合同世論調査)……

300万の命を失って、戦争に負けて、ようやく立てた平和の誓い(第二次世界大戦における日本の唯一の成果…と言ってもいい「日本国憲法 第2章 戦争の放棄」)。そんなに簡単に手放しちゃっていいわけ?と言うか、「国家権力から国民を守るはずの憲法を、政権の都合のよいように変えることを支持する国民」って一体何なの?

と、改めてその67%に問いたい気分の朝だった。(内閣支持72%に問う言葉は今のところ見つからない。単に自我が弱くて、強い側に付きたい人間が多いだけかもしれないし…)

221(土)

亡き母の「墓じまい」の為(遠方で行くのが大変、墓まで歩くのが大変、さらに近隣地域で“熊”出没情報も……というわけで、長兄が私の同意を得た後、自身の住まい近くの寺に「移設」を決めた)、あきる野市にある「秋川霊園」へ。

(午後1時、五日市線「武蔵増戸」駅で愚息&その妻アユちゃんと待ち合わせ。駅近くの「大勝軒」で昼食をとり、午後2時頃、現地で兄夫婦&息子のTAKESI君と合流)

小さな山の頂上にある墓の周りは綺麗に整えられ、「花粉症?」の坊さんと片付けの方がにこやかに迎えてくれた。「儀式」は15分程度で終了。(私も「おふくろ、場所が移っても会いに行くから心配しないでいいよ」と手を合わせた)

その後は、「社務所」で“一族”揃っての歓談。お互いの息子同士が意気投合している姿に、80歳を越えた兄も嬉しそうに微笑んでいた。

(後日、TAKESI君の要望で、愚息とライン交換……普段“血のつながり”など、ほとんど意識もせずに過ごしているが、こういう光景は何気に嬉しく、また気恥しくもある不思議な気分だった)

222(日)~28(土)

ネットフリックスで韓ドラを見たり、映画を観たり、図書館で借りた本を読んだり…の日々(仕事、日本語ボランティアは通常通り)。

最近の韓ドラのイチ押しは、(私もまあまあ好きな)人気女優パク・シネ主演のちょっとスリリングなコメディ『Missホンは潜入捜査中』。(パク・シネは、相場操作疑惑がある証券会社に20歳の新入社員として偽装就職し、潜入捜査を行う35歳の証券監督官を演じる)

映画のオススメは、綾野剛主演の『でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男』(監督:三池崇史/2025年製作)。(綾野剛は相変わらず上手いし、負のオーラ漂う柴崎コウはマジ怖いし……で、最後どうなる?という実際にあった事件の映画化)


本は同時並行的に2、3冊読んでいるが、寝際に枕元で読むのがこのところの日課になっている韓国のノーベル賞作家ハン・ガンの『そっと静かに』(音楽にまつわる思い出を綴ったエッセイ集)が特に味わい深い一冊。
その中で強く印象に残った一節「Let it beを抜粋して紹介したい。(彼女には、幼い子供の面倒を見つつ、指・手首の痛みに耐えながら「三年間に三篇の中篇小説を書いた」という相当ハードな生活を続けていた時期があったようで「日常生活を営むのもつらいほどに痛む手で、文章を書こうとする自分が情けなかった。いっそ、書かずに生きてみようと。できないこともないだろうと。物書き中毒に近かった十年間の習慣を封印してしまうと、恐ろしいほどの虚無感に襲われた」と本節で述べている。その時に彼女を“救ってくれた”のが言わずと知れたザ・ビートルズの「Let it be」だった)

以下、本文より。

《その年の秋、ある夕暮れ時。オーディオにCDを入れると、この歌をかけた。最初に二重窓をすべて閉めてから、最大限までボリュームを上げた。どの部屋にも陰ができないように、灯りという灯りをすべてつけた。すると家は港を旅立つ船のように、非現実的な空間になった。よく滑るように靴下をはくと、フィギュアスケートの選手のように床を滑りながら踊りはじめた。どんなダンスでもない、ただ自然と滑り出すダンス。敢えて名前をつけるなら、ぴょんぴょん、ぴょこぴょこダンス?子どもがはしゃいで私と一緒に飛び跳ね、私と一緒に床を滑った。互いの背中を押して、遠くまで滑った。「レットイットビー!」のくだりになるたびに、すーっと床を走る気分と言ったら!

曲に合わせて声の限りに歌いながらたまに泣いたりしたけれど、母親が泣いているのか笑っているのかわからないほどこの状況に興奮した子どもは、その場でジャンプを続けた。(中略)

華やかなシンセサイザーの間奏が入るたびに、狂ったようにくるくるとその場で回りながら目を閉じた。その一つ一つの音が光のようだと、生の光のようだと感じた。閉じた目に押し寄せてくる光、祝福、喜び、そのすべてだと。そう思いながら涙をふいて、またふいて、しまいにはわんわん声を上げて泣いた。あんなに大きな泣き声も、跡形もなく飲み込んでしまう音楽の中で。

(中略)

歌はいつ果てるともなく、繰り返し私に言い続けた。それこそ脳を洗い流して、私を洗脳した。

答えはあるはず。悲しみはないはず。あるがままに。ただ、そのまま、あるがままに。

「あるがままに」のほかに、どんな言葉が当時の私を救えただろうか。答えを聞かせるのではなく、答えはあるはずだという未来形。悲しむなと言うのではなく、悲しみはないはずだという未来形。なんの偽りもない歌詞。そうやって、私の体にのみで刻み込まれたような歌。》

このエッセイ集を読みながら改めて思ったが、ハン・ガンの文章は繊細なのに逞しく、そして瑞々しく美しい。

(まるで時代を過る無数の靴底に踏まれて泥まみれになった精神が、真っ白い砂や風が吹き流す言葉に洗い清められるように)

「陽光ならばいい」という後半の一節の結びも優しく胸に響いた。

《十年ほど前に書いた短編小説で、死ぬ前に三時間与えられるとしたら、太陽の光を浴びる時間に使いたいと書いたことがあった。今もその気持ちに変わりはない。その三時間のあいだ、陽光の中に全身を浸すのだ。ただし、愛するあなたと一緒に。私のいない長い時間を生きてゆくのであろう、あなたの手を握って。》

2026/03/02

2月中のあれこれ①


22(月)

日本領サイパン島の一万日』(著者・野村進/中公文庫)読了。

第一次世界大戦後に日本の委任統治領、太平洋戦争では日米の激戦地となって、五万七千(うち民間人一万数千)もの死者を出した元・日本領サイパン。移民によって開墾され、「南洋の東京」として栄えた、その繁栄と戦禍の歴史を、「楽園」を求めて南の島に渡った二つの家族を通して描いた(一気読み必至!の)傑作ノンフィクション。驚嘆というほかない地道な取材力で、忘れられた歴史を蘇らせた著者に感謝&大拍手。(ちなみに本書の“解説”は「この人が“解説”する本にハズレなし!」と以前から信頼を置いている「池澤夏樹」。やはり今回も当たり!だった)

以下「目次」

第1章 漂着/第2章 獣の島/第3章 南洋成金/第4章 南洋の東京/第5章 北ガラパン二丁目大通り/第6章 南村第一農場/第7章 海の生命線/第8章 軍島/第9章 戦禍/第10章 収容所 エピローグ 解説・池澤夏樹

※南洋開拓の主な参加者となったのは、東北や沖縄など貧困に苦しんでいた“辺境”の人々。移住先のサイパンでも、出身地により内地人→沖縄人→朝鮮人→現地人の順で待遇に差がつけられ、戦局が厳しくなって真っ先に解雇され見捨てられたのは「土人」「三等国民」と呼ばれる日々を送った現地住民(チャモロ人やカナカ人)だったそうだ。正に「大日本帝国の素顔は植民地でこそあらわになった」という証左。

午後は(1時~)、友人の純ちゃんの家で旅仲間6人が集まって「新年会」。今年の旅行は「山形・米沢」に決まった。幹事(主にプラン作成)はワタシ。

27(土)

駅前の図書館で見つけた寺山修司の『ぼくが戦争に行くとき』(1969年に刊行された単行本の文庫化)の中に「土産は、はずれ馬券」というアメリカのハードボイルド文学の先駆者ネルソン・オルグレン(何と、あのシモーヌ・ド・ボーボワール女史の恋人だったとか)との交流が綴られている一節があった。ちょっと長いが書き留めておきたい。

《(前略)ガラクタを集めるのは彼の趣味らしく、中山の競馬場では、レースのあとの散らばっている、はずれ馬券をポケット一杯にしまいこんで「仲間にいい土産ができた」などとエツに入っていた。京都に全く興味を示さないところが、いかにもオルグレンらしく、もっぱら吉原、浅草でヌード・スタジオをひやかしたりしていたが、彼自身の本領は、むしろリチャード・ライトが指摘しているように「歴史的に根こそぎにされ、定まった形を持たない階層、つまり従順で不安定で内的均衡を欠き、どの階級にも属していないが、それでいてしかも熱烈で正直で、盲目的な渇望をいつもいだいている」人たちの怒りを代弁することである。

中山のオケラ街道で、泣き買や香具師をひやかしながら、同時にアメリカのベトナム戦争の責任をきびしく弾劾するオルグレンは、きわめて体温のある作家、肉声的な作家だ、ということができるだろう。

「ジェームス・ボールドウィンをどう思うかって?」と彼はいった。

「彼は、男色家しか友人じゃないと思っているんだ。そのくせ、彼と寝るのは白人ばっかりだ」

この批評は、そのままボールドウィン文学の本質に触れるものがある。

彼にとっては全米図書賞(アメリカで最も権威ある文学賞)や、ヘミングウェイの高い評価はほとんど問題ではなく、むしろ「もはや、文学では出来なくなってしまった」領域の狩猟にだけに魅かれているように見えた。六十歳近くなっても家庭を持たないオルグレン、彼がこの日曜日に立って行った先はベトナムであった。》

読んだ後、無性にオルグレンの作品が読みたくなって、ネットで調べた所、すべて絶版&高額(中古本)。代表作『黄金の腕』(文庫)は、アマゾンで3万円……お手上げ!だった。 


午後、衆議院選の期日前投票。(既に結果は見えているし、強く推したい人もいなくて、あまり投票意欲は湧かなかったのだが)比例は「れいわ」、地方区は“仕方なく”「中道」に。

28(日)

衆議院選挙。結果は予想通り「高市自民(&電通)の圧勝」。所謂「高市鬱(うつ)・選挙鬱」の悪化を避けるべく、選挙特番も見ず、翌朝の新聞も読まなかった。それゆえ特に感想はないが、政権の側からではなく、国民の側から(特に若者の側から)事実上「大政翼賛会(の推進)」を望んだ形になったということ。

今後は恐らく、戦後民主主義もリベラルも平和憲法もあっさり捨てて、軍拡路線まっしぐら。排外主義はさらに蔓延り、スパイ防止法(という名の治安維持法)も成立、その分、福祉や医療・介護はおざなり、個人の自由は制限され、よりあからさまに「反中・親米(というか追従)」へ向かうのでしょう。

(新しい戦前ならぬ新しい大日本帝国の復活。もしくは戦前を模した「天皇を中心とした一つの新興宗教国家」への回帰……どちらにしても“日本沈没”への道の始まりでは?)

正直、老い先短い?人生。近い将来、徴兵制が導入されようが、トランプ追従で世界から冷たい視線を浴びようが、全国各地の原発がどこぞの国のミサイルやテロリストの標的になろうが「オレの知ったこっちゃないぜ」と、一人ヤケクソ気味に啖呵を切って静かに生きるほか無し……(と思ったが、まずは長い付き合いの「仲間」と楽しく呑みつつ“鬱”を労わり合うのが先決。為政者のみならず世界中の悪意・悪行に屈しないためにもね)